第20話:奇跡の治療 -4-

──朝食を終えると、国重くにしげは縁側で一息ついてから、ゆっくりと立ち上がった。


「さて……今日は草刈りの日じゃったな。畑の様子を見てこようかのう」

さきが慌てて立ち上がり、肩にかけた上着を整えながら声をかける。

「朝からそんなに張り切ったら、草より先におじいさまが倒れますよー?」

「はっはっはっ、心配せんでもええ。歩くだけじゃ」

国重は笑いながら杖を握り直し、戸口の方へと向かっていった。


ゆるやかに温まった庭石を踏みしめ、背筋を伸ばして歩き出す。

先日の立ち眩み以来、体にはまだだるさが残っていた。

それでも彼は、村のために汗を流す若者たちを、励まさずにはいられなかった。


──そのころ、畑ではすでに数人の若者たちが草刈りの準備を始めていた

畑の脇では、三人の若者が鎌の刃を並べ、砥石を使って丁寧に研いでいた。

刃の表面をなぞるたび、しゃり、しゃり──と規則正しい音が、畑の空気に溶けていく。


「よし、こんなもんでええか」

ひとりがそう言って立ち上がると、他のふたりも次々に研ぎ終えた鎌を手に取った。

若者たちは畑の端に並び、雑草の茂った地面に刃を向けた。


「そっち、日がよく当たるところ頼む」

「おう、根っこが浅いとこだな」

金属の擦れる音が途切れ、今度は草を刈る、ざくっ、ざくっ──という音が、畑に広がっていった。

鎌が草を裂く音が、一定の間隔で繰り返される。

誰ひとり言葉を発することなく、それぞれの腕が、慣れた調子で畑の草を刈り進めていた。


刃が根を裂き、土を巻き込むようにして、雑草がざくっという重たい音を残して倒れた。

「このへん、根が深いな」

「日が当たらねえところは、草の根がしぶとく残るんだ。日陰は厄介だな」

「こういうとこはな、こう入れるんだ」

そう言いながら、先輩の男は刃の角度を少し変え、根の深い草を難なく切り落とした。

隣の後輩が「なるほど」と目を見張る。


少し離れたところでは男が二人、刈られた草を束ね、陽のよく当たる場所へとせっせと運んでいた。それぞれが縄で袖をくくり、黙々と手を動かしていたが、言葉の端々には、どこか楽しげな響きがあった。


そこへ、畦道の奥からゆっくりとした足音が近づいてくる。

杖を頼りに現れたのは、国重だった。

「よう働いとるのう」

声をかけると、若者たちは一斉に手を止め、軽く頭を下げる。


「おはようございます、国重さま」

「今日は草の刈りどきでして」

「そりゃあ、ええこっちゃ。誰かがやらねばならんことを、こうして黙々とやれるのは立派なことじゃ」

彼らが土に膝をつき、額に汗を浮かべながらも笑い合うその姿が、何ともいえず嬉しかった。

──この村は、大丈夫だ。そう思える瞬間が、何より誇らしかった。


国重は畑の縁に腰を下ろし、若者たちの動きを静かに見守った。

畑の奥、山へと続く畦道の向こうから、薪の束を背にした少年が歩いてきた。

手には山菜の入った籠を抱え、どうやら少年は裏山のほうから戻ってきたばかりのようだった。


少年の姿に気づくと、国重は笑みを浮かべて声をかけた。

「おお、えらいのう。薪なんぞ、よう拾うてきた」

少年は少し照れたように笑い、ぺこりと頭を下げた。


「……おはようございます。母に頼まれて、薪を拾ってきたところです」

「そうかそうか。朝からよう頑張った。感心じゃ」

少年は籠を脇に置きながら、畑のほうへ目を向けた。


「皆さん、すごいですね……あんなに早く、ずっと動いていて」

国重もそっと視線を向け、微笑みながら、若者たちの姿を見守った。

「若いというのは、それだけで宝じゃ。体はよう動く、心が折れぬ、それが何よりの強さよ」


少年はしばらく国重の隣に立ち、草を刈る若者たちの姿を見つめていた。

鎌の音が一定のリズムで響き、草いきれの匂いが風に乗って漂ってくる。

「……空が、まぶしくなってきましたね」

そう言って、少年がふと空を仰いだ。


国重もそっと目を細め、空を見上げた。

「もう、昼が近いの。太陽がこうして真上に来ると、風の向きまで変わる」

「さっきまで涼しかったのに……暑くなってきました」

少年は額の汗をぬぐいながら、籠を持ち直した。


「日が強うなると草はすぐ伸びる。見た目は地味でも、草刈りは大事な仕事じゃ」

「そんなにすぐ伸びるんですね、草って……」

「そうじゃ。人も草も、そう簡単には止まれん……わしなんぞ、立ち止まってるつもりでも、動いとるからのう」

そう言って国重は笑いながら、再び畑の方へ視線を戻す。


草を刈る音は続いていた。

いつのまにか影は短くなり、空気には土と草のあたたまった匂いが混じっていた。


──遠くから、ぱたぱたと草履の音が近づいてくる。

「みなさん、お疲れさまでーす!」

明るい声とともに、咲が大きな籠を抱えて畦道に現れた。

籠には昼食を包んだ風呂敷が収められており、炊き立ての飯と味噌の香りがふんわりと漂ってくる。

「昼餉、持ってきましたよ。暑い中、よく働きましたね!」


若者たちの顔に自然と笑みが広がる。

国重は腰を上げ、咲のもとへゆっくり歩み寄った。

「よう気が利くのう。咲が来ると、皆の顔つきまで明るうなるわい」

「だって、いい匂いがしてるんですもん。おなかも鳴きますよね、ね?」


咲は籠を下ろしながら笑い、若者たちのほうへ視線を向ける。

「ははは、咲さんの腹が鳴いたら、飯の時間ってことだな」

「わたしじゃないですよ?たぶん誰かのお腹です!」


笑顔を見せながらも、咲の目は祖父の姿を追っていた。

笑いながらも、国重の体調を見守るまなざしが、そこには確かにあった。


昼餉の始まりを見届けた少年は、そっと国重の隣に頭を下げた。

「……母が昼までに帰ってこいと言ってたので、そろそろ戻ります」

国重はうなずきながら、やさしく肩をたたいた。

「よう働いたな。気をつけて帰るんじゃぞ」

「はい。……失礼します」

少年は籠を持ち直し、畦道をそのまま村の方へ歩いていった。


咲は持ってきた籠から飯と味噌、漬物を取り出し、風呂敷をほどきながら言った。

「ちゃんと詰めたつもりなんですけど、もし潰れてたら、それは風のせいってことでー」

「おお、なら今日は風が強かったんだな!」

若者のひとりがそう言って笑うと、他の者たちも釣られて笑った。


「こっちはおにぎりが三つ、こっちは四つ……え?誰か勝手に増やしました?」

「いや、咲さんの愛が重なっただけじゃろう」

「じゃあこれ、いちばん重いやつは……誰が引き受ける?」

「それ、愛じゃなくて米の重みです!」

咲の冗談に、若者たちは思わず声を上げて笑った。

地面にしゃがみ込み、丸くなって飯を分け合う姿は、まるで縁日みたいに賑やかだった。


──畑から少し離れた小高い道端に、初穂と柚葉の姿があった。

初穂は村をひと回りしたあと、陽にあぶられた畑の匂いを感じながら、遠くからその様子を眺めていた。

草刈りを終えて飯を囲む若者たちの輪。

その傍らで、国重が笑いながら咲の頭を軽く撫でていた。


「……よかった。国重殿、今日は本当に調子が良さそうですね」

柚葉が小さく息をつき、胸に手を当てる。

「咲さんのあの顔を見ると、こっちの肩の力まで抜けてしまいそうです」


隣で初穂は、終始無言のまま畑を見下ろしていた。

柚葉はそっと、隣に立つ初穂の横顔をうかがった。

その視線が、どこに向いているのかはわからなかった。

けれどその瞳は、視線の先にある国重の情報を、静かに取り込み続けていた。


(……いったい、何を見ておられるのだろう)

そう思ったが、問いかけることはしなかった。

答えは、言葉では返ってこない気がしたからだ。


この方は、きっと言葉ではなく、行動で示されるのだ。

ならば私は、どこまでもその歩みに従ってゆこう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る