第10話

 ダメだ、と三井は首を振った。これ以上この話を聞いてはダメだ。せっかく忘れていたのだから。このまま思い出しては、だめだ。

 何度も首を振りながら三井は先を問うことをやめることはできなかった。言葉を止めることができない。


「その子供は……」

「さあ、そんな話があるって伝え聞いたものですから……ぼくにはわかりませんけど。でも、人魚に会った人はまた呼び寄せられるように戻ってきてしまうそうですよ。まるで運命だといわんばかりに」

 ぼくやあなたのようにね、と紀は口元を上げた。


 片隅にある記憶が点滅する。ずっと浜辺で両親を待っていた。夜が来て真っ暗な砂浜に波がすぐそばまで打ち寄せてきても、誰も迎えに来てはくれなかった。不安になりながら一人で眺めていた海を思い出す。___遠い昔の出来事…。


「ここでひっそりと生きていければよかったんですよ。ひおと、ぼくと、ただ2人でずっと」

 紀は三井の手を掴んだ。力の抜けていた腕はしっかりと紀の手の中にある。

「両親も親戚も友人もみんないなくなって。何年も何十年もすべてが移ろいゆく中で、ひおといることだけは変わらない。それだけなんですよ」


 三井さんも同じですよね、と紀は三井の指を撫でていく。途端に腫れていた場所がずきりと痛んだ。

「っ……」

「これ、歯型ですよね。誰かに噛まれた?」

「……わ、かりません」

「家に帰って手当しましょう」


 帰りの車の中は2人とも無口だった。

逃げることもせず促されるまま紀の家へと帰ってきてしまった。家の中に入るとひおのにおいが充満している。

 その夜も紀の作る食事をごちそうになり、深夜まで書庫にある蔵書を読ませてもらった。小説のネタはたくさんあった。三井の中から沸き起こるようにストーリーが紡がれていく。

 かなり夜も更け、紀が眠りについただろう頃に三井はひっそりとひおのいる部屋へと向かった。廊下が三井の足跡を吸い込んでいく。

「ひお」


 扉を開けて声をかけようとすると、水音に交じり誰かがクスクスと囁き笑いあうひそやかな声が耳に届いた。あまりにも親密な声色にギクリと体をこわばらせた。

 薄暗い部屋の中、水辺に寄り添うようにして紀とひおが顔を寄せ合っていた。

「やっぱり来ましたね」と声の主である紀が三井に顔を向けた。

「遅かったですね」

「紀さん……」


 勝手にひおのもとを訪れた気まずさに視線を逸らすと紀は「こちらへ来ませんか」と三井を誘った。

「ひおも待っていましたよ」


 誘われるままに水辺へとよるとひおから生臭いにおいが発せられていることに気がついた。水を波打たせながら水面へと躍り出て愛らしい顔を三井へと向けてくる。

 ひお___三井の両親を奪ったかもしれない人魚。それでも怖いとは思えなかった。不思議なもので気持ちは凪いだように穏やかで、ずっと昔から全部知っていたような気がする。

「お前だったんだね」

 濡れた髪を撫でてやると気持ちよさそうに喉を鳴らし、目を細めた。

「ひお」

 名前を呼ぶと愛おしさが胸の中一杯に広がっていく。人魚は人間を惑わすものかもしれないけど、ひおになら惑わされてもいい。紀もそうなんだろう。


「紀さん、さっきの話……」

「ん?」

「いいえ。なんでも」

 もう今更どうでもよかった。今こうしてひおや紀と一緒にいることがすべてだ。それでいいと思った。


「紀さんの知っていること、もっと教えてください」

「ぼくの知っていること?」

「はい。紀さんの著書をたくさん読ませていただきました。どれもひおへの愛情がたくさんで、あなたが本当に人魚を愛していることが伝わってきました。ぼくの小説もどうやらかけそうな気がします。でも、あと一歩なんです…もし、まだ知っている秘密があるなら教えてください」

「そうだね」と紀はひおの頬を撫でた。

 薄暗い部屋の中で水中だけが鈍く光り輝いていた。水の輪が広がっている。


「じゃあ、人魚の肉を食べると本当に不老不死になれるのか……三井さんはどう思いますか?」

「……なれると思います」

「どうして?」

「人魚は長く生きると言われています。だから血や肉にもそんな力があるかもしれない」

 ひおが水に潜り、気持ちよさそうに体をくねらせ泳いでいる。

 それを眺めながら紀は「半分正解」と答えた。

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