第2話 怨讐の河、血の浄化
劉勲の思考が、白く弾ける。帰る場所も、家族も、財産も、すべて孫策という底なしの渦に飲み込まれたのだ。
「戻るぞ! 晥城を奪還する!」
劉勲は叫んだ。だが、それは戦略ではない。ただの恐慌による反射だ。
それは戦争ですらなかった。飢えと絶望で足の止まった劉勲軍に対し、孫策軍は岩をも砕く勢いで衝突した。
肉が弾け、骨が折れる音が、乾いた大地に響く。劉勲は西へ逃げ、
船が燃え、長江の水面が油と血で
劉勲は、わずかな供回りと共に北の曹操のもとへ逃れた。それは、江東という巨大な生き物から、不要な異物が吐き出された瞬間でもあった。
孫策は、燃え上がる敵船を見下ろしながら、その熱量を肌で感じていた。
「劉勲は北へ落ちた。これで背後の憂いは断たれたね」と、周瑜が告げる。
「ああ。……だが、まだ足りん」
孫策の視線は、劉勲の逃げた北ではなく、長江の上流、西へと向けられていた。
「
「……休ませなくていいのかい? 兵たちは連戦だ」
「熱鉄は、冷やせばただの鉄屑になる。熱いうちに叩く。……行くぞ、
孫策の瞳孔が、狙いを定めた猛禽のように収縮した。
復讐。それは感情の問題ではない。父が殺されたという「負の欠損」を、敵の全滅という「死」で埋め合わせ、世界を平らかに戻すための、冷厳なる精算作業である。
「全軍、
命令は雷撃のように伝播し、孫策軍という巨大な
建安四年(一九九年)、十二月。江夏郡、
冬の長江は鉛色の重い水を
「来るぞッ! 射ち返せ!」
矢の雨が降る。だが、孫策軍の先鋒は止まらない。
先頭を行く船には、
ドォォォン!!
衝突音。孫策軍の将兵は、まるで重力から解放されたかのように、軽々と敵船へと飛び移った。
「殺せェェッ!! 孫
黄蓋の
そこにあるのは、洗練された戦術などではない。純粋な「殺意の質量」だ。
積年の恨みという熱量が、物理的な破壊力に変換され、黄祖軍を
孫策自身も旗艦の
敵の増援が突っ込んでくる。だが、孫策は笑った。
「遅い。……止まって見えるぞ」
周瑜の水軍が側面から回り込み、敵船団を包囲圧縮する。逃げ場を失った敵兵たちは、次々と冬の長江へ突き落とされた。
劉虎、戦死。韓晞、戦死。
黄祖軍の主力は、わずか数刻のうちに壊滅した。黄祖本人は、あまりの一方的な殺戮劇に精神を圧し潰され、尾を巻いて逃げ出した。
「逃がすな。地獄の底まで追い詰めろ」
結果。斬首二万余。溺死一万余。獲得した船六千隻。
それは、勝利という言葉では生温い、「完全なる
戦いは終わった。
長江の水面は赤黒く染まり、血の匂いが霧のように立ち込めている。
孫策は、
父の無念は、晴らされたはずだ。だが、孫策の胸に去来したのは、歓喜ではなかった。
(……軽いな)
彼は、手すりを強く握りしめた。
どれだけ敵の血を流しても、父・孫堅が帰ってくるわけではない。死という不可逆な
この勝利は、巨大な空白を生んだだけだ。そして、その空白を埋めるためには、更なる勝利、更なる征服が必要になる。
「伯符。終わったよ。これほどの戦果は、古今稀だ」
背後から周瑜が声をかけた。その美しい顔には、疲労の色と共に、ある種の諦念が浮かんでいた。
「だが、これで朝廷も曹操も、君を無視できなくなる。我々は、巨大になりすぎた」
「恐ろしいか? 公瑾」
「いや。……ただ、風が強くなると感じているだけさ」
孫策は振り返った。その瞳は、深淵のような暗さを帯びつつも、依然として強烈な光を放っていた。
「俺は止まらんぞ。曹操が俺を恐れるなら、恐れさせておけばいい。……このまま北へ向かう」
「北へ?」
「
周瑜が息を飲む。曹操の本拠地、帝のいる都。そこを衝くというのか。
「今は無理だ。兵も疲弊している」
「分かっている。一度戻り、態勢を整える。……だが、俺の目はすでにそこを見ている」
孫策は、北の空を
復讐の虚しさを埋めるには、天下そのものを掴むしかない。その渇望が、彼を突き動かしている。
船団が東へと帰還を始める中、孫策だけは静寂の中にいた。彼の背中には、父の霊ではなく、数万の死者の影が張り付いている。
江東の小覇王。その全盛期は、あまりにも鮮烈な血の色で彩られていた。
そして、その血の匂いは、新たな捕食者たちを確実に引き寄せつつあった。
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