第7話

 ほどよくお酒が入って気持ちも大きくなってきたからだろうか。三井はふと疑問に思っていたことを口に出した。

「ところで紀さんはひおとどこで出会ったのですか?」

 普通に考えて、人魚に遭遇することも、一緒に暮らすということもそう起こりえない。

「そうですね」と紀は遠くを見るように目を細めた。

「三井さんと同じですよ。もうかなり昔の話ですが子供のころのぼくは体が弱くてね、綺麗な環境にいたほうがいいっていうことで親戚のいる海辺の家に住ませてもらっていました。ほかにすることもないからずっと海を眺めて過ごしていた」

 そんなある夜のことだった。


「満月の夜だったから、辺りの景色が良く見えていてね。その日もぼくは海を眺めていた。ふと穏やかな波の間に何かが顔を出したのに気がついた。浮いては沈み、また浮いて……と不自然な動きをするそれに好奇心が勝ってしまってね。ぼくは家を抜け出して浜辺へと行ってみた」


 月がくっきりと浮かんだ凪いだ夜の海。ふとかすかに歌声が聞こえる。


「その声を耳にしたとき、ためらいもなく海の中へと足を踏み入れてしまった。誘われたんだろうね、濡れるのも構わなかった。腰のあたりまでつかったときに、ふいに目の前にひおが現れた」

 幼かった紀さんが海の中でひおと出会う場面を想像してみた。それはなんてロマンティックな風景だったのだろう。


「ひおはじっと暗い瞳でぼくを見た。ぼくはその美しさに見惚れた」

 見つめ合った2人に何か伝わりあうものがあったのだろうか、紀はうっとりとした色を瞳に浮かべ夢見るように先を続けた。

「ひおはぼくの名前を呼んだ。なぜ名前を知っていたのか不思議なんだけど、その声を聞いたときぼくはひおのために生きると決めた。ひおと共にいつまでも……生きる」


 そこで紀はふ、と息を吐き、三井に視線を投げかけた。その瞳はひおと同じもののように見えた。

 昔を懐かしんだからなのだろうか、ほのかな灯りに照らされた紀の顔が一瞬老人のように枯れ果てて見えた。長く遠い時間を生きてきた人のように老熟した姿にゾクリと背筋が粟立つ。


「羨ましい、です」と三井は答えた。

「ぼくもあの時怖がらずに海に入っていたらもっと早くひおに会えたんでしょうか」


 満月の夜に出会った紀とひお。人種を超えてなお、強く結びついているふたりの絆が羨ましいと思った。


「かもしれませんね」

 もし紀より先にひおに出会えていたら。

 もし紀じゃなく、三井と共にひおが生きてくれていたら。

 ずっとこんな風に一人ぼっちでさみしさを抱えて生きてこなくてもよかったのかもしれない。

 今の紀と同じように、三井こそがひおと共に生きてきたのかもしれない。


 意識がどんどん暗闇に落ちていくようだった。飲みすぎたのか頭の芯がおぼつかなくなっていく。フラリとバランスを崩しかけた三井を支え「ゆっくり休んでください」と紀は囁いた。遠のいていく記憶の果てに、ひおの跳ねる音が聞こえた気がした。


 目を覚ますと見慣れない景色がそこにあった。

 三井は重たい頭を抱えながらゆっくりと昨夜の記憶をたどり始めた。体が重たい。

 畳敷きの和室にひかれた布団は真新しく丁寧にアイロンがかけられたシーツには三井が乱したと思える皺が広がっていた。清潔な香りがかけられた布団から漂う。


「……う」

 頭の奥が響くように痛み、こめかみに手をやりながら部屋の中を見渡す。

 脱ぎ捨てられた洋服が辺りに散乱し、だらしなく下着一つの姿で三井はそこにいた。

「あー……飲みすぎたのかな……」

 おぼろに思いだす記憶の片隅で、紀に甘えて背負われた自分の姿がよみがえった。

「失礼だったよなあ……」

 初対面のくせにちゃっかり食事までごちそうになり、酔っ払って部屋に運んでもらうなんて、我ながら情けなくて仕方がない。愛想をつかされていなきゃいいけど、と思った三井の耳に小さくふすまを叩く音が聞こえた。

「三井さん、起きていますか?」

「あ、はい……今開けます」


 慌てて散らかった服を着こみ、髪を撫でた。伸びたひげが指をチクチクと刺し、その痛みから小指の付け根がひどく腫れていることに気がついた。

「……なんだろ」

 ぶつけた覚えも、怪我をした覚えもない。

 よく見るとなにやらガタガタとへこんでいる痕がうっすらとついている。


「……? 歯形?」


 寝ながら噛んだのだろうか? 指しゃぶりの癖はないはずだけど、と首をかしげつつ紀を待たせているふすまを開けた。

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