カフェー女給、令嬢の身代わりに嫁いだら愛されました~大正いつわり花嫁の婚姻譚~
卯月みか
第1話 いつわりの結婚
黒引き振袖姿の標野琴絵しめのことえは、居心地の悪い思いで、境内の玉砂利を踏みしめた。目の前を歩く青年の背中を見つめる。羽織袴を身に着け、立ち姿の美しい彼は、琴絵の夫になる
今日初めて顔を合わせた憲斗は、花嫁姿の琴絵を見ても、まるでこの婚儀が自分事ではないような冷めた目を向けただけだった。
(旦那様は、どのような方なのかしら……)
先々を考えると不安になる。
ゆっくりと歩きながら神前へと向かう琴絵の頭上で、花嫁の気持ちとは裏腹に、桜が爛漫と咲いていた。
*
琴絵の実家はかつて伏見で造り酒屋を営んでいた。今は亡き父の
庶民の娘ながら、邦彦の方針で女学校に通わせてもらっていた琴絵は、卒業後は経営面で父の仕事を手伝いたいと勉学にも励んでいた。母は早くに亡くなっていたが、優しい父と弟、気のいい杜氏と蔵人たちに囲まれて、琴絵は毎日幸せだった。
けれど、幸せに陰りが見え始めたのは、琴絵が十四歳の時。その年の酒が腐造したのだ。蔵は汚染し、数年間の影響が出た。経営は悪化し、酒造りを続けることが難しくなってしまった。
標野家が困窮していく中、琴絵は女学校に通うことができなくなり、退学せざるを得なくなった。仲の良かった友人たちは、手のひらを返したように冷たくなり、琴絵は胸を痛めた。
家族で内職をしたり、家財を切り売りしたりして生活をしていたが、心労が祟ったのか、父は病床についてしまった。
「お前に良い嫁ぎ先を見つけてやりたかった」と悔やむ父に、琴絵は力強く声をかけた。
「私はお嫁になんて行きません。将来は、お父様の仕事を手伝いたいと思っていました。お父様、今からでも遅くありません。必ず造り酒屋を復活させましょう。だから早く元気になって」
「お前のように賢い娘なら、どこへ嫁いだってやっていける。良い方を見つけなさい」
父はそう言い残し、亡くなった。
父の死後、琴絵が生まれ育った造り酒屋は売却を余儀なくされた。
働いていた杜氏たちは既に蔵を去っており、弟と二人で取り残された琴絵は、家を出て古い下宿へ移り住んだ。
必死に日々を過ごしているうちに、気が付けば十八歳の春を迎えていた。
*
カフェーロイアルの女給たちの控え室で、琴絵は自分のエプロンを見つめて途方に暮れていた。昨日、持って帰るのを忘れてしまったエプロンは控え室の中に残っていたものの、鋏でずたずたに切り裂かれていた。
(これから仕事なのに、どうしましょう……)
支配人に頼んで予備のエプロンを貸してもらおうか。けれど、どうしてこんな状態になったのだと聞かれたら、ややこしいことになってしまいそうだ。悩んでいたら、
「あら、琴絵さん。お疲れ様」
同僚の女給、耀子ようこが部屋に入ってきた。
「耀子さん。お疲れ様です。休憩ですか?」
「ええ、そうよ……って、どうしたの? そのエプロン!」
琴絵の手元を見た耀子が目を剥く。
「遅出で出勤したら、昨日忘れて帰ったエプロンがこうなっていたのです」
困り顔で説明すると、耀子は「ひどい!」と憤慨した。自分の荷物の中から急いで別のエプロンを取り出し、琴絵に差しだす。
「きっと胡蝶こちょうさんと取り巻きたちの仕業ね。今日は私のエプロンを使えばいいわ」
「お借りして良いのですか?」
「ええ。それ、予備のものなの」
にこりと笑って琴絵の手にエプロンを押しつける。琴絵は感謝の気持ちで、耀子に向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「私、胡蝶さんたちからの嫌がらせに負けずに頑張っている琴絵さんのこと、応援しているの」
耀子に励まされ、胸が熱くなる。
琴絵は手早く借りもののエプロンを身に着けると、耀子にもう一度「お疲れ様です」と挨拶をして控え室を出た。
薄暗い通路を歩いて店内へと向かう。
扉を開けて中に入ると、きらびやかなシャンデリアの光が目を射した。
派手な色の壁紙には、洋画が掛かっている。
バーカウンターの中では、男性ボーイがお酒を作り、華やかな銘仙の着物に白いエプロンを胸高に結んだ女給たちは、軽やかに店内を回り料理と飲み物を運んでいる。女給の歳は十七歳から二十三歳の間が多い。皆、美しい容姿をしている。
今日もカフェーロイアルは男性客で賑わっていた。座席で接客をしている女給たちは、男性客の隣に座り、顔を寄せ合いながら談笑している。親密な雰囲気になると、衝立で仕切られた席に移動する者もいる。彼女たちの収入は、いかに客に気に入られてチップをもらえるかにかかっているのだ。
「琴絵さん、二番テーブルに入って。ご指名だよ」
琴絵の姿に気が付いた男性ボーイが声をかけてきた。
「はい」と答えて指示されたテーブルに向かう。
「お待たせ致しました」
一礼して顔を上げる。見目のいい青年と、取り巻きらしき若者が二人、琴絵を待っていた。
琴絵は彼らの顔に見覚えがあった。青年は俳優志望の三ツ
(この方たちは、胡蝶さんのお客様では……)
カフェーロイアルいちの人気女給であり、ダンサーの古河ふるかわ胡蝶の顔を思い出す。琴絵は彼女に目の敵にされている。琴絵のエプロンをずたずたにしたのも、彼女の仕業に違いない。勝手に胡蝶の得意客の接客に付くと、何をされるかわからない。
戸惑っている琴絵に気付いたのか、三ツ橋が、
「胡蝶さんならいないよ。今、邨瀬さんと踊ってるから」
と天井を指差した。
カフェーロイアルの二階はダンスフロアになっているのだ。
三ツ橋が琴絵の手を取った。強引に引っ張られて、否応もなく彼の隣に腰を下ろす。
「寂しい僕たちをもてなしてよ、琴絵ちゃん」
肩に腕を回され、顔を近づけられた。かなり酒が入っているのか、息が臭い。
指名客を邪険にすることもできず、琴絵は努めて笑顔を浮かべ、ビールの瓶を手に取った。
「お酒をお注ぎいたします」
三ツ橋のグラスにビールを注ぐ琴絵を、尼野と小松田がにやにや笑いながら見ている。
「三ツ橋さん、その子、琴絵って言うんですか?」
「結構上玉ですね」
「そうだろ? 胡蝶さんよりも若いし、可愛い――」
三ツ橋がそう言いかけた時、
「あら、ひどいおっしゃりようですこと」
頭上から高飛車な声が聞こえた。
どきっとして顔を上げると、いつの間に戻ってきたのか、胡蝶が腰に片手を当て、琴絵を見下ろしていた。胸元の開いたドレスを着ていて、髪は結い上げている。まつげが長く、垂れ気味の目もとは色っぽい。
隣には五十絡みの男性が立っている。すらりとした胡蝶よりも背が低く小太りなこの男性が、邨瀬吉治だった。
「嘘ですってば、胡蝶さん。カフェーロイアルに胡蝶さんより綺麗な子はいません」
三ツ橋が琴絵から手を離し、慌てた様子で調子のいいことを言う。
胡蝶は「ふん」と鼻を鳴らすと、琴絵の着物の胸元を掴んで、椅子から立ち上がらせた。そのまま突き飛ばされ、よろめいた琴絵は床に倒れた。
「違う子を呼ぶなんてひどいわ、三ツ橋さん」
「胡蝶さんが邨瀬さんのお相手ばかりするから、寂しかったんですよ」
「ふふ、ごめんなさい。私、邨瀬さん一筋だもの」
胡蝶が邨瀬に色っぽい流し目を向ける。
邨瀬は鷹揚な笑みを浮かべて、胡蝶の手を取り、二人並んで長椅子に腰を下ろした。
「胡蝶に構ってもらおうなんて、百年早いよ、三ツ橋君」
床に膝をついていた琴絵は、彼らの会話の邪魔をしないよう、静かに立ち上がろうとした。その後頭部に、胡蝶が、三ツ橋のグラスに入っていた酒をぶっかける。
「ぬるくなっているみたいよ。早く新しいお酒をお持ちして」
琴絵の髪の先から酒が滴り、襟足を濡らす。琴絵は表情を変えずに立ち上がり、四人に向かって丁寧に頭を下げた。
「はい、かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
「胡蝶さん、やりすぎだってば」
「あら、そうかしら? 後輩を指導しただけだけれど」
「先輩は怖いなぁ」
胡蝶と三ツ橋たちの笑い声を背中で聞きながら、琴絵はバーカウンターへ向かった。
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