第一話 八千代の夏 中

 笹飾りがさらさらと鳴っている。


 廊下を踏み鳴らしながら自室へ向かう途中、女中に「坊ちゃん! 今からみんなで夕飯やで!」と声をかけられたが、國春は構うことなく通り過ぎた。


 胸が、頭が、ぐるぐると回っていて、落ち着かない。

 村人の笑い声が、統一郎の笑い声が、國春には耳障りで仕方がなかった。





 井戸端の喧騒けんそうから逃げるように縁側を離れた國春は、家屋の最奥へ続く細い廊下を歩いていた。

 ひとの気配のある方に行きたくなくて、けれど自室へ戻ることも気が重かった。



 八尾の邸宅は、今や國春の家ではなかった。


 形の上では本家の、國春の屋敷でも、実際に家のことを取り仕切っているのは、分家の嫁――エリカだ。




「まあ、統一郎さまが跡継ぎやなんて……滅多なこと言うもんちゃうで」


 行くあてもなく自室の前に國春が立ち尽くした時、隣にある女中部屋から、女たちの声が聞こえてきた。


 その声に、國春の身体は強張る。


「せやかて、一時はどないなるか思ったけど……これで八尾も八千代も安泰やなぁ」


「ほんまに」


 収まりかけていた國春の胸中が、再びざらざらと荒れ狂う波のように乱れ始める。



 俺の家だったのに。



 そう怒鳴り込んでやろうと口を開くも、何も声にならない。

 言ったところで、皆困ったように笑うか、國春を宥めるだけだ。




 父と兄が海で死に、その後母が國春を東京の実家に連れ戻ったのは、村人たちが「跡継ぎを死なせた母親」と陰で囁き後ろ指を指したからだった。



 八千代村を離れる最後の夜、母の背中は随分と小さく見えた。


 東京へ行ってからの母は、笑うでもなく泣くでもなく、ずっと静かだった。


 息を潜めて暮らし、位牌すら持ち出せなかった母は、父と兄が笑っている写真に手を合わせるばかりだった。


 それでも噂と視線から、耐えられなかったのだろう。




 学校へ、母が死んだという報せが届いた時、國春は泣くよりも先に「やっと母が穏やかに眠れる」と安堵したのだった。



 母方の祖母らの反対も無碍むげに、八尾の親類らに連れられて戻った八千代村には、國春の居場所はもうなかった。


 叔父は穏やかなひとだが、國春の父が死んでから、逃避するように仕事に没頭し、家に帰ることはほとんどない。


 家主が不在の八尾家を回しているのは、その嫁であるエリカだった。



「統一郎さまはえらいわ。ほんまによう務めはった」


「ほら、エリカさんがしっかりしてはるから」



 そこにエリカの声は混じらない。


 しかし家の中には常にエリカの気配があり、エリカの身につける強烈な水仙の香水が満ちている。



 言葉を交わさずとも、國春にはエリカが己のことを疎ましく思っていることは、痛いほどに伝わってきていた。


 國春はそっと壁に手をつく。


 知らぬ間にエリカが命じて塗り替えてしまったという真っ白な土壁は、湿気でぬかるんでいるように感じた。

 呼吸が速くなり、後頭部のざわつきが酷くなっていく。


 ……全部、沈めばいいのに。


 國春の胸に抱えられる衝動は、いつもこれに行き着く。



 井戸だ。


 八尾家の象徴であり、村の誇りでもあり、生命線でもある、井戸。

 この井戸があるから、國春はいつまで経っても八尾を離れることも出来ず、母方の祖母らの元へいくこともできない。



 あれがなくなれば――きっと、全て、終わる。



 その思いは、乾いた土に落とされる雫のように、じっとりと國春を満たしていった。

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