聖女の涙は魔王の笑みに消え、戦神は二度と振り向かない
@flameflame
第一話 魅了の聖女は勇者に抱かれ、最強戦士は静かに消えた
王都の東門から朝日が差し込む頃、ヴェルグ・アシュフォードは訓練場で剣を振っていた。彼の剣筋には一切の無駄がない。音もなく空気を裂く刃は、見る者が見れば、それが王国最高峰の技術であることを理解しただろう。だが、この早朝に彼の姿を見る者はいない。ヴェルグはいつもそうだった。名声を求めず、ただ黙々と己を磨く。
剣を鞘に収めた時、訓練場の入口に人影が現れた。白い聖衣を纏った女性。リリエッタ・セレスフィアだ。彼女の柔らかな栗色の髪が朝の光に輝いている。
「リリエッタ」
ヴェルグは呼んだ。
「ヴェルグ」
彼女は微笑んだ。二人の間には言葉はいらなかった。幼い頃から共に過ごし、喜びも悲しみも分かち合ってきた。十年越しの婚約者。魔王討伐の旅が終われば、二人は正式に夫婦となる予定だった。
「今日は休みが取れたの。一緒に朝食を食べない?」
リリエッタの提案に、ヴェルグは頷いた。二人は王都の市場近くにある小さな食堂へ向かった。ヴェルグは多くを語らない男だが、リリエッタといる時だけは、わずかに表情が緩む。
「ねえ、ヴェルグ。旅が終わったら、どこに住もうか」
リリエッタが紅茶を啜りながら尋ねた。
「どこでもいい。お前が望む場所に」
ヴェルグの答えはいつも簡潔だ。だが、その言葉には彼女への深い愛情が込められている。リリエッタはそれを理解していた。
「私ね、王都から少し離れた場所がいいな。静かで、二人だけの時間が過ごせる場所」
「それがいい」
ヴェルグは短く答え、リリエッタの手をそっと握った。彼女は顔を赤らめ、嬉しそうに微笑んだ。その穏やかな朝の時間は、やがて訪れる悲劇の序章だった。
数日後、王宮から召喚状が届いた。聖女リリエッタに対し、勇者パーティへの参加命令。魔王討伐の旅に同行せよ、と。ヴェルグは即座に決断した。婚約者を一人で危険な旅に送り出すわけにはいかない。彼もまた、戦士として勇者パーティへの参加を志願した。
王宮の謁見の間で、ヴェルグは初めて勇者と対面した。セリオス・ルミナール。異世界から召喚されたという若者は、整った顔立ちに爽やかな笑顔を浮かべていた。
「君がヴェルグか。噂は聞いているよ。王国最強の戦士だって」
セリオスは親しげに声をかけてきた。だが、ヴェルグは直感的に違和感を覚えた。この男の笑顔の奥に、何か不自然なものを感じる。
「よろしく頼む」
ヴェルグは短く答え、それ以上の言葉を交わさなかった。勇者パーティは五人編成となった。勇者セリオス、聖女リリエッタ、戦士ヴェルグ、魔法使いのエルディナ、盗賊のカイツ。
旅が始まって最初の数週間は順調だった。ヴェルグの戦術眼と剣技は圧倒的で、どんな魔物も彼の前では無力だった。リリエッタの治癒魔法は仲間たちの命を何度も救った。だが、ヴェルグは次第に異変に気づき始めた。リリエッタの様子がおかしい。彼女は以前よりも頻繁にセリオスの側にいるようになった。セリオスが話しかければ、彼女の目は輝き、彼の冗談に過剰に反応する。
ヴェルグがそれを指摘すると、リリエッタは不思議そうな顔をした。
「気のせいよ。勇者様は素晴らしい方だから、尊敬しているだけ」
その言葉に嘘はないように見えた。だが、ヴェルグの胸に小さな棘が刺さった。旅が二ヶ月目に入った頃、状況は決定的に変化した。
ある夜、ヴェルグは森の中で見張りをしていた。他の仲間たちはテントで休んでいるはずだった。だが、リリエッタのテントから人影が出てくるのが見えた。セリオスだった。ヴェルグの心臓が嫌な予感で締め付けられる。彼は音もなく近づき、わずかに開いたテントの隙間から中を覗いた。
そこで見たものが、ヴェルグの世界を破壊した。リリエッタがいた。だが、彼女は聖女の清廉な姿ではなく、乱れた衣服で、セリオスに抱きつきながら、恍惚とした表情を浮かべていた。
「勇者様、愛しています」
リリエッタの声。それは確かに彼女のものだった。ヴェルグの手が震えた。剣の柄を握る指に力が入らない。セリオスがリリエッタの唇を奪う。彼女は抵抗せず、むしろ求めるように応じた。ヴェルグは一歩後退した。音を立てないように、静かに、静かに。彼はそのまま森の奥へと歩いた。どれくらい歩いたのかわからない。気がつけば、夜明け前の空が白み始めていた。
ヴェルグは立ち止まり、大きく息を吐いた。胸の奥が冷たく、重い。信じたくなかった。何かの間違いであってほしかった。だが、現実は残酷だ。
翌朝、ヴェルグがキャンプに戻ると、リリエッタは何事もなかったかのように笑顔で彼を迎えた。
「おはよう、ヴェルグ。今日もいい天気ね」
彼女の声は明るく、昨夜の情事など微塵も感じさせない。ヴェルグは何も言わなかった。ただ、黙って頷いた。その日の戦闘で、ヴェルグはいつも通り完璧に敵を制圧した。誰も彼の内心の嵐に気づかなかった。だが、その夜、ヴェルグは再び確信した。リリエッタとセリオスが、またテントの中で抱き合っているのを。
三日後、ヴェルグは決断した。彼はリリエッタを呼び出した。夕暮れの森の中、二人きりで向き合う。
「リリエッタ、聞きたいことがある」
ヴェルグの声は静かだが、その重さにリリエッタは戸惑いを見せた。
「なに、ヴェルグ?」
「お前と勇者の間に、何かあるのか」
リリエッタの表情が一瞬凍りついた。だが、すぐに彼女は笑顔を作った。
「何を言っているの? 勇者様は素晴らしい方だけど、私にはあなたがいるじゃない」
その言葉は、まるで台本を読んでいるかのように空虚だった。ヴェルグは彼女の目を見つめた。その瞳には、かつて彼に向けられていた愛情の光がなかった。
「そうか」
ヴェルグはそれだけ言って、背を向けた。
「待って、ヴェルグ!」
リリエッタが彼の腕を掴んだ。
「どうして急にそんなことを聞くの? 私たち、婚約者でしょう? 信じてよ」
ヴェルグは振り返らなかった。
「ああ、信じている」
その言葉は嘘だった。だが、ヴェルグはこれ以上何も聞きたくなかった。
それから一週間後、決定的な瞬間が訪れた。ある町の宿屋に滞在していた夜、ヴェルグは廊下でリリエッタとセリオスが密会しているのを目撃した。二人は周囲を気にせず、情熱的に抱き合っていた。ヴェルグが姿を現すと、二人は驚いて離れた。だが、リリエッタの表情には罪悪感ではなく、むしろ苛立ちが浮かんでいた。
「ヴェルグ、あなた、いつも監視しているの?」
リリエッタの声は冷たかった。
「それは、俺が聞きたいことだ」
ヴェルグの声も、同じように冷たかった。セリオスが間に入った。
「ヴェルグ、落ち着いてくれ。誤解だ」
「誤解?」
ヴェルグは静かに笑った。その笑みには、何の温度もなかった。リリエッタが突然叫んだ。
「そうよ、誤解よ! あなたはいつもそう。何も理解していない!」
彼女の言葉にヴェルグは黙った。リリエッタは興奮した様子で続けた。
「あなたなんて、最初から好きでもなんでもなかった! 勇者様こそが、私の本当に愛する人なの!」
その言葉が、ヴェルグの心を完全に砕いた。彼は何も言わず、ただ二人を見つめた。その目には、深い悲しみと諦めが宿っていた。
「わかった」
ヴェルグはそれだけ言って、部屋に戻った。
翌朝、勇者パーティが目を覚ました時、ヴェルグの姿はどこにもなかった。彼の荷物も、彼の剣も、全てが消えていた。まるで最初からいなかったかのように。セリオスは困惑した表情を浮かべた。
「ヴェルグが抜けた? まあ、仕方ないか。俺たちだけでも魔王は倒せる」
リリエッタも頷いた。
「そうね。勇者様がいれば大丈夫」
だが、その判断が、やがて全ての破滅を招くことになる。
ヴェルグが去ってから、勇者パーティの戦闘は明らかに苦戦し始めた。ヴェルグがいた時は、彼の戦術眼と剣技で戦闘は常に優位に進んだ。だが、彼の不在は想像以上に大きかった。魔物の攻撃パターンを読み、的確に指示を出し、危機的状況を一瞬で打開する。それら全てをヴェルグが担っていたのだ。最初の戦闘で、盗賊のカイツが重傷を負った。リリエッタの治癒魔法で命は取り留めたが、完全回復には数日を要した。
セリオスは苛立ちを隠せなかった。
「ちくしょう、ヴェルグの野郎、こんな時に抜けやがって」
だが、誰もヴェルグを探しに行こうとはしなかった。リリエッタも、セリオスに魅了されたまま、ヴェルグのことなど忘れたかのように振る舞った。それから三ヶ月、勇者パーティは苦難の連続だった。魔法使いのエルディナが魔物の毒で死にかけ、カイツは左腕を失った。それでも、彼らは魔王城までたどり着いた。
魔王城の玉座の間。そこには、漆黒の鎧を纏った魔王ゼルギウスが座っていた。彼の瞳は深紅で、冷徹な知性が宿っている。
「よく来たな、勇者よ」
魔王の声は低く、重い。セリオスは剣を構えた。
「魔王ゼルギウス、お前を倒しに来た!」
魔王は立ち上がった。その巨体から放たれる魔力は、勇者パーティ全員を圧倒した。戦闘が始まった。だが、それは戦闘と呼べるものではなかった。一方的な蹂躙だった。セリオスの剣は魔王に届かず、リリエッタの魔法は無効化され、カイツとエルディナは一撃で戦闘不能に陥った。
魔王はセリオスを片手で掴み上げた。
「貴様のような愚か者が勇者とは笑わせる」
そして、魔王はセリオスの額に手を当てた。黒い光がセリオスの体を包む。
「貴様には全てのスキルと能力を封じる呪いをかける。二度と力を振るうことはできぬ」
セリオスは絶叫した。だが、その声も次第に弱まっていった。魔王はセリオスを床に投げ捨てた。
「去れ。貴様らに用はない」
勇者パーティは命からがら魔王城を脱出した。だが、その時、リリエッタの心に異変が起きた。魔王の呪いによって、セリオスの全てのスキルが封印された。その中には、絶対魅了のスキルも含まれていた。リリエッタの意識に、突然、霧が晴れるような感覚が訪れた。
彼女は立ち止まり、周囲を見回した。ここはどこ? 私は何をしていた? そして、記憶が戻ってきた。セリオスに抱かれた夜。ヴェルグを裏切った瞬間。あの時、自分が言った言葉。あなたなんて、最初から好きでもなんでもなかった。リリエッタの顔から血の気が引いた。
「違う、違う、違う!」
彼女は頭を抱えて叫んだ。
「私は、私は何をしたの! ヴェルグ、ヴェルグ!」
だが、ヴェルグはもうどこにもいなかった。
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