図書館の魔女と異世界書の契約

兎原澄

図書館の魔女と異世界書の契約

強制契約

 佐倉 茜、34歳。私立アカデミア図書館の特殊資料部門の専門技術職として、この図書館に集められた貴重な資料の管理・研究が彼女の仕事だ。好きが高じて少し訳アリの本の研究を仕事に選んだが、実際は本の研究だけでなく、多くの事務処理や他分野の手伝いもこなしている。そんな茜は、その知識の深さから専門職が多く務めるこの図書館の職員から、敬意を込めてと呼ばれていた。


 そんな多忙な彼女にとって、夜の閉館作業後の『特別古資料保存庫』(通称:禁書保管室)は、心が安らぐ特別な空間だった。最後にこの空間で自らの好奇心を満たしてくれる書物に触れ、その点検や手入れを行うことは癒しの時間でもある。そんな彼女が自らに課している使命は、古い知識の秩序ライブラリを守り保存することだ。

 

 ある月曜日の深夜。茜は、保管室全体の高い湿度にため息をつきながら、資料の点検を行っていた。この部屋はどんなに湿度対策をしても、なぜか湿度が下がらない。だから、とりわけ丁寧に資料に劣化の兆しがないか、チェックする必要があった。ふと茜の目に、棚の隅に収められた背表紙のない古びた本が目に留まった。


「新しい資料が収められる報告は受けていないし...誰か間違えて入れた?」

 

 禁書保管室の管理を任されている茜は、ここに収められている資料をすべて把握しているはずだが、見慣れない本がそこには収められている。手袋ごしでも判るぐらいひんやりと冷たく、表面がうっすらと湿気を帯びたような感触がする。


 それは、『天文学と錬金術の境界』と記されていた。そのタイトルから彼女は、この本は「宇宙の法則が地上の物質に影響する」という古い学問観に関する資料だろうと思い、中を確認すべく中央の机に持って行く。

 

 未知の資料を見るときは、どうしてもわくわくしてしまう。はやる気持ちを抑えつつ、茜がその本を机の上に丁寧に置き、ゆっくりと1ページ目を開いた瞬間、部屋の照明が全て消え、保管室全体が青白い光に包まれた。光が収まった時、彼女の目の前には、巨大な水晶の柱と、銀色の紋様が浮かぶ石畳が広がり、その中心に異国の鎧が佇んでいた。


「…契約は成立した。ここに降臨せし我が力の制御権は、今、貴方にある。あるじよ。」

 

 鎧は古びた金属が擦れるような響きを持った音で、茜をあるじと呼んだ。夢でも見ているのかと手を力強く握ってみると、ちゃんと感触がある。茜は動揺しつつも、事態を把握すべく鎧を注意深く観察する。


 180cmぐらいの大きさで、中世ヨーロッパ風の鈍い銀色のヘルムには、細かな模様が施され頭頂部に青い羽がついている。胸部のプレートにも細かな模様が施されており、戦うためのものというよりは、装飾として飾っておく鎧のようにも見える。また、手には一切武器を持っておらず、手は前で組まれていた。


 茜が思考するために目線を無意識に下へ落とすと、茜の立っている場所、元は図書館の堅牢な大理石の床だった場所が石畳の床に変わっている。そして茜を中心として銀色の紋様が蜘蛛の巣のように広がり始めた。それは、彼女の足元の床を浸食し、わずか数秒で、禁書保管室の書架の足元まで達する。


「これは……」


 目の前で起こる状況に思考が追いつかないまま、事態を把握しようとその模様の様子を目で追っていくと、信じられない光景が茜の前で起こり始めた。重厚な木製の棚はねじれ曲がり、収められている歴史学、哲学、そして古い言語学の専門書たちが、光りながら半透明の水晶へと変化していく。


 それは彼女が最も大切にしている、が破壊されていく光景だった。現実主義者である茜の冷静な思考が一瞬途切れた。禁書保管室全体が、出現した巨大な水晶の柱が放つ光によって、別の何かへと塗り替えられようとしているのだ。


 本が変化する際、茜の脳裏に、その本に収められていた膨大な情報が、ノイズのように流れ込んできた。そして、同時に茜の世界にはない、何か別の情報も頭へ流れ込んでくる。


 王権神授説が崩壊し、市民革命が起きた17世紀のロンドンの様な風景が、水晶の残像となって映る。しかし、そのロンドンには存在しないはずのが浮かんでいる風景。


そして、失われた古代文字の羅列が脳裏に飛び交い、


 


 


という音が脳裏に浮かび上がる。


「止まって! 大切な本に触れないで!」


 膨大な情報で割れそうな頭を抱えながら、茜は夢中で叫んだ。彼女にとって、本は知識であり、秩序であり、自己の存在の証そのものだ。それが、異質な力によって崩され、歪められていく。


 鎧はその叫びに対し、何の感情も見せないかのように静かに答えた。


あるじよ。この世界は、貴方の契約に引きずられ、我が故郷の法則に染まり始めている。我が身の召喚に必要な代償、つまり我をこの世界に固定するアンカーとして、この世界の法則はわが故郷の法則へ書き換えられる」


「それを今すぐ止めて!私は契約した覚えなんてない。」


あるじ。我が名はゲヘナ。貴方が開いた扉によって、この世界に繋がれた存在。この侵食は、召喚のであり、我が意志ではない」


 ゲヘナは、その重々しい声で説明を始める。彼に感情があるかどうかは分からないが、その発言は、研究者として冷静さを取り戻しつつある茜のを求める欲求を満たし始めた。

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