13話 雀(すずめ)の夫婦


着物から覗く肌からふわりと甘い香りが漂ってくる。

なんて名前の香水かは知らないけれど、鼻の奥だけが妙に幸せな気分で布ごしに伝わる体温にあてられて頭がクラクラして心臓がドクドクと脈打つ。

その反対側では、頬をわずかに赤くしながら半分睨みつけるみたいな表情で肩をぐいぐい押し込んでくる幼馴染。


気づいたら俺は、ソファの真ん中で母娘にぎゅうぎゅうと挟み込まれていた。


「(なんだこの状況……)」


きっと、これがまさに両手に花ってやつなのだろう。


「……ちょっと近くないですか?」


「ええやんかぁ減るもんやないし。三人で仲良うしとったら温かくて気持ちええよ?」


こちらの疑問などおかまいなしに、蝶子は隣の娘を弄ぶように薄い愉悦を滲ませながらニヤニヤとしており、娘は娘で訳わからん闘争心を燃やしながらさらに身体を押しつけてくる。

黒蜜は既にどこか遠くへ引っ込んでしまったようで姿が見えない。


「…って、なんでお前までこっちに身体寄せてくるんだよ」


「そ、それはたろうが私のスペース取るからじゃん!たろう、小さくなって!」


彼女は意味のわからない言い訳をする。

そろそろ鎖骨が痛くなってきた。

でも幸せな気もする。

ここが煉獄か。


「おいおい、流石にモテすぎじゃねーの?あれいいんすかオヤジ」


「ワシも昔はあんな風にモテてたわい!!」


「はぁ…そうですか」


呆れる若頭。


「(……まぁ、これで死ぬならそれはそれで本望か…)」


さっきから甘い香りと体温と、両サイドから押しつけられる柔らかい感触に挟まれ続けて、頭がぼーっとしているのか思考がまともに回らない。


だからこんなアホなことを考えてしまうのだろう。


そんなモヤモヤが頭をよぎった瞬間――


「……あ」


ポケットの中の硬い感触が腿に当たってチクリと痛んだ。


そういえば――


「そうだ」


母娘のあいだから脱出するように上体を起こし、テーブルのほうへ身体を向け直す。


「あぁんっ」


蝶子が逃げられた獲物を惜しむみたいにわざとらしく肩をすくめた。


それから、ポケットの中の高級時計を大理石のテーブルの上にそっと置く。


「なんじゃいこれ」


秀吉が身を乗り出す。


「ジジイの弟の鷹男さんって人に今朝通学中に会ってさ。すずめを助けたお礼だとか言われてこの時計貰ったんだけど正直身の丈に合わなくて困ってるんだ。気持ちは嬉しいんだけど返していいか?」


「ほぉ、たろうもアイツに会ったんか。ワシのところにも今朝数年ぶりに顔出したわ」


反田が目を細めて、時計を覗き込んだ。


「あ……?これパテックフィリップじゃねぇか!?子どもどころか大人にだって渡すモンじゃねぇよ。あの人は何を考えてんだ?」


「ですよねぇ」


マトモな大人の意見に思わず同意を求める。


「ふぅん……」


秀吉は目を閉じてうなった。


「たしかに、たろうみたいなガキに似合う代物ではないわな」


「……まぁね」


ちょっと刺さったが同意しといた。


「にしても…… 鷹男さんずいぶん羽振りええんやねぇ」


「……?」


何気ない調子で呟く一言。

さっきまでの笑顔のままなのに、どこか皮肉めいて感じた。


「……まぁ、あいつは昔から先を読むのが得意じゃったからなぁ」


「でも、さすがに中二に対してこの時計は「先を読みすぎ」じゃないっすか?」


反田がどこか含みのある声を出す。


「そりゃあれよ」


秀吉はテーブルの時計を指先でこん、と軽くつついて


「早めの結婚祝い、じゃろ!!」 


「えぇ!?」


とんでもないことを口にした。


どういう方向転換!?


「あらまぁ。あの人にしてはずいぶんストレートやね」


後ろからくすくすと笑い声。


「たろうくんの手首にくくりつけといたらどこか遠くへ行かへんと思ったんちゃう?」


「け、結婚祝い……」


隣ですずめが顔を真っ赤にして今の台詞を小さく繰り返していた。


「いやいやいや!ちょっと待ってくれよ!?」


慌てて両手を振る。


「俺まだ受験も就職もその前に定期テストの日付すらよくわかってないんですよ!?内申点の仕組みだってよく知らないのに!!」


「そこはちゃんと学校で聞いとけ」


反田のツッコミが飛ぶ。


「でもぉ、別にええやん?」


妖艶な微笑みが向けられる。


「先のことなんてどうせ誰にも分からへんのやし。「あのときよう分からん時計貰ったな〜」っていつか笑い話になったらそれで十分ちゃう?」


「えぇ〜?みんなそんな感じなんですか?……俺もあんまし強くオヤジの弟さんに口出ししたくないしなぁ」


若頭も二人の意見に逆らうのは諦めたらしい。


秀吉は肩を揺らして笑った。


「まぁええ。たろう」


俺のほうへ、滑るように時計を押し戻してくる。


「せっかく貰ったモンじゃ!大事にしとけ。鷹男のやつも――」


そこで一瞬、意味ありげにすずめのほうを見やる。


「――お前とすずめのことを思っとるからこそじゃ!」


「~~~~っ!!」


幼馴染の肩がびくんと跳ねた。

ただでさえ赤かった顔が一瞬でいっぱいいっぱいになる。


「パパ…!勝手なことばっかり言わないでよ……!」


「ジジイは勝手なこと言う生き物なんじゃい。若いモンの将来に口出しせんと墓場でも退屈するわ」


「そんな理由で将来いじられたくないんだけど俺」


思わず口から出た言葉に、蝶子がふふ、と笑った。


大広間の中では、時計ひとつに結婚だの婿入りだの勝手にタグが貼り付けられ、好き勝手な未来予想図が飛び交じる。


俺は時計を手に取り、重みを確かめるみたいに指でなぞった。


「(これ以上はしょうがない。……今は預かり物ってことにしといてやるか)」


心の中で一度だけそう折り合いをつけてから、


「(……でも、俺の意見は……?)」


少し切なくなった。


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廊下の空気は、さっきまでいた大広間よりもひどく淀んでいた。


鈴木本家の長い廊下。

窓のないこの通路は異様に薄暗く怪異でも現れそうだ。

壁に掛けられた古い時計の針の音だけがコツ、コツ、と反響している。

子供の頃は、この廊下を全力で走るのも冒険のひとつだった。


「(……だいぶ長居しちまったな)」


先ほどまでの圧迫感のせいか、頭の奥がまだじんじんと痺れている。

こめかみのあたりに遅れて届いた鼓動みたいな重さが残っていた。


すずめは「パパがたろうに渡したいものがある」とこちらの意見も聞かずにパタパタとどこかへ走って行ってしまった。


なので今、こうして暗い廊下でひとりぽつんと立っている。


それにしてもこの屋敷は本当に広い。


そのとき――



コロン。



乾いた何かが、転がる音がした。


「……ん?」


視線を落とすと、廊下の向こうからぽつんと丸いものがコロコロとこちらに向かって転がってくる。


「………なんだ、これ……手まり?」


白い地に赤い糸で模様の刺繍が入った小さな手まり。


この家に似合わなくはないけど、今このタイミングで廊下にひとつだけ転がってくるのはとても自然とは思えなかった。


ストン、と自分の足もとで止まる。


拾おうとして一歩、近づいた瞬間――


くらり、と視界が揺れた。


「……っ」


廊下の先が少しだけ遠くなる。

さっきまでの火照りの続きみたいに頭の中だけがふわふわしている。


そのとき、気付いてしまった。


廊下の突き当たり近く。

ふすまの向こうからひとつだけ灯りが漏れている。



そのふすまの隙間から



人形めいた白い手が音もなくゆらりと揺れていた。



指先の長い女の手。

その手が、ゆっくりと、こちらに向かって――


くい、くい、と手招きする。


「…………」


恐怖心は不思議と湧かなかった。


頭がぼやけているせいかもしれない。

さっきまで煉獄だなんだとアホなことを考えていたせいだ。


それよりもなぜか、胸の奥のほうでじわりと好奇心が膨らんでいく。


「…………」


何かに導かれるように足が勝手にそっちへ向かっていく。


廊下の板が、きし、と小さく鳴る。

近づくごとに灯りが少しずつ強くなる。

ふすまの隙間から伸びた白い手は黙ってこちらを待っている。


気がつくともう、その部屋の前に立っていた。


ふすまがいつの間にか半分ほど開いている。


中をのぞき込むと――



そこには蝶子がいた。



「……蝶子さん?」



甘い香りをまとった妖しくも艶やかな女。


部屋の中はさっき大広間で感じたのと同じ。

いや、それよりも濃い香りで満ちていた。


甘くてどこか湿っぽい匂い。

香水というよりも、お香に近い。


低い天井の和室に立ちのぼる煙の筋が、ほの白く揺れている。

灯りはついているのにどこか薄暗く見えた。


「どないしたん、たろうくん。今から着替えよう思っとったのに……」


部屋の中央。

畳の上に座っていた蝶子がこちらを見つめている。


さっきと同じ黒地の着物。

白い肌は裾の隙間から覗いており触れれば溶けてしまいそうなほどに柔らかい。

くっきりとした口紅の赤は濡れた唇を妖しく彩り吐息が熱を帯びるたびに微かに光る。

その目だけがやはりどこか温度を欠いていた。


「もう帰るんやなかったん?」


「え、あ……その、すずめが。ジジイから渡すものがあ

るらしくて、ちょっと待ってろって……」


あれ…?でも手が……。


自分でも何を言ってるのか分からない返事をすると、彼女は小さく「あぁ」と相槌を打った。


「そうなんや」


すっと立ち上がる。


その動きに合わせて、着物の裾からあの甘い香りがさらに強くなった。


「まぁええわ。ちょうど、少し聞きたいこともあったし」


「……聞きたいこと?」


「あの人、ひとりで騒いどったやろ?」


「あの人」は秀吉のことだろう。


「結婚やの、孫やの。婿入りやの」


少しおかしそうに口元だけをゆるめた。


「ほんまに、すずめちゃんのこと好きなん?」


「え」


「ほんまにやで?」


真正面から、その質問だった。


喉の奥で言葉がつかえる。


「そ、それは……」


「幼馴染やからとか、一緒におるのが当たり前やからとか、そんなんやなくて」


畳の上でじわじわと距離を詰めてくる。


「女の子として、ちゃんと見とるん?」


甘い香りと一緒にその声が耳元で溶けるように近づいてくる。


「……」


「さっき大広間で、真ん中に挟まれとったやろ」


「あれは……」


「すずめちゃんの顔…ちゃんと見てた?」


問いが、やさしい声に包まれたまま刺さってくる。


「顔、真っ赤にして。肩、ぐいぐい押し込んどったやろ?」


脳裏にさっきの光景がよみがえる。

すぐ隣で頬を染めて睨んでいた幼馴染。


「……見ては、いたけど」


「見てるだけ…やった?」


蝶子はそこでふっと視線を伏せて少し首をかしげる。


「ここから先…どうするつもりなん?」


「どうって……」


「ほんまに、あの子のこと幸せにできる思うとるの?」


濡れた朱の唇がゆっくりと開いていき、艶めかしい舌先がちらりと覗く。


「……」


「たろうくん」


名前をやさしく呼ばれる。


「すずめちゃん、あんたのこと見とるよ」


「それは……」


「でも、あんたは?」


すっと、目が細くなる。


「幼馴染やからって甘えて、自分はどこにも行かへんつもりなん?」


「……」


「数年経ったら「あの頃は仲良かってん」で終わらすん?」


「そんなつもりじゃ――」


「違うん?」


重ねてやわらかく聞き返される。


部屋の空気がじわじわと重くなっていく。


「じゃあ、すずめちゃんに何してあげるつもりなん?」


「……何って」


「守ったるん?」


「……」


「隣におるん?」


「……隣に…いるつもりです」


ようやく絞り出した声は自分でも情けないほど小さかった。


「ふふっ…中学の間はここにおるやろ。でも、その先は?高校は?大学は?」


一つひとつ、階段を数えるみたいに言葉が重なる。


「そのたびに、たまたま同じ方向やったからって言い訳しながらあの子に付いていくつもり?」


「どうやろなぁ……」


「……そないなこと、そんなうまいこといくとは思えへんわぁ」


沈黙が落ちる。


思考が上手く働かない。


黙るしかできなかった。


彼女はしばらく俺の顔をじっと見て


やがて、かすかに目尻を下げる。


「……正直でええ子やね」


その甘い言葉がなぜか怖かった。


「ほな」


「どうしたらええか、分かるやろ?」


「……え?」


「幸せにできるか分からへんのやったら」


「最初から、期待させへんのが優しさなんちゃう?」


艶やかな下唇を自身の歯で甘噛みして少し微笑む。

胸の奥が、痛んで沈む。


「……そんなの――」


言い返そうとした、その瞬間だった。




「――――――ほんなら、少し勉強でもしてみる?」


「――――――え」




彼女の細い指がこちらの胸にそっと触れる。

ぞくりと電流が走る。

その指で心臓の揺らぎを掌握される。


気付けば着物の襟が少しはだけていて、

動きに合わせて偶然、深い谷間が覗いて見える。

白い肌が黒い生地に食い込むように沈み、

息づくたびに影が揺れてはすぐに隠れる。


「……ふふ」


濡れた朱の唇がゆっくりと近づいてくる。

さっき歯で噛んだ跡が残る下唇が艶めかしく光って、

熱い吐息と一緒に甘い香りがこぼれた。


彼女の腰がわずかに前に出る。


着物の布がぴったりと腿のラインをなぞって、

股のあいだの柔らかな隆みがほのかに浮き彫りになる。

それだけで頭がぼうっと熱くなった。


顔が、もう息がかかる距離まで迫る。


「どうする?」


冷たい瞳がじっと獲物を見据えたまま、

かすかに唇を綻ばせた。


「期待、させちゃう?」


それとも……


「今すぐ、逃げる?」





バンッ!!




「――――――なにやってるのッ!!」

 



ふすまが勢いよく開く音が部屋中に響いた。


そこに立っていたのはすずめだった。


肩で息をしている。

走ってきたのだろう。

胸元まで大きく上下しているのに、目だけは真っ直ぐこちらを射抜いていた。


「……あら、すずめちゃん」


先ほどまでの恍惚を隠して少しだけ驚いたふりをする。


「あらやだぁ、そんな怖い顔せんとき。母親として婿になるかもしれへん人のチェックしとっただけやのに」


わざとらしく嘘くさい笑顔を振りまく。


「そんなの……いらないッ!」


すずめは短く切り捨てた。


そのまま、まっすぐこちらまで歩いてくる。


「帰るよ!」


ぐい、と手を取る。

握る手が少し震えているのが分かった。


「……あ、ああ」


部屋から出ようとしたとき、すずめはグッと振り返る。


その視線は蝶子に向いていた。


何も言わない。

ただ、睨む。


彼女はその視線を受け止めるだけだった。


手を引かれながら部屋を出る。




『ただの、凡やね』




ふすまの中から誰かが呟いた。


カラカラと笑う音がする。


廊下の空気は、夏休み前の七月の中旬なのに異様に冷たく感じた。


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「……さいってー……」


すずめはそう言って、片手で片腕を抱えながら視線を下に傾けた。


外に出ると、空はもうすっかり夕暮れだ。


西の空の低いところだけが濃いオレンジ色に燃えていてその光が一面の田んぼを赤く染めている。

カエルの声と遠くで走る車の音。

土と水の匂いが混ざった田舎の夕方の匂い。


「……ハァ………」


深く息を吸うと、じんじんしていた頭の芯が少しずつ軽くなっていった。


「たろう、大丈夫?」


彼女が不安そうにこちらを見上げてきた。


「あの人ほんと最低だから…。変なことされなかった?」


「……あ…あぁ、別に変なことは――」



変なこと



変なこと…?



反射でそう言いかけて言葉が喉の途中で引っかかる。



薄暗いふすまの部屋。

声のトーン。

距離の詰め方。

飲み込まれそうな目。

おいしそうな身体。



……そして、



いや、なんだこれは。



額に触れる。


熱はないのに、さっきまで確かに頭の中に「モヤ」がかかっていた感覚が生々しく残っている。


何も考えられなかった。

ただ、目の前の問いに追い詰められていくだけで反論もできなかった。

彼女の言うことは正論に違いなかったが、だとしてもいつもの俺ならもうちょっと言葉を交わせたはずだ。

声の揺らぎや視線の動かし方で軽い誘導を受けていたのか?

しかし、普通に考えてそんなことがありえるのか?


「蝶子さん、なにか言ってたの?」


「それは……」


言葉を選ぼうとして、ふと鼻の奥にさっきの匂いがよみがえった。


甘くて、どこか湿った


煙の匂い。


甘く、


満たされた、


あの、



「――――――――――お香?」



思わず、口の中でつぶやいていた。


「え?」


すずめが戸惑ったようにこちらを見つめる。


さっきの部屋を満たしていたあの香り。


今思えば、さっき大広間で隣に座ったときも


あの人がすぐ横に腰を下ろしたその瞬間に、


香水の華やかな匂いのさらにその奥。


ほんのかすかに、さっきと同じお香の香りが混じっていたような気がする。


そうだ……


廊下で手まり見つけて、ふすまの部屋に歩いていった時も。


あのときも、なぜか迷いもなくふらふらと足が向いていた。怖さよりも先にあの香りを追いかけていた。


もしも、あのお香になにか「薬物」に似た特殊な成分が入っていたとしたら。


さりげなく隣に座ったのも、身体を押し付けて距離詰めてきたのも、全部――“わざと”だとしたら。


大広間で俺を見つけたあの瞬間、

いや、部屋をお香で満たす時間も考えたら、

俺がこの屋敷に来ていると彼女が認識したその時から


鈴木蝶子の術中にハマっていたことなる。


すずめの顔が心配そうに近づく。


「たろう?」


もしかしたら――あの人はすずめの近くにいる俺の人間性を見たかっただけなのかもしれない。


どんなふうに揺さぶれば迷うのか。

どこまで追い詰めれば黙るのか。


でも、このやり方は


あまりにも、『敵意』だ。 



だとしたら、その中心にいるすずめは――



「なぁ…すずめ。あの人すずめのこと嫌うとかそういうレベルじゃなくてさ。なんか……かなりヤバい人なんじゃないのか。……お前こそ、何かされてないのか?大丈夫なのか?」


気づいたら口が勝手に動いていた。

そして、一番聞きたかったことをそのまま彼女にぶつけていた。


「私は…大丈夫。黒蜜もいるし、パパもここ数年はずっと私のこと見てくれてるから。たろうが大丈夫なら…私も大丈夫」


彼女の横顔が少しだけ強張る。


「……そうか」


うまく返せなかった。

でも、その言葉がどこかで本心じゃないような気もした。



「……あ、そうだ」


思い出したように紙袋を差し出してくる。


「これ。パパが……渡せって」


中には、さっき大広間のテーブルに並んでいたのと同じ高そうな菓子がぎっしり詰まっていた。


「ははっ、貰い物返すつもりが逆に増えちゃったな」


思わず苦笑いが漏れる。


「そうだね」


すずめもくすっと笑ったが、その笑い声の端っこは少しだけ寂しそうだった。


しばらく、二人の間に沈黙が落ちる。


遠くでカラスが鳴いている。

どこかの家から晩ごはんの匂いが風に乗って届いた。


「……じゃあ、帰るわ」


そう言ってさっと身体の向きを変える。


「……うん」


返事はあった。

けれど、さっきより少しだけ暗い声だった。


舗装されきっていない道を、二、三歩ほど歩いたそのとき――


「ねぇ、たろう」


背中に、彼女の声が飛んできた。


歩みが止まる。


「……なんだよ」


顔だけ彼女のほうへ振り向く。

夕日の残り火が足もとだけを朱く染めている。


「たろうは……」


声が風よりも細くなる。




「たろうは……都会に行きたいの?」




夕方の音がぜんぶ、ぴたりと止まる。


カエルの鳴き声も。


稲穂の揺れる音も。


土と水の遊び声も。


そして、


「いきなり何言ってんだよ。そんなわけないだろ」


世界がまた、動き出した。


カエルが鳴き、風が稲穂を撫でる。

土と水の匂いがふたたび鼻をくすぐった。


「……そうだよね。変なこと言ってごめん」


笑顔。

しかし、無理やり口角だけを上げているのが分かった。


「……じゃあな」


自分もできる限りふつうの笑い方をして、もう一度背を向ける。


一歩。


二歩。


三歩。




――――違う



俺はそこまで馬鹿じゃない



ここまでのあの子の言葉も


さっきの表情も


部屋に飛び込んできたときの叫び声も


ちゃんと見ている 


ちゃんと分かっている


「都会に行きたいの?」という問いに


「そんなわけないだろ」と答えることが


明らかに――間違った『選択肢』だってことくらい



俺は間違えない


間違えてたまるか



足が止まる。


握っていた紙袋がかさりと音を立てた。



すずめのほうへ再び振り返る。


「……ごめん、すずめ」


夕暮れの田んぼ道に彼女の姿がぽつんと浮かんでいる。


「え?」


目を丸くしている。




「俺さ。やっぱり都会に行きたいよ」




夕焼けの残り火の中で、その言葉をはっきりと言った。


「俺…」


「東京の……渋谷とか、行ってみたいんだ」


「好きな漫画のシーンにさ、渋谷がでてくるんだよ。前からずっと実際に見てみたいって思ってた」


「都会ならたぶん……漫画もゲームもすぐ買えるし」


「正直、上京してーな……なんて考えてないわけじゃない」


自分の胸の中を、ひとつずつ言葉にしていく。


すずめは「うん…うん…」と小さく何回も頷く。

切なげな表情の奥に、彼女の心が軽くなっていくのが見えてわかった。

どこかでずっと前からこの答えを知っていたみたいな。

それでいてようやく聞けたことにほっとしているみたいな。

そんな、切なくて、でもどこかすっきりした顔。




「だからさ――――――」




一度、深く息を吸う。




「――――――俺と一緒に都会に行こうぜ」




「……え?」



今度は、本当に声が出ていなかった。

唇だけがかすかに震えている。


「お前と一緒に行ったほうがさ」


自分で言ってて少しだけ気恥ずかしくなる。


「騒がしくて、楽しそうだし」


それから、ふと思い出したみたいに続ける。


「それに…誰にも言ったことなかったけど」


ポケットの中であの不似合いな時計がカチリと鳴った気がした。


「…かわいいパフェとか、ちょっと食べに行ってみたいんだよな」


「なんか…ほら。TikTokとかで見るだろ。いちごがどさっと乗っててさ。ああいうの…」


笑ってごまかしながら頭をかく。


「一人じゃなかなか入りづらいし……これ、恥ずかしいから誰にも言うなよ?」


「…………」


すずめは、何かを必死にこらえるみたいに目をぎゅっとつむった。



「じゃあ、決まりな」


そう言って軽く拳を握る。


「俺が都会に連れてってやるよ」


「…………」


沈黙が落ちる。


夕焼けの風がふっと吹き抜けた次の瞬間――



「……う、うぇぇ……」



変な声が聞こえた。


「は?」


顔を上げると、すずめの目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。


「ちょ、おま――」


「う、うぇぇぇぇ……っ……!」


さっきまで無理やり作っていた笑顔が一気に崩れ落ちていく。

膝から力が抜けたみたいにその場にうずくまってしまった。


「お、おい!?別に泣かせるつもりは――」


「うぅっ……だ、だってぇ……!連れてってやるとか言うからぁ……!」


肩が小刻みに震えている。

指先まで全部で涙をこぼしているみたいだった。



彼女はぐしゃぐしゃの顔を俯きながら


「ひぐっ……ねぇ……」


しゃくり上げながら、掠れた声で言う。


「私も ――――――」





「――――――私も、都会に連れて行ってくれるの……?」





その姿を、たしかに見た。


血。

一族。

歴史。

過去。

これから。


目に見えない鎖や責任、「呪い」のようなものがあの小さな身体ぜんぶにぐるぐると巻きついて


その全部を引きずりながら


それでもなお、もがきながら手を伸ばしている女の子の姿を、たしかに見た。


「そんなの、当たり前だろ」


夕焼けの中ではっきりと言う。


「別にすずめを連れ出すことなんて、俺からしてみれば大したことじゃない」


「……」


「そんぐらい、連れて行くに決まってんだろ」


彼女はまた両手で顔を隠して、


「うぇぇぇ……!」


と、子どもみたいにうずくまり泣きじゃくってしまった。


「お、おいおい……」


どうしたらいいか分からなくて頭をかく。


ポケットの中を探ってみる。


こんなときにできる男ならきっとここでハンカチのひとつでも出すのだろう。


けれど、どれだけ指先を探ってみても出てくるのは場違いな高級時計と十円玉。

それと、くしゃくしゃになったコンビニのレシートだけ。


途方に暮れた俺は――


彼女の正面にそっとしゃがみ込んで泣き止むのを待つここしかできなかった。




夕焼けの田んぼ道にふたつの影が落ちている。


ひとつは、うずくまって泣いている小さな影。

もうひとつは、どうしたらいいのか分からず座り込んでしまった小さな影。


遠くで畑仕事を終えた農家が、その光景に気づいて立ち止まる。



夕暮れの光に伸びたふたつの小さな丸い影。



その姿はまるで、



互いに寄り添いながら生きていく



雀(すずめ)の夫婦に見えた。



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