ガチ恋を殲滅したい。
@gachikoi_1114
ガチ恋を殲滅することを決めた日。
「ガチ恋を殲滅したいんだよね」
氷の溶けかけたグラスをテーブルに置いたまま、紗由は、だれも見ていないテレビの音よりも、少しだけ大きな声でそう言った。
「ガチ恋?」
聞きなれない単語が耳に引っかかって、思わず聞き返す。
「うん、ガチ恋」
紗由は、冗談を言っているときのような、気の抜けた顔ではなく、まっすぐこちらを見ていた。
「なんかね、私、ガチ恋されてるみたいなの」
「……それって、リアルで?」
目の前の少女――うちの妹は、身内の贔屓目なしに見ても「まあまあかわいい」と言って差し支えない容姿をしている。そこそこぱっちりした目元に、あまり主張しない鼻筋。健康的で艶やかな髪。クラスで1番、というわけではないが、3,4番目くらいにはかわいいと主張できそうだ。
ただ、彼氏がいるという話は聞いたことがなかった。少なくとも兄の前で匂わせるようなタイプではない。
「いや、ネットでね。毎日のように求婚されてんの」
「求婚?」
自分の口から出た言葉が、部屋の空気の中で少し浮いた。
「うん、求婚」
紗由はそう言って、噛んで先がつぶれたストローで、グラスの中の氷をかき回す。氷とガラスがぶつかるカランと乾いた音が、耳に響いた。
ガチ恋――。
そのままの体勢で、テーブルの上に置いていたスマホを手に取る。検索窓に指を滑らせると、予測変換の候補に「ガチ恋 意味」と出てきた。そこをタップすると、いくつかのサイトが一斉に並ぶ。その中のひとつ、見覚えのあるイラストサイトの百科事典ページを開く。
画面には、こんな説明が表示された。
――ガチ恋。実在するアイドル、俳優や声優、ミュージシャン、タレント、YouTuberやバーチャルYouTuberといった芸能人(また、一部二次元のキャラクター)など、恋愛関係に至ることができないような存在に対し、ファンの域を超えて本気で恋をしてしまう現象、またそのような想いのこと。
表示された文章を目で追いながら、なるほど、と一応は納得する。
自分だって、好きな作品のキャラクターに妙な親近感を覚えたり、テレビやネットで見かける有名人に対して「一回でいいから話してみたいな」なんて思うことぐらいはある。
その延長線上に、どうしようもなくこじれた感情が生まれてしまうこともあるのだろう。
それにしても――。
「ちょっと待って。紗由ってさ、インターネットで活動かなんかしてたの?」
画面から顔を上げて問うと、紗由は「あっ、そっか」とでも言いたげに、今さら何かを思い出したような表情になった。
肩を小さくすくめて、少しだけ申し訳なさそうに笑う。
「うん、お兄ちゃんは知らなかったと思うけど、この春から事務所に入って、配信活動とかやってるよ」
そうだったのか。
お兄ちゃん、初耳です。
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、代わりに心の中で皮肉っぽくつぶやく。
多分、この様子だと、知らないのは家族の中で俺だけだろう。
俺は今、実家を出て一人暮らしをしている。今日ここに顔を出したのも、たまたまバイトが早く終わったからに過ぎない。親とこまめに連絡を取り合うような性格でもないし、その結果として、俺だけ知らなかっただろう。
内心ではかなりの衝撃を受けつつも、それを表情に出すのはなんとかこらえて、元の話題へと舵を戻す。
「で、なんでガチ恋殲滅したいの」
スマホを画面を下にしてテーブルへ置きながら、あらためて尋ねる。
調べたかぎりでは、ガチ恋勢というのは、ざっくり言えば、熱心すぎるファン――少なくとも、表面上はそういう印象だ。わざわざ「殲滅」などという物騒な言葉を使うのはなぜなのだろうか。
紗由は、ふう、と小さく息を吐き、視線を天井へと向けた。
「私のね、Xのアカウント。月宵空つきよい そらって名前で活動しているんだけど、毎日DMで顔写真とか、それに合わせて求婚のメッセージが飛んでくるの」
まだ十九歳。法律的にも、世間的な感覚からしても、結婚という言葉が似合うには少し早い年齢だ。その妹に向かって「求婚」という単語が、日常のように投げかけられているのだとしたら、兄としては、どう受け止めればいいのか戸惑う。
「『結婚を前提にお付き合いしてください』とか、『一生幸せにする自信があります』とか。そういうのがさ、ほぼ毎日のように届くの」
淡々と説明しながらも、紗由の指先はグラスの縁をゆっくりとなぞる。
「最初はさ、ストレートに好意を伝えてくれるのがうれしかったんだけどね。本腰いれて配信活動をし始めてから、そういうDMがどんどん増えてってさ。『結婚指輪買うから何号か教えて』とか、『住所教えてください。直接話しましょう』とか言ってくる人も出てきて、だんだんだけど、なんだか怖くなってきちゃって」
グラスの縁をなぞる指が、心なしか震えているように見えた。
「うーん、あんまり迷惑ならブロックしたらいいんじゃないか?」
俺の感覚では、それがいちばん単純で、いちばん確実な対処法に思えた。
嫌な相手をシャットアウトするために、わざわざ備えられている機能なのだから、それを使えばいい――そう、理屈では思う。
しかし紗由は、少し困ったように口をへの字に曲げて、首を横に振った。
「いやー、一応配信見てくれてるファンだしね。よく見る人ならブロックせずに、やんわりと断ってるよ。それにブロックしたら、それこそ反転アンチみたいになりそうで怖くない?」
反転アンチ。
たしかに、ありうる話だ。
熱心であればあるほど、期待を裏切られたときの反動も大きくなる。
画面の向こうの見知らぬ誰かの好意が、ある日突然、妹にとっての「危険」に変わるかもしれない。そう考えると、さきほどまでどこか他人事のように感じていた「ガチ恋」という言葉が、急に現実味を帯びてくる。
「だからね、平和的に、でも着実にガチ恋人を減らしていきたいの」
紗由はグラスから指を離し、こちらを見据えた。
目指すは殲滅――と、彼女は静かに言う。
「でね、私考えたの。ガチ恋を殲滅する方法」
ほう、と心の中で相槌を打つ。
どんな妙案が飛び出してくるのか、半分は純粋な興味、半分は嫌な予感がくすぶるなか、耳を傾ける。
「実はね、お兄ちゃんにVtuberデビューしてほしいんだ」
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