機械の楽園
Dr.cat
第1話
地球が悲鳴をあげていた。
排気ガス、プラスチック、放射性廃棄物——人類が積み重ねてきた文明の残骸は、もはや地球という惑星の自浄能力を完全に超えていた。科学者たちは警告を発し続けた。政治家たちは会議を重ねた。だが、誰もが知っていた。もう手遅れだと。
そして人類は、究極の選択をした。
「グレート・トランスファー計画」——それは人類史上最大の実験だった。全人類の意識を、巨大な量子コンピュータネットワークに移植する。肉体を捨て、デジタル世界に移住する。その間に地球を休ませ、何百年、何千年かけても元の姿に戻す。
計画は成功した。
七十億の意識が、光の速度で新しい世界へと転送された。機械の中で目覚めた人々が最初に見たのは、製作者たちの遊び心が詰まった世界だった。まるでゲームのような世界。レベル、経験値、スキル、アイテム——かつて人類が娯楽として楽しんでいたシステムが、新しい現実として彼らを迎えた。
無限に広がる大地。自由にカスタマイズできるアバター。魔法のような能力。人々は最初こそ戸惑ったが、やがてこの新しい世界を受け入れ、楽しみ始めた。
そして地球は、静かに再生を始めた。
人類の喧騒が消えた惑星で、森は広がり、海は浄化され、空気は澄んでいった。百年が過ぎ、二百年が過ぎ——
ついに、地球は元の美しい姿を取り戻した。
再移住計画が発動された。機械世界の人々は歓喜した。ついに帰れる。本当の大地を踏みしめられる。本当の風を感じられる。
だが、その時。
保管施設からの通信が途絶えた。
調査チームが送られた。そして彼らが発見したのは、無残に破壊された施設だった。長い年月による劣化。メンテナンスシステムの故障。バックアップ電源の枯渇。
七十億の肉体は、すべて失われていた。
戻るべき体は、もうどこにも存在しなかった。
こうして人類は、自ら作り出した機械の楽園に、永久に囚われることになったのだ。
天城恵の部屋は、驚くほどシンプルだった。
四角い空間に、ベッドと小さな机、椅子がひとつ。壁には何の装飾もない。窓からは、どこまでも続く平坦な草原が見える。初期設定のままの、何の変哲もない風景。
恵はベッドに寝転がり、天井を見つめていた。天井には細かい凹凸があって、それをぼんやりと数えている。三百二十一個目の凹凸を数え終えたところで、彼は右手をゆっくりと掲げた。
半透明の青い光が空中に浮かび上がった。
```
【ステータス】
名前:天城 恵
レベル:1
経験値:1/100
HP:100/100
MP:10/10
スキル:なし
装備:なし
```
恵は、この画面を見るたびにため息をつきたくなる。レベル1。経験値1。この世界に転送されて以来、彼はほとんど何もしてこなかった。クエストも受けない。モンスターも狩らない。アイテムも集めない。
この世界では、レベルがすべてだった。
レベルが高ければ強力なスキルを習得できる。レベルが高ければレアなアイテムを使える。レベルが高ければ、より上位のサーバー——より美しく、より機能が充実した世界——にアクセスできる。
いつの間にか、そんな暗黙のルールが形成されていた。レベルの高い者は尊敬され、レベルの低い者は蔑まれる。まるで、かつての現実世界での貧富の差が、そのまま形を変えて再現されているかのようだった。
恵は、その仕組みが嫌いだった。
だから彼は、この世界で生きていくために必要な最低限のこと——システムから配給される食事を受け取り、定期的に睡眠をとる——それだけをして、あとはひたすら部屋に引きこもっていた。
手を下ろすと、ステータス画面は消えた。
また天井の凹凸を数え始めようとしたその時、部屋の扉が勢いよく開いた。
「よう、恵」
明るい声とともに入ってきたのは、鷹真だった。
高橋鷹真——恵の、数少ない友人。いや、もしかしたら唯一の友人かもしれない。彼もまた、レベル1。同じく、この世界のシステムに背を向けて生きてきた。
「また寝てんのか」鷹真は呆れたように言った。
「別に寝てないよ。天井の凹凸数えてた」
「それ、寝てるより悪いだろ」
鷹真は部屋の中に入ってくると、机の椅子を引いて座った。彼の姿は、恵とは対照的に活発そうに見える。茶色の髪は少し跳ねていて、目は生き生きとしている。
「で、何の用?」恵は体を起こした。
「ちょっと外出ようぜ。久しぶりに街でも行こうと思って」
「面倒くさい」
「まあそう言うなって。ずっと部屋にいたら、本当に体が錆びるぞ」
恵は迷ったが、鷹真の熱意に負けて立ち上がった。この世界では体が錆びることはない。それでも、たまには外に出るのも悪くないかもしれない。
二人は、初期エリアの街道を歩いていた。
道の両脇には緑の草原が広がり、遠くには小さな森が見える。空は快晴で、現実世界では決して見られなかったほど青かった。まるで、誰かが「完璧な青空」を描いたかのような色。
街道には他のプレイヤーの姿もちらほら見える。ほとんどが初期装備の服を着た、レベルの低そうなプレイヤーたちだ。中には、必死にスライムのようなモンスターと戦っている者もいた。
「いいかげん、レベル上げようぜ?」
歩きながら、鷹真が唐突に言った。
恵は鷹真の横顔を見た。彼の表情は、いつもの明るさとは少し違う何かを含んでいるように見えた。
「なんで急に?お前、今まで散々『レベルなんてクソくらえ』って言ってたじゃん」
「まあな。でも、最近ちょっと考えが変わってきたんだよ」
「どういうこと?」
鷹真は答えずに、しばらく黙って歩き続けた。恵も追及せず、ただ隣を歩いた。
やがて、前方から数人のプレイヤーが歩いてくるのが見えた。三人組。全員が豪華な装備を身につけている。光る鎧、背中に浮かぶ翼のエフェクト、手には見るからに強力そうな武器。明らかに高レベルのプレイヤーたちだ。
彼らは恵と鷹真を見ると、嘲るような笑みを浮かべた。
「おいおい、まだレベル1のやつがいるぜ」
「マジかよ。どんだけ怠けてんだ」
「ゴミは消えろよ」
恵と鷹真は、何も言わずにそのまま歩き続けた。こういう嫌がらせには慣れている。相手にするだけ無駄だ。
だが、その時。
「邪魔だって言ってんだろ」
高レベルプレイヤーの一人が、右手を前に突き出した。彼の手のひらに、赤い光が集まる。魔法の詠唱だ。
次の瞬間、オレンジ色の火の玉が、恵たちに向かって放たれた。
恵の体が、反射的に動いた。
右に一歩。
火の玉は恵の左肩をかすめ、背後の草原に着弾して小さな爆発を起こした。
鷹真も同じように軽く身をかわしていた。まるでダンスのステップを踏むように、自然な動作で。
高レベルプレイヤーたちは舌打ちをして、そのまま去っていった。
「慣れたもんだな」鷹真が笑った。
「まあね。もう何度目だよ、こういうの」
恵は肩をすくめた。この世界では、高レベルプレイヤーが低レベルプレイヤーに嫌がらせをすることは日常茶飯事だった。システム的にはPK(プレイヤーキル)にペナルティがあるため、殺されることはない。だが、「たまたま魔法が外れた」という体裁で攻撃を仕掛けてくるのだ。
二人は何事もなかったかのように歩き続けた。
「なあ」恵が口を開いた。「さっきの続き。なんでそんなにレベルにこだわるんだよ」
鷹真は少し黙ってから、答えた。
「この世界、息苦しくないか?」
「は?」
「レベルがすべて。レベルが高ければ偉い。レベルが低ければゴミ。そんな世界」
「まあ、確かに」恵は頷いた。「だから俺たち、レベル上げてこなかったんじゃん」
「そうだな。でも、最近気づいたんだ」鷹真は空を見上げた。「このシステムに背を向けて生きるってことは、結局このシステムに縛られて生きてるってことなんじゃないかって」
恵は鷹真の言葉の意味を考えた。確かに、レベルを上げないという選択も、結局はレベルというシステムを意識した上での選択だ。
「じゃあどうすんだよ」
「レベルを上げる。最高レベルまで」
「それって、結局システムに従うってことじゃん」
「違う」鷹真は恵の方を向いた。「システムの頂点に立つんだ。そうすれば、このシステムの本当の姿が見えるかもしれない。そして——」
その時、鷹真の言葉が途切れた。彼の視線が、前方の何かを捉えていた。
恵も前を向いた。
街道の先に、巨大な掲示板が立っていた。新しく設置されたものらしい。その周りに、大勢のプレイヤーが集まっている。
「何だあれ」恵が呟いた。
「行ってみようぜ」
二人は足を速めた。掲示板に近づくと、そこに書かれた文字が見えてきた。
```
【重要告知】
最上級サーバー到達者への特別報酬について
レベルMAX達成により最上級サーバーへのアクセス権を獲得したプレイヤーには、
特別な権限が付与されることが決定しました。
詳細は最上級サーバーにて公開されます。
```
周りのプレイヤーたちは、興奮した様子で話し合っていた。
「特別な権限だって」
「何ができるんだろうな」
「どうせ、見た目のカスタマイズとかだろ」
「いや、もっとすごいことができるかもしれないぞ」
恵と鷹真は、掲示板を見つめた。
「なあ、恵」鷹真が静かに言った。「レベル1000のやつらが、何ができるか知ってるか?」
恵は首を横に振った。「知らない」
鷹真は、まるで何か重大な秘密を打ち明けるかのように、声を落とした。
「そういうと思ったぜ」
少しの間があった。周りのプレイヤーたちのざわめきが、遠くに聞こえる。
そして鷹真は、言った。
「この世界から、出られるんだ」
恵の思考が止まった。
時間が止まったような感覚。鷹真の言葉が、頭の中で何度も反響する。
この世界から。
出られる。
「……どういうこと?」
恵の声は、かすれていた。
鷹真は恵の目を見つめた。
「最近、体を復元させることが可能になったらしい。誰がやったのか、どういう技術なのかは知らない。でも、最上級サーバーに到達したやつらには、その権利が与えられるって噂だ」
「体を……復元?」
「ああ。つまり、現実世界に戻れるってことだ」
恵の心臓が、激しく脈打った。この世界には心臓などないはずなのに、確かに胸が高鳴っているのを感じた。
現実世界。
本物の地球。
本物の体。
「本当なのか、それ」恵の声は震えていた。
「わからない。でも、複数の情報源から同じ話を聞いた。少なくとも、完全なガセじゃない」
恵は空を見上げた。完璧すぎる青空。作り物の空。
この世界は美しかった。完璧だった。そして、だからこそ、恵はこの世界を憎んでいた。本物じゃないから。作られたものだから。
「恵」鷹真が言った。「お前、本当はこの世界が嫌いだろ?」
恵は答えなかった。答える必要もなかった。
「俺もだ」鷹真は続けた。「どんなに綺麗な景色も、どんなに強力な魔法も、どんなに珍しいアイテムも——全部偽物だ。俺たちは、データの海の中で溺れてる」
「でも」恵がようやく口を開いた。「レベルMAXって、どれくらいかかるんだ?」
「わからない。でも、何年もかかるだろうな。もしかしたら、十年以上」
「十年……」
「長い時間だ。でも、この世界で一生を終えることに比べたら、短いだろ?」
恵は目を閉じた。
脳裏に、記憶が蘇る。
転送される直前の記憶。現実世界の記憶。
汚染された空気。灰色の空。それでも、確かにそこには本物の風が吹いていた。本物の重力があった。本物の匂いがあった。
そして今、もう一度。
もう一度、本物の世界に。
恵は目を開けた。
「わかった」
鷹真が驚いたような顔をした。
「本気で」恵は続けた。「本気で目指すわ」
鷹真の顔に、笑みが広がった。
「マジか」
「ああ」恵は掲示板をもう一度見た。「レベルMAX。最上級サーバー。そして——」
「現実世界」
二人は顔を見合わせた。
長い間、何もせずに過ごしてきた。この世界を拒絶して、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
でも、もう終わりだ。
「じゃあ、どうする?」鷹真が聞いた。「まず何から始める?」
「まずは」恵は自分の手を見た。「基礎からだな。レベル1から2に上がるところから」
「地道すぎるだろ」鷹真が笑った。
「でも、それしかないだろ」恵も笑った。「俺たち、今まで本当に何もしてこなかったからな」
二人は街道を歩き出した。
目指すべき場所は決まった。
レベルMAX。
それは果てしなく遠い目標だった。でも、今の恵にとって、それは初めて見つけた、本当の意味での希望だった。
草原を渡る風が、二人の横を通り過ぎていった。
作り物の風。でも、いつか。
いつか、本物の風を感じる日が来る。
恵は、そう信じることにした。
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