笑顔が戻る場所

木村 もくそん

第一話 屋上の風と、まっすぐな想い


「また部室で!」


朝の昇降口で、私は手を振って笑った。

制服のリボンを結び直していた親友のさちは、「放課後の練習、遅刻すんなよ〜」と小さく笑って、自分の教室へ向かっていく。


私とさちは別のクラス。

でも、毎朝こうして一緒に登校していた。

幼稚園の頃からずっと一緒で、泣いた日も、笑った日も、肩を並べてきた親友。

今では同じバレー部で――私はスパイカー、さちはセッター。

ポジションは違っても、どんな悩みも話し合える相手だった。

私にとって、さちは“全部を共有できる存在”だった。



朝練を終えて昇降口から教室へ向かう。

まだ午前八時を少し回ったくらい。

夏の日差しがすでに校舎を照らし、窓から差し込む光が廊下を白く染めていた。

体育館で流した汗がまだ乾ききらず、首筋を伝う。

息は整っているはずなのに、どこか火照りが残っていた。


二階に上がると、教室の扉の向こうからにぎやかな声があふれ出してきた。

女子の笑い声、男子の大げさなリアクション、机を動かす音。

私はその空気に吸い込まれるようにドアを開けた。


「おっはよー!」


声を張ると、すぐに返事が返ってくる。

「なぎさ、おはよ! 朝練おつかれ!」

「髪びしょびしょじゃん!」

「朝から元気だね〜!」


笑い声とからかいの声に混じって、自分も自然と笑う。

汗ばんだポニーテールを手で整えながら席に向かうと、クラスメイトが次々に話しかけてくる。


「昨日の『ラブ恋』見た? 告白シーンやばすぎ!」

「わかる! あんなのされたら即落ちでしょ!」

「あんな恋してみたいよねー!」

「てか明日から夏休みとか信じらんないんだけど!みんな何するの?」

「私は家族で海行くよ〜」

「私は彼氏と花火大会! 浴衣も買っちゃった!」


「いいなぁ〜! なぎさは?」

期待の視線が一斉に向けられる。


私は机にカバンを置きながら肩をすくめて笑った。

「私はね、部活ばっかだよ。合宿もあるし、自由なんてほとんどないよ!」


「さすが体育会系!」

「でも恋愛もしたいんじゃない?」


「まあね。浴衣で花火とか憧れるし。でも今はやっぱりバレーが本命!」


「かっこいい!」「青春してるな〜」

また笑いが弾け、教室はさらににぎやかになる。


――こんなふうに、みんなの輪の真ん中で笑っていられる。

そんな毎日が私にとっては何より嬉しかった。



クラスの空気が一段落したころ、前の席の美咲が身を乗り出してきた。

「ねぇねぇ、もしクラスの男子で彼氏にするなら誰がいい?」

「めっちゃ気になる!私も聞きたい!」


「え〜!」と両手を振りながら笑うと、周囲の目が一気に集まる。

「うーん……わかんないよ〜、 でも優しくて、一緒にいて楽しい人がいい!」


「それって実はクラスにいる誰かだったりして!」

「おお〜!」と男子まで乗っかって大げさに囃し立てる。


「ちょっと! 違うってば!」

必死に否定しながらも、笑いの渦に巻き込まれる。



やがてチャイムが鳴り、朝のホームルームが始まると、先生が分厚い束を抱えて教室に入ってきた。

黒板には大きな字で「夏休みの課題」と書かれる。


「はい、注目〜、明日は待ちに待った夏休みだ。各教科ごとに宿題が出てるぞ。必ず期限を守って提出すること。読書感想文も忘れないように

思い出作りもいいが、宿題はコツコツとやるんだぞ。」


プリントが一枚ずつ配られていく。机に置かれた瞬間、その厚みに私は思わずため息をついた。


「うわ、やば! これ絶対終わらないやつ!」

「え、数学のドリル何ページあるの?」

「英語も長文ばっかじゃん、、、」


あちこちから悲鳴が上がる。

私は苦笑しながらページをめくった。バレーの練習や合宿でほとんど時間が取れないのに、この量……。

――まあ、寝る時間削るしかないか。


「次に生活面について注意だ」

先生は真剣な表情に変わった。

「夏休み中に髪を染めたり、夜遅く出歩いたりするな。交通ルールは絶対に守ること。あと、生活目標カードを配るから、各自で書くように」


「え、もう染めてる人いるのに〜」

前の席の男子が小声で言って、周囲がくすっと笑った。


配られたカードには「早寝早起き・規則正しい生活」と印刷されていて、自分で目標を書く欄があった。

私はペンを持ったまま、しばらく手を止める。

早寝早起き、ね……。合宿では絶対早寝できないだろうな。


「三日坊主で終わりそう」

隣の子がぼやいて、また小さな笑いが広がる。



授業はゆるい空気のまま続いた。

終業式を前に、先生たちもどこか気が抜けているのか、板書も少なく、雑談混じりの話ばかりだ。


「高校最後の夏になる人もいる。悔いのない時間を過ごせよ」

そんな言葉が教室に響くと、ふざけていた生徒たちも一瞬だけ静かになった。


――私にとっても、この夏はきっと特別になる。

胸の奥が小さく熱くなる。



午前中の授業も半ばに差しかかるころ。

黒板の文字を見つめながらノートを取っていたはずなのに、ペン先が止まっていた。

朝練の疲れがじわじわと押し寄せて、瞼が重くなる。


――やばい、寝そう。


視界がかすんで、こっくりと首が傾いた瞬間。


「ねえ、なぎさ寝てるよ!」

小声で笑う声が耳に届いた。

「朝練のせいだな」

何人かがくすくす笑い出す。


「そこ! 静かに!」

先生の声が飛んできて、教室が一瞬にして静まった。


私は慌てて顔を上げて、必死に目をこすった。

「……起きてます!」と小声で言うと、周囲からまた笑いが漏れた。

先生はため息をつきながら黒板に戻り、授業は何事もなかったように続いていった。


恥ずかしさで頬が熱くなる。

でもその空気に包まれながら、どこか心地よさも感じていた。



午前中の授業がすべて終わり、チャイムが鳴ると教室は一気に解放されたように騒がしくなった。

カバンの中を整理する子、友達と次の昼休みの話をする子、廊下へ走っていく子。

夏休み直前の浮かれたムードに包まれて、空気はどこか軽やかだった。


私は机に突っ伏したまま伸びをして、ふぅと小さく息を漏らす。

――少し寝そうになったけど、なんとか乗り切った。

カーテンの隙間から差し込む光は、真夏の白さを増しているように見えた。


そのとき。


「おい、行けって! 今しかないだろ!」

「無理だって、絶対無理!」

「なに言ってんだよ、ここまで来て!」

「背中押してやるからさ!」


教室の後ろのほうで、男子たちがひそひそ声で騒いでいた。

机の影に隠れるようにして揉めているのは、武田汰一。

顔を真っ赤にしながら、必死に首を横に振っていた。


「だって……話しかけられないって! 心臓止まる!」

「大丈夫だって! 昼休み前に言わないとタイミング逃すぞ!」

「……やっぱやめ――」


「ほら行けっ!」


ドン、と強く背中を押されて、汰一は半ばよろけるように前へ出た。

気づけば、私の机の横に立っていた。


「……え?」

私は顔を上げ、思わず目を丸くする。


汰一は唇を噛み、視線を泳がせながらも、意を決したように言った。

「あの……鈴野さん。今日の昼休み、屋上に来てくれない?」


一瞬、教室の空気が止まった。

私は驚きながらも、小さくうなずいた。

「……うん、わかった」


その瞬間。


「えー!? 屋上!? 絶対そうじゃん!」

「青春すぎ! 「ラブ恋」みたい!」

「なぎさ〜、顔赤いよ!」


周囲の女子たちが一斉にざわつき、男子まで身を乗り出して茶化してくる。

笑い声と冷やかしの嵐。


「ちょっと、違うってば!」

私は慌てて否定しながら席に戻った。

だけど胸の奥はどきどきと騒がしく、頬の熱はなかなか引かなかった。


揶揄われれば揶揄われるほど――余計に意識してしまう。



昼休みのチャイムが鳴ると、教室のざわめきは一層大きくなった。

お弁当を広げる子、購買に走る子、廊下で友達と集合する子――みんながそれぞれの場所に散っていく。


私は机の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。

胸の鼓動がさっきから落ち着かない。

「屋上に来てくれない?」

武田汰一の言葉が、何度も頭の中でリフレインする。


――ただの話かもしれない。

でも、周りがあんなに騒いだから。

もしかして、やっぱり……。


考えれば考えるほど、頬の熱は引かなかった。



屋上へ続く階段を上ると、周囲の喧噪がだんだん遠ざかっていく。

足音だけがコツコツと響き、緊張が一歩ごとに増していった。

階段の踊り場に差し込む光は、真夏の白さでまぶしい。

私はポニーテールを結び直し、小さく深呼吸をする。


――行こう。


鉄の扉に手をかけると、ぎぃ、と重い音を立てて開いた。

一気に風が吹き抜け、髪がふわりと揺れる。

空はどこまでも高く、蝉の声がじりじりと耳を包んでいた。


真ん中に、汰一が立っていた。

シャツの裾が風に揺れ、うつむきがちな横顔が少し頼りなく見える。


「あ、来てくれてありがとう。」

気づいた彼が、ぎこちなく笑った。


「ううん、大丈夫。それで、話って?」


私が問いかけると、汰一は小さくうなずき、深く息を吸い込んだ。

手が震えているのが、遠目にもわかる。


「俺……鈴野さんのことが、前から好きです」


言葉が空気を震わせた。

蝉の声が一瞬遠ざかったように感じる。


「いつも明るくて、誰にでも優しくて。みんなからはお調子者だと思われてるけど、実は落ち込んでる子にはさりげなく声をかけたりする。……そういうところ、好きなんだ。

 本当はもっと前から言いたかったけど、どうしても勇気が出なくて。

 今日だけは、どうしても伝えたかったんだ」


汰一の声は震えていたけれど、その目は真剣だった。

私は驚きに息を飲み、そして小さく笑みを浮かべた。


「……お調子者ってとこは余計だけど、ありがとう。まっすぐ言ってくれて、嬉しい」


胸の奥がじんわりと温かくなる。

けれど同時に、答えはもう決まっていた。


「でも、ごめんね。武田くん。今は部活を全力で頑張りたいんだ。

 三年生の先輩たちの最後の大会もあるし……中途半端にはしたくないの。

 だから、恋愛にちゃんと向き合う余裕が、今はないと思う」


沈黙が一瞬流れる。

汰一は俯きかけたが、やがて顔を上げ、少し照れたように笑った。


「……そっか。言えてよかった。返事も、なんか鈴野さんらしいな。

 応援してる。バレー、全力で頑張って!」


その表情は不思議と晴れやかで、負けた顔ではなかった。

むしろ、誰かを心から応援できる誇らしさが滲んでいた。


胸が熱くなる。

私は強くうなずいた。

「ありがとう。……頑張るよ!」


夏の風が二人の間を吹き抜ける。

遠くから響く蝉の声が、空の青さをいっそう濃くしていった。




昼休みが終わると、体育館へ移動するアナウンスが校内に響いた。

ぞろぞろと移動する生徒たちの列に混じり、私は汗を拭きながら体育館へ向かう。

屋上での会話がまだ胸の奥に残っていて、心臓の鼓動は普段より速いままだった。


体育館の中は蒸し暑く、扇風機の風も気休め程度。

床に並んだ椅子に腰を下ろすと、後ろから「暑っ」「熱中症になるって」なんて声が聞こえてくる。

視線を前に向けると、壇上には校長先生が立ち、マイクに向かって話し始めた。


「一学期を振り返り、健康と安全に気をつけて、規則正しい生活を――」


相変わらず長い挨拶。

「やばい、寝そう……」と誰かが小声でつぶやき、周囲が小さく笑う。

私も思わず肩を揺らした。


「夏休みは事故に気をつけろ。交通ルールを守ること。生活リズムを崩すな」

生活指導の先生が念を押すと、あちこちからため息がもれる。

「またその話かよ」と男子がつぶやき、隣の友達が笑いをこらえている。


校歌を歌い、拍手で終業式が締めくくられると、ようやく自由の気配が押し寄せてきた。



体育館を出ると、外の光がまぶしかった。

夏の匂い――熱気と草の匂いと、どこか遠くのプールから届く塩素の匂い。

深呼吸をすると、胸の奥にまで熱気が入り込み、心臓の鼓動と混ざり合う。


「恋はいつでもできる。

 でも、今のメンバーでバレーができるのは今だけ。」


心の奥でそう呟いた。

バレー部に入ったときから覚悟していたこと。

でも屋上での出来事が、もう一度その思いをはっきりさせてくれた気がした。


――この夏は、ただの夏じゃない。

きっと何かが変わる。

その予感が、蝉の声とともに強く胸に響いていた。



こうして、一学期最後の日は幕を下ろした。

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