第二章 星を描く手  第一部

 冬の朝。

 コルクを迎えてから、もう数週間が過ぎていた。

 紗耶香は、キッチンでコーヒーを淹れながら、何度もスマホの画面を確認していた。

 小さな電子音が鳴るたび、心臓が跳ねる。

 画面の向こうでは、全国の見知らぬ誰かが、絵本投稿サイトに新しい作品を次々と上げている。

 彼女の手の内にも、未投稿の作品があった。

 タイトルは『コルクの星空』。

 こつこつと描き上げた、水彩と色鉛筆で仕上げた作品。

 主人公は、星を拾って歩く白い犬――コルク。

 「どうしよう、コルク。やっぱり恥ずかしいかも……」

 紗耶香が不安そうに呟くと、テーブルの下で丸まっていた俺は尻尾を軽く揺らした。

 “出せばいい”とでも言いたげに。

 俺は吠えない。ただ、前足をちょこんと彼女の膝に乗せた。

 それだけで、紗耶香の表情がほんの少し柔らいだ。

 「……よし。投稿しちゃえ」

 その小さな決意が、静かな朝を動かした。

 投稿ボタンを押した瞬間、世界は少しだけ変わった気がした。

 画面には「作品を受け付けました」のメッセージ。

 たったそれだけの表示なのに、紗耶香はしばらく動けなかった。

 「ねぇコルク。投稿しちゃった……」

 指先が震えている。

 この子は、人前に出ることにずっと臆病だった。

 元美大生という肩書きが、彼女の中では過去の失敗と同義だったのだ。

 “また、やり直せばいい”――そう思っても、

 筆を握るたびに、自分の未熟さと向き合うことになる。

 でも今日は違った。

 彼女の傍には、犬になった俺がいる。

 「君、なんだか嬉しそうね」

 紗耶香が笑った。

 俺は尻尾を一度だけ振った。

 もし喋れたら、こう言っていただろう――“よくやったな”と。

 コーヒーの香りが部屋を満たす。

 窓の外では、冬の光が街路樹の枝を揺らしていた。

 ――この瞬間を、ずっと覚えていよう。

 俺は、彼女の“第一歩”を見た。

 しばらくして、スマホが震えた。

 「コメントがつきました」と小さく表示されている。

 紗耶香は息を呑んで画面を開いた。

 《やさしい絵ですね。ラストの“星を拾う犬”が心に残りました》

 たった一行。

 でも、その一行が彼女の胸に火を灯した。

 「……読んでくれた人、いるんだね」

 声がかすかに震えている。

 俺は静かに横で見守る。かつての自分を思い出しながら。

 掲載当初の『明日の君を守りたい』にも、最初についたコメントは一件だった。

 ――あの時も、同じように心が震えた。

 彼女の目に、少しだけ涙が浮かんだ。

 「ありがとう、コルク。勇気くれて」

 “礼を言うのは俺の方だよ”と心の中で呟く。

 創作は孤独な旅だ。

 でも今、彼女の孤独は確かに誰かへ届いた。

 その夜、紗耶香は久しぶりに机に向かった。

 新しい絵本の構想をノートに描きはじめる。

 ページの端には、小さな文字でこう書かれていた。

 ――「次は、守ることを描きたい」

 俺は、机の下で目を細める。

 その言葉が、胸の奥に温かく響いた。

 絵を描く手は、光を拾う手。

 彼女の筆先が震えるたび、俺の心臓も少し速くなる。

 まるで、自分の物語がもう一度始まったかのように。

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