氷刃公の告解
目を閉じると今もありありと思い出すことができる。あの日の光景を。
だが、彼女は生きて戻ってきた。
そして今、こうして屋敷の中で穏やかに笑っている。
それが、私にとってどれほど恐ろしく幸福なことか――彼女は知らないだろう。
幼いころ、白薔薇の庭で共に遊んだ少女。
その少女がアリアだったと気づいたのは、氷花の森でのことだ。
アリアから放たれた白い光に触れた瞬間、遠い日の記憶が、音もなく胸の奥に溶け落ちた。
思い出を取り戻してからというもの、彼女への思いは、もう止められなくなった。
何度も言い聞かせた。護るべき存在だ、と。
それなのに、彼女の声を聞くたびに、その“理”が薄紙のように破れていく。
義妹などではない。
私の思い人。
私の、初恋。
***
私がアリアとよく遊んでいたのは、おそらく九歳の頃。
父である先代アザル公が魔物討伐のために国境沿いへ長期遠征に出ていた時期だ。
母は穏やかな人だったが、屋敷には常に緊張の影が漂っていた。
私は、そんな空気を子ども心に感じ取り、いつも庭で一人遊んでいた。
寂しいと思うたび、それを胸の奥に押し込むのが私の務めだと、言い聞かせながら。
アリアがやってきたのは、そんな時だった。
どこからともなく現れ「いっしょにあそぼ」と太陽のような笑顔で誘った。
「ねぇ、エルヴィン、おやつ、はんぶんこにしよ?」
「……半分こ?」
「うん。ふたりで食べると、おいしいよ」
ドレスを汚すことも気にせず、走り、木登りをして笑う彼女に、いつしか私の孤独は薄まっていった。
「エルヴィン、さびしくなったら、わたしのおうちにきてもいいよ」
「きみの家?」
「そう。わたしのベッドかしてあげる。ぬいぐるみのテディも」
「ぬいぐるみなんて、いらないよ。子どもじゃないんだから」
「さびしいとき、テディぎゅってしたら、げんきになるよ」
「……そうなの?」
「そう、こうするの。ぎゅーって」
「くすぐったいよ、アリア」
「……アリア!君の体……!光ってる!」
「なあに、これ」
「きみは、魔力持ちだったんだね。ぼくと一緒だね」
「エルヴィンといっしょ?」
「そう、ぼくと、一緒」
あの頃の思い出を、私は長い間“幻”だと思っていた。
寂しさのあまり作り出した幻想だと。
けれど今、アリアの薄紫の髪を見るたびに思う。
なぜこれほどまでに大切な記憶を、私は忘れていたのか――
そしてアリアは、またも、私を救った。
彼女が「帝都に行く」と言ったあの時、私は心に誓った。
公爵家の力も、騎士としての力も、私の持てる盾すべてを、アリアのために掲げる、と。
私はアリアの身元調査を命じ、公爵家に残る記録をすべて調べさせた。
藤色の髪の彼女が、私と血を分けた“妹”なのではないか、という懸念がどうしても拭えなかったからだ。
だが、どの記録も、その可能性を明確に否定していた。
そして、その事実に安堵している自分に気づき、嫌になった。
しかし、幼いころの彼女が、なぜ我が家に来ていたのか。
そして、今の彼女は一体どこから養女にやってきたのか。
記憶をたどっても、記録を探っても、明確な答えは見つからなかった。
彼女の出自は、今もなお、謎に包まれたままだ。
***
窓辺に立ち、夜を見下ろす。
白薔薇の庭が月に照らされて銀に染まっている。
静かだ。
あまりに静かで、心の中の声が響く。
そのとき、足音がした。
ふと振り向くと、回廊の先――月光の中に、アリアがいた。
開いた窓からは月の柔らかな光が差し、彼女の髪を一筋ずつ撫でていた。
白金にも、藤にも見えるその色が、夜風にほどけて流れる。
肩のあたりに落ちた光が、まるで彼女自身の輪郭を描くように揺らめく――
まるで、黎明星が地上に降りたようだった。
いや、違う。
あの星よりも眩しい。
この世界で、誰よりも清らかで、誰よりも遠い。
そして、誰よりも――欲しい。
胸の奥が、痛いほどに鳴った。
手が、勝手に伸びる。
氷刃公としての理性が止めようとするのに、心が、その命令を拒んだ。
「……アリア」
その名を呼ぶ声は、熱に浮かされたように滲んで、
風とともに夜の空気に溶けていく。
アリアが振り向き、その瞳に月の光を映す。
黎明星の光を閉じ込めたような、淡い青が、真っ直ぐに私を射抜く。
「ごめんなさい、眠れなくて」
「夜風は冷たい。部屋に戻れ」
「はい……でも、今夜は星が綺麗で」
その瞬間、時間がゆるやかに歪んだ。
細い首筋。白薔薇の影が肩をなぞる。
その光景を、視線でなぞった自分に気づく。
踏み越えてはいけない境界だと分かっているのに――。
「お義兄様…?」
「近づくな」
言ったのは、私の方だった。
けれどその声は、ひどく掠れていた。
彼女の瞳が、不安と戸惑いの色を宿す。
それがまた、胸の奥を締めつける。
伸ばした指が、彼女の肌に触れそうになる。
あと少し。
ほんのわずかに動けば、触れてしまう。
「……部屋に戻れ。風邪をひく」
「はい……おやすみなさい、お義兄様」
彼女は微笑んで、月光の中を去っていく。
その後ろ姿が見えなくなるまで、私はただ、立ち尽くしていた。
「……氷刃公、か」
自嘲のように呟く。
その夜、星々はいつもより強く光っていた。
――まるで、誰かの心を暴くように。
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