第4話

 紀が楽しくてたまらないといった風に笑い声を立てると、水槽は大きく波打った。水音を立てて何かが跳ねる。飛んできた水滴は生っぽいにおいをまとって頬を打ち、三井はヘタリと腰を抜かした。

「紀さん、今、何かが……」

「そうですよ。あなたが恋した人魚が、ほら」


 ひお、と紀は言葉を発した。


「おいで、ひお。お客様が会いに来たよ」

 紀の呼ぶ声に反応したのか、もう一度水が大きく波打ち水中から人のようなものが浮かびあがってきた。敷き詰められたタイルの上にその全体を表すと、ひお、と呼ばれた者が甘えたような声を漏らす。


「ご挨拶しようか、ひお」

 濡れるのもかまわず紀は寄り添って三井へと向き直る。それは人と呼ぶには不確かで不安定なものだった。

 三井を見つめる整った顔は今まで会ったどんな人間よりも美しい。その下にある体は白く透き通っており、惜しげもなく三井にその全貌をさらしていた。下半身は鱗に覆われ尾びれが水槽の中で楽しげに揺れている。


「さあ、ひお。彼が君に会いたがっていた三井さんだよ」

 ひおは嬉しそうに笑みを浮かべると、二度、尾びれを打った。

「嬉しいね。君も会いたがっていたから」

 紀は愛おし気にひおの体を撫で、三井へと顔を寄せた。


「三井さん、あなたにはひおはどう見える?」

「う、つくしい、です」

「そうか」

「こんな美しい人は、見たことがない」

 目の前の光景が信じられず、三井は何度も瞬きを繰り返した。


 幼い三井が見た人魚もこんな風貌をしていたのだろうか。今目の前にいるそれのように、楽しげに人と戯れたくてあの時現れていたのだろうか。もしかして、あの時の、あの子が。

 それともこれは騙されているのだろうか。何も知らず訪ねてくる三井をからかおうとして?


「本物……?」

 紀は三井の反応を気に入ったのか満足そうに笑みをこぼし、ひおと呼ばれる人魚を愛おしそうに撫でている。


「本物ですよ。触ってみますか?」

「やっ、あ、の……」

 三井の考えていることなんてお見通しだと言わんばかりに、紀はクスクスと笑い声をあげ「わかりますよ」と続けた。

「まさか本物の人魚がこんな風こんな場所にいるなんて思わない。もしかしたらでっちあげかも、なんて思ったのでしょう?」

「いや、は、はい」

「あなたは正直だな」


 座り込んだままの三井は腕を引っ張られ、もっと近くへと呼び寄せられた。すぐ目の前に人魚がいる。さっきから鼻につくにおいはその人魚から発せられていた。

 手を伸ばせば触れる距離にいる人魚はとても作り物とは思えなかった。あらわになっている肌は本物の人間のようだ。下半身との縫い目はないかと目を凝らしたが見当たらない。ウェットスーツのようなものかもと思ったが違う。これが作り物だとしたら、紀の腕前は確かなものだ。

 これは本物の人魚なのか?


「触ってみて」

 心を読まれているのか、紀は三井の考えを口に出した。

「本物かどうか確かめたいのでしょう? どうぞ」

「……っ」

 恐る恐る手を伸ばす。恐怖より好奇心のほうが勝っていた。

 ひたり、と手のひらに当たる肌は吸い付くように湿り気を帯び、滑らかだった。産毛一つなくツルツルとした肌ざわりはまるで女の肌のようで、三井は顔に血が上るのを感じた。

「気持ち、いい……」

「ヒレも本物だよ。触ってごらん」

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