​第3話 陽人の復讐戦、そして兵糧の危機


​ 飢え。


 それは、剣で斬られた傷よりも深く、寒さよりも鋭く、兵士の心を削り取る。


 だが、今、陽人ようじんの城塞に満ちている飢えは、食料への渇望ではない。


 殺戮への飢えである。


​ 初平二年(一九一年)、二月。


 梁東りょうとうでの敗北から数日。這々ほうほうの体で陽人に立て籠もった孫堅軍は、しかし、死んではいなかった。手負いの獣が傷を舐め、膿を出し切り、鋼の肉体を練り直すかのように、彼らは再編されていた。


​ 城壁の上に立つ程普は、眼下に広がる敵の大軍を見下ろしていた。


 董卓軍、五千。


 指揮官は胡軫こしん。そして騎督には、あの中原最強と謳われる飛将・呂奉先りょほうせんがいる。数でも質でも、彼らが勝っているはずだった。


 だが、程普の老練な眼は、敵陣に巣食う致命的な「亀裂」を見逃さなかった。


​「……乱れておるな」


​ 呟きは、風に乗って消えた。


 敵の動きがおかしい。進んでは止まり、止まっては退く。まるで、手足の連携が取れていない巨人のようだ。


 原因は、呂布だ。


 あの男は、戦場を己の狩り場としか考えていない。上官である胡軫の手柄を阻むため、偽情報を流し、軍を疲弊させているのだ。


​『敵は逃げたぞ! 急げ!』


『敵が逆襲してくるぞ! 逃げろ!』


​ 呂布が撒き散らす虚言という猛毒が、董卓軍の規律を内側から腐らせている。


​「程普」


​ 背後から、鋼鉄が擦れ合う音がした。孫堅である。


 その顔には、梁東での屈辱の色は微塵もない。あるのは、獲物の喉笛を見つけた捕食者の、冷徹な笑みだけだ。


​「見ろ。奴らは、俺たちに殺されるためにやってきたようだ」


「御意。胡軫と呂布、互いに足を引っ張り合い、兵は疲労困憊の極みにあります。……喰らえますぞ」


「ああ。骨までな」


​ 孫堅は太刀を抜き放った。その切っ先が、夕陽を浴びて赤く輝く。


​「全軍、突撃ッ! 梁東の借りを、百倍にして返してやれ!」


​ 門が開いた。


 解き放たれたのは、復讐という名の燃料を投下された、狂乱の炎であった。


 孫堅軍の突撃は、戦術というよりも、災害に近かった。


 疲労し、甲冑を脱いで休息していた胡軫軍は、成す術もなく蹂躙じゅうりんされた。


​ 程普は、槍を振るいながら戦場を駆け抜けた。


 敵兵の悲鳴、骨が砕ける音、血の飛沫。それらすべてが、死んだ祖茂そもへの手向けの花のように思えた。


​「逃がすな! 一兵たりとも生かして帰すな!」


​ 程普の目の前で、敵の都督・華雄かゆうが、孫堅の軍勢に囲まれていた。


 華雄は猛将として知られた男だが、今の彼は、波に飲まれる小舟に過ぎなかった。孫堅軍の兵士たちが、恐怖心など微塵もなく、蟻のように群がり、槍を突き入れる。


 華雄の首が飛んだ。歓声が上がる。


​ 一方、呂布は、戦況の不利を悟るや否や、自らの配下だけをまとめて戦場から離脱していた。


 その去り際、呂布は一度だけ振り返り、嘲笑うかのように悠然と馬をいななかせた。味方が虐殺されるのを愉しんですらいるような、底知れぬ化物。


 その背中に、程普は唾を吐きかけた。


 あれが飛将か。ただの裏切り者の野良犬ではないか。


​ 陽人の戦いは、孫堅軍の圧倒的な勝利に終わった。董卓軍のしかばねが山を成し、孫堅の名は再び轟いた。


 だが。本当の敵は、目の前の董卓軍ではなかった。


​ 勝利の美酒は、瞬く間に腐った泥水へと変わった。


 兵糧が、来ない。


 陽人での勝利から数日。後方の袁術えんじゅつから送られてくるはずの軍糧が、ぷっつりと途絶えたのである。


​「……米がない、だと」


​ 軍営の一角で、程普は輜重しちょう担当の兵を問い詰めていた。兵は青ざめた顔で首を振る。


​「は、はい。魯陽ろようからの輸送が止まりました。使いを出しましたが、袁術様の陣営に入れてもらえず……」


「馬鹿な。我らは勝ったのだぞ。最前線で血を流し、董卓の喉元まで迫っているのだ。その軍に飯を送らぬ道理がどこにある」


​ 程普の脳裏に、袁術の、あの粘着質な笑顔が浮かんだ。


 ――『孫文台が洛陽を落とせば、もはや私の制御は効かなくなる。狼を追い払って虎を飼うようなものだ』。


 誰かが袁術にそう吹き込んだのだ。あるいは、袁術自身の狭量きょうりょう猜疑心さいぎしんか。


 嫉妬。


 孫堅の武功が、名門・袁家の威光をかすませることを恐れたのだ。そのつまらぬ保身のために、前線の数万の将兵が飢え死にしようとしている。


​ 陣内に、不穏な空気がよどみ始めた。


 兵たちの目が虚ろになり、不満の声がさざ波のように広がっていく。


 敵に殺されるならまだしも、味方に餓死させられるなど、誰も納得できぬ。


 程普は、握り飯を一つ、懐から取り出した。自身の朝餉あさげにするはずだったものだ。


 近くで座り込んでいた若い兵士に放ってやる。


​「食え」


「て、程普様……しかし、これは」


「俺は枯れかけた古木だ。水さえあれば生きていける。だがお前たちはこれから伸びる若木だ。栄養がいる」


​ 程普は兵士の肩を叩き、立ち上がった。


 胃の腑が焼けるように痛む。空腹のせいではない。煮えたぎる怒りのせいだ。


 このままでは、軍が自壊する。孫堅の天幕へと向かう。主君はどう動くつもりだ。


​ 天幕の中、孫堅は寝台に腰掛け、床の一点を凝視していた。その横顔は、岩のように動かない。


​「文台。兵たちの不満が限界です」


「分かっている」


「袁術に使者を送りますか。それとも、我ら古参が乗り込んで直談判を……」


「いや」


​ 孫堅は立ち上がった。その眼光は、飢えた獣のそれではなく、理路整然とした指揮官の光を宿していた。


​「俺が行く」


「……殿、お一人で?」


「お前たちは残れ。俺が不在の間、兵をまとめられるのは程普、お前しかいない。……俺は、魯陽へ行って袁公路の腐った性根はらわたを、白日の下に引きずり出してくる」


​ 孫堅はわずか百騎の手勢だけを連れ、風のように陣を出て行った。


 程普は、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。祈るしかなかった。


 主君の剣が、袁術の首を刎ねてしまわないことを。もしそうなれば、反董卓連合は崩壊し、孫堅は逆賊として孤立無援となる。


 耐えてくれ、文台。その怒りを、言葉に変えて突き刺すのだ。


​ 魯陽への道中、孫堅は何を思っていたのか。それは程普の知るところではない。


 だが、後に伝え聞いた魯陽での光景は、程普の魂を震わせた。


​ 袁術の豪奢ごうしゃな陣営。


 孫堅は、武装したまま袁術の御前へ乗り込んだ。周囲の衛兵たちが色めき立つが、孫堅の圧倒的な威圧感に押され、誰も手出しができない。


 袁術は、気まずそうに視線を逸らしたという。


​「……やあ、文台。どうした、前線を離れて」


「袁将軍」


​ 孫堅は挨拶もそこそこに、地面に剣を突き立てた。


 切っ先が床石を削る音が、広間の空気を凍らせる。


​「ご覧あれ。これが現在の戦況。董卓軍は崩れ、あと一歩で洛陽へ届く。……だが、我が軍の腹は空っぽだ」


「そ、それは……手違いでな、輸送が遅れて……」


「手違い? いいえ、貴公は疑っているのだ。私が洛陽らくようを落とし、野心を抱くのではないかと」


​ 孫堅の声が、広間に響き渡った。悲痛なまでの、魂の叫びであった。


​「私が身を粉にして戦っているのは、誰のためか! 上は逆賊を討ち国家に報いるため。そして下は……董卓に殺された、袁将軍、貴公の一族の仇を討つためではないかッ!」


​ 袁術の顔色が蒼白に変わった。


 董卓は洛陽で袁氏一族を虐殺した。孫堅は、その復讐を、袁術に代わって成そうとしているのだと言い放ったのである。


​「私と董卓の間には、何の怨恨もない! ただ義憤のみで剣を取った! それなのに、貴公はつまらぬ流言飛語を信じ、身内を疑い、兵を飢えさせるというのか! ……恥を知れッ!」


​ 孫堅の目から、涙がこぼれたという。


 計算ではない。男の、本気の涙だ。


 袁術は言葉を失い、震え上がった。自分の器の小ささを、これ以上ないほど突きつけられたのだ。


​「わ、分かった、文台。私が悪かった。すぐに兵糧を送ろう。疑ってすまなかった……」


​ 数日後。陽人の陣営に、米と肉を満載した荷車が続々と到着した。


 兵たちは歓声を上げ、飯にむさぼりついた。その様子を、程普は安堵の吐息とともに眺めていた。


​ 孫堅が戻ってきた。


 馬上の主君は、以前よりも疲れて見えたが、その瞳の輝きは増していた。


​「……流石ですな、文台」


​ 程普が出迎えると、孫堅は苦笑した。


​「疲れたぞ、程普。戦場で槍を振るう方がよほど楽だ。……人の心というのは、なぜこうも厄介なのか」


「それが乱世というものでしょう。ですが、これで腹は満ちました」


「ああ」


​ 孫堅は北を指差した。


 その先には、伊闕いけつの関、そして大谷たいこくの関がある。洛陽への入り口だ。


​「行くぞ。董卓は逃げ腰だ。このまま一気に押し込み、洛陽を踏む」


​ 軍全体に、力がみなぎっていた。


 一度は折れかけ、飢えに苦しみ、それでも立ち上がった軍団。その強度は、鋼鉄をも凌駕する。


​ だが、程普は知らなかった。


 彼らが目指す洛陽には、栄光の都など待っていないことを。


 そこにあるのは、灰と瓦礫。


 そして彼らの運命を狂わせる、青白く光る「石の呪い」だけであることを。


 風が、焦げ臭い匂いを運び始めていた。

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