25年目の真実

yuzu

第1話 銀婚式






「――離婚させてください。」







 その言葉は、湯呑の縁から立ちのぼる湯気よりも静かに、しかし確かに、空気を震わせた。


 日下部蒼介は、箸を持ったまま動けなくなった。

 卓上には、祝いの席にふさわしい料理が並んでいる。……と言っても、鯛の尾頭付きとか、お赤飯といった通常の祝膳じゃない。


焼き鯖寿司に、青さのすまし汁。山菜の天ぷら盛り合わせと、筑前煮。それはどれも、蒼介の好物で、銀婚式を迎えた今夜のために、美奈子が心をこめて作ってくれた食卓だった。


 結婚25周年、

出会ってから今日までは28年間、美奈子を大切にしてきたつもりの蒼介は、美奈子から切り出された離婚話に驚いて声も出ない。


「銀婚式を迎えたら……って決めていたんです。私に、暇をください。蒼介さん」

美奈子の声は静かで、それがかえって蒼介の胸を締めつけた。


「ど、どういうことだ」

ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。


「俺が……何か悪いことをしたのか」

「いいえ」

美奈子は首を横に振った。

「蒼介さんは何も悪くありません。ただ……」


彼女は深く息を吸い込んだ。


「私が、美奈子じゃないからです」

蒼介の思考が停止した。何を言われているのか理解できない。


「覚えていますか。結婚してまもない頃、私が交通事故に遭ったこと」

「……ああ」


忘れられるはずがなかった。


あの日の恐怖は、今でも悪夢として蘇ることがある。結婚して半年、新婚生活の幸せの真っ只中で起きた突然の事故。トラックに跳ねられた美奈子は、頭部を強く打って意識不明に陥った。


「生死を彷徨って、三日目に目が覚めた。覚えていますよね」

「当たり前だ。お前が目を開けた時、俺は……」

声が詰まった。


「でも、目を開けたのは美奈子さんじゃなかった」


彼女は、まっすぐに蒼介を見つめた。


「あの事故で、日下部美奈子さんは死んだんです。蒼介さんの愛した、本物の奥さんは」

「何を……」

「そして、その体に入ったのは……私。事故を起こした、トラックの運転手だった女です」


蒼介の血の気が引いた。

「あの事故で、私も死んだんです。ハンドル操作を誤って、美奈子さんを跳ねて。自分も車ごと電柱に激突して。

気がついたら、病院のベッドで目を覚ましていました。でも、そこにいたのは蒼介さんで、鏡に映った顔は私じゃなかった」


彼女の声が震える。

「美奈子さんの記憶なんて、何もなかった。ただ、私が殺してしまった女性の体に、私の魂が入っていた。周りの人たちは奇跡的な回復だと喜んでいたけれど……私は、自分が何をしてしまったのか理解していました」

「じゃあ、今まで……」

「全部、演技です」


彼女は自嘲するように笑った。


「蒼介さんとの思い出も知らない。美奈子さんがどんな人だったかも分からない。ただ、周りの反応を見て、写真を見て、必死に美奈子さんを演じてきた」


蒼介は言葉を失った。


「医者は記憶障害だと言いました。蒼介さんは優しく、ゆっくり思い出せばいいと言ってくれた。でも、思い出せるはずがなかった。私は美奈子さんじゃないから」

「25年間……ずっと?」

「ええ。毎日、毎日、美奈子さんのふりをして。蒼介さんを騙して。娘を産んで、育てて。全部、私が奪った女性の人生を生きてきた」


彼女の目から、ついに涙が溢れた。

「娘が独立した時、やっと思ったんです。もう、罪を重ねるのはやめようって。これ以上、蒼介さんの人生を騙し続けるのは、もうできないって」

「なぜ……なぜ今まで黙っていた」

「言えるわけがありません」


彼女は声を震わせた。


「『あなたの妻を殺したのは私です』なんて。娘がまだ小さい頃に、そんなことを言えるはずがなかった」

リビングに、重苦しい沈黙が落ちた。

時計の秒針だけが、容赦なく時を刻む。

「蒼介さん」

彼女は立ち上がった。

「離婚してください。私は、あなたの妻じゃない。ただの……殺人者です」

「待て」


蒼介も立ち上がろうとして、膝が震えて座り込んだ。


「待ってくれ。俺は……俺は……」


何を言えばいいのか分からなかった。

28年間愛してきた妻が、妻を殺した女だったという。

その事実が、蒼介の世界を根底から覆した。


「考える時間を……」

「もう、25年も考えました」

彼女は静かに言った。

「答えは出ています。どうか、私を解放してください。そして、蒼介さんも……本当の美奈子さんとの思い出だけを、大切にしてください」


彼女は部屋を出て行った。

残された蒼介は、床に座り込んだまま、動けなかった。


愛した妻の笑顔が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

あの笑顔は、全て嘘だったのか——。

いや、と蒼介は思う。


あの笑顔を浮かべていたのは誰であれ、確かに自分の隣にいてくれた。娘を愛し、家庭を守り、25年間を共に生きてくれた。


それは、嘘だったのだろうか。

蒼介は顔を覆い、初めて声を上げて泣いた。

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