​第3話 峴山の雪、虎の最期


​ 白は、死に装束の色だ。


​ 初平二年(一九一年)、冬。


 荊州、襄陽近郊の峴山けんざん


 視界を埋め尽くす雪の白さが、孫堅そんけんの眼球を焼いていた。


 痛いほどの白。その清廉な雪化粧に、汚濁おだくのような赤が、どす黒く散らばっていた。


 自らの血である。


​「ぐ、おぉぉ……ッ!」


​ 孫堅は、泥と雪が混じり合う泥濘ぬかるみの中に横たわっていた。


 身体が、動かない。


 直前の光景が、強烈な閃光となって脳裏に焼き付いている。


 竹林に響いた、ヒュオッという風切り音。それは一本や二本ではない。空を覆い尽くすほどの、死の豪雨。


 黄祖こうその部将・呂公りょこうの伏兵による、矢と巨岩の奇襲であった。


​ 孫堅は剣を振るい、矢を叩き落とした。だが、多勢に無勢。


 頭上から落下してきた巨岩が、愛馬の頭蓋を粉砕したのだ。馬は悲鳴を上げて崩れ落ち、孫堅はその下敷きとなって雪泥の中に放り出された。


 そして今、胸部に焼き火箸を突っ込まれたような激痛が走っている。肋骨が砕け、その切っ先が臓器を突き破っているのがわかった。


​ 音がない。


 先ほどまでの矢の音、岩が地面を穿うがつ轟音、兵たちの断末魔。それらが嘘のように消え失せている。


 聞こえるのは、己の荒い呼吸音と、心臓が早鐘を打つ音だけ。


​ 空を見上げた。


 灰色の空から、無感情な雪片が舞い落ちてくる。


 冷たい。


 その冷たさが、孫堅に突きつけられた「死」という現実の温度であった。


​「……は、かったな。劉表……」


​ 口から泡と血が溢れた。


 罠だ。単純にして、回避不能な殺しの手口。名乗りも上げず、一騎打ちも挑まず、ただ圧倒的な物量で英雄を押し潰す。それが、老獪な劉表のやり方か。


​ ガサリ、と竹薮が鳴った。


 岩陰から、数人の兵が姿を現した。


 黄祖の配下たちだ。だが、彼らは怯えていた。泥まみれになり、瀕死の重傷を負ってなお、孫堅の放つ殺気が彼らを射竦いすくめていたのだ。


​「……来い」


​ 孫堅は、潰れた足を引きずりながら、剣を杖にして立ち上がった。


 ぐらりと視界が揺れる。だが、膝は屈しなかった。


 この場に、味方はいない。


 程普ていふも、韓当かんとうも、後続は断たれている。


 そして何より、孫策がいない。家族は皆、遠いじょ県にいる。


​ よかった。


 あいつらを、この死地に巻き込まずに済んだ。それが、父としての最後の安堵だった。


​「来いッ! 俺の首が欲しいのだろう! ならば取りに来い! その薄汚い手で、江東の虎の喉笛を掻っ切ってみせろ!」


​ 孫堅の咆哮が、雪山に木霊した。


 兵たちがビクリと震え、後ずさる。


「ひ、ひぃッ! 化け物か……!」


「射ろ! 近づくな、射殺せ!」


 指揮官の男が、裏返った声で叫んだ。


​ 再び、矢が放たれた。


 ヒュン。ドスッ。


 乾いた音がして、孫堅の肩に、腹に、矢が突き立つ。


 痛みはなかった。ただ、身体から熱が急速に逃げていく感覚だけがあった。


​(……ああ)


​ 孫堅は、刀を落とした。


 カラン、と寂しい音がした。


 もう、握力がない。剣に生きた男が、剣を握れなくなった時。それが、寿命の尽きる時だ。


 孫堅は、ゆっくりと仰向けに倒れた。背中に、冷たい雪の感触。


 不思議と、心は凪いでいた。


​ 走馬灯の中に、遠き揚州の風景が浮かんだ。


 舒県の屋敷。あそこで待つ家族の顔。


​ 策よ。


 俺の自慢の息子。炎のような男だ。あいつなら、俺がやり残した覇業を成し遂げるだろう。


​ 権よ。


 碧眼の次男。あいつは氷だ。静かで、深い。乱世を終わらせるのは、案外、ああいう男かもしれん。


​ そして、呉よ。我が妻よ。


 土産話の一つも持たずに帰る俺を、許してくれ。


 だが、天下など、あの石塊(玉璽)一つで買える安っぽい夢に過ぎなかった。


 俺が本当に欲しかったのは、お前たちが笑って暮らせる国だったのだがな。


​(……満足だ)


​ 孫堅の手が、力なく地に落ちた。


 瞳から、光が消える。


 その最期の表情は、鬼神のような憤怒ではなく、獲物を狩り終えて眠りにつく猛獣のような、穏やかなものであった。


​ 享年、三十七。


 江東の虎、孫文台。


 漢帝国の落日と共に現れ、その崩壊を見届けるようにして、名もなき山中で、たった独り、雪に埋もれて散った。


​ 雪が、降り積もる。


 孫堅の亡骸は、瞬く間に白く覆われていった。


 兵たちが恐る恐る近づき、その死を確認して歓声を上げるまで、山は深い静寂に包まれていた。


​ 虎は死して皮を残すという。


 だが、孫堅が残したのは皮ではない。


 牙だ。


 彼が育て、研ぎ澄ませた、若き狼たちの牙。


 その牙が、まだ遠く離れた地で、父の死を知らずに眠っている。


​ 巨星墜つ。


 その衝撃が、残された者たちを襲うのは、これから数日後のことであった。

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