第5話:小さな欠落の積み重ね
病院で過ごす最後の夜は、
とても静かで、わたしとゼニスしか世界には存在していないように感じられた。
小さく呼吸するように光を揺らす立方体は、
ベッドの横でふわりと浮かんでいる。
「……ねぇ......まだ起きてる?」
((——常時稼働しています。))
「そういう意味じゃないってば……
なんか……話せる?」
((——はい。可能です。))
暗い病室で、
小さな光だけが静かに漂っているこの時間は、
少しだけ夢みたいだった。
「明日、退院なんだよね……
嬉しいはずなのに……
なんだろ、ちょっと……落ち着かない……」
胸の奥で、
説明のつかないざわつきが揺れた。
((——環境の変化に伴う不安反応です。
自然な生理現象です。))
「……そんなふうに言われるとさ……
逆に、ちょっと安心するじゃん……」
視界に映るゼニスが、
返事の代わりのように ふわりと光をひとつ呼吸させた。
そのあとは、安心感からか眠りに落ちていたようだ。
眠る直前の記憶は、
ぼんやりと揺れるゼニスの光だけ。
まるで、
わたしが眠りに落ちるのを
静かに見守っていたみたいだった。
「ん~......おはよ~」
目をゆっくり開けると、
視界にはゼニスの姿はなかった。
寝ている間に表示をやめたようだ。
((——おはようございます。
睡眠状態は良好でした。))
確かによく眠れたような気がする。
起き上がると、
違和感なく体は動く。
昨日よりもずっと軽い。
ほんの少し、胸の奥がじんわり温かくなった。
朝食を終え、
看護師さんから軽い説明を受け、
退院の準備をはじめた。
「そういえば、わたし荷物ってあるのかな?
どうやって病院にきたのかもわかんないし......」
「ねぇ......その辺のことは、ログに残ってないわけ?」
((——はい。記録には残っていません。))
「ログはないんだね......
わたしの脳と融合したのはいつなのか知らないけど......
それ以前はないってことなんでしょ?」
なんか察しがいい答えが口からでて、
自分でも少し驚いた。
((——はい。仰る通りです。))
「まぁ......仕方ないよね......
逆に全部知ってたら怖すぎるし......ふふっ」
自分を落ち着かせるように自然に笑っていた。
ベッド脇の棚に置かれた見慣れない、
うさぎのキャラクター入りのバッグを指さし、
ゼニスに聞いていた。
「それで、このバッグはわたしのものなんだよね?」
((——はい。
この病室は個室なので、その認識で相違ないと思われます。))
「こんなバッグ、わたし……本当に選んだっけ?」
そう口にした瞬間、頭の奥でノイズが走ったような気がした。
「......っ......いっ.......」
((——大丈夫ですか?
今は、あまりご無理をされないようにしてください。))
「ん......ん、そうだね、きっと考えすぎなのかもね、あはは。」
なにかを感じながらも取り繕うように笑っていた。
「よし、じゃ~退院して外の空気でも久しぶりに吸いにいこ~」
もしかしたら、
事故の影響で記憶が欠落しているのかもしれない。
不安がないのは嘘になるけど、
こうして退院できることの方が大事。
自分に言い聞かせるように病室を後にした。
((——会計窓口まで案内可能です。))
「うん、大丈夫。
ひより医科大学附属病院は何回か来たことあるし......
......たぶん。」
自分で歩いて廊下へ出ると、
少し胸の奥がじんわり温かくなった。
「わたし歩けてるね、あっはは」
((——運動機能には問題がないので当然かと思います。))
「うわぁ、そのなんか機械的な言い方、ホント笑える」
ゼニスに気遣うという概念があるのか疑問だけど、
それでも、気遣ってくれているのだと思うことにした。
ナースステーションには担当の看護師さんがいて、
小さく会釈すると、やさしい笑みで返してくれた。
会計窓口にで、診察券を出し名前や生年月日を告げ、
クレジットカードで入院費の支払いをした。
「よし、家に帰ろうか~」
その時、また脳の奥に一瞬ノイズが走った。
「家......どこだったかな?」
口に出した瞬間、
自分の声がわずかに震えているのがわかった。
記憶の輪郭だけが手探りで残っている感じ。
なのに、肝心な住所がすっぽり抜け落ちていた。
((——今は無理に帰宅先を思い出す必要はありません。
安全のため、駅前のホテル滞在を推奨します。))
「......ホテル......」
その選択肢は妙に現実的で、
逆に帰れない理由を濁してくれるような気がした。
「......まぁ、そうだね。
家がどこか思い出せないなら......今日はホテルでもいいか」
((——妥当な判断です。))
自動ドアが開いた瞬間、外の空気が胸に触れた。
それだけなのに——世界がほんの少しだけ薄いように見えた。
すれ違う人たちも、雑踏の音も、
全部いつも通りの日常に見える。
なのに——
そのいつも通りが、
自分にとって本当に正しいのかどうか、
確信が持てなかった。
((——ホテルまでは徒歩6分です。
体調に問題はありません。))
「うん......じゃあ、歩いていこうか」
自分の足で歩けることの喜びを噛みしめ、
ほんの少しの違和感を胸に、
わたしは世界へ一歩を踏み出した。
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