第34話 聖人の仮面と、芽生える心
灰色の路地の朝は、いつも少し遅い。
陽が昇ってしばらくしてから、朽ちた扉が軋みを上げ、痩せた影たちが外へ出てくる。
咳払い。乾いた笑い。空腹を誤魔化す声。
その中心に、場違いなものがひとつ。
長机と木箱を並べ、古びた布を屋根代わりにしただけの粗末な屋台――いや、仮設診療所。
「おじいちゃん、お水もう一本」
「おお、すまんのう、ミリー」
薬師の祖父と、その孫娘ミリーが、朝一番で手伝いに来てくれていた。
机の上に並ぶのは、清潔な布と水の入った桶。それだけ。
「……本当に、これで大丈夫なのでしょうか」
ミリーが不安そうに俺を見上げる。
隣で祖父も、首を捻っていた。
「薬らしい薬もないのに、“診療所”とは呼び難いですじゃ」
「大丈夫です。薬を配るわけじゃないので」
「おい、“英雄様”」
少し離れた壁にもたれて、鎧の隙間を指でこすっているバートン隊長が、呆れたように言う。
「これが例の“治療”とやらの中身か? ただのままごとじゃないのか」
「気休めでも、やらないよりはマシですよ」
肩をすくめると、バートンは鼻を鳴らした。
(気休めで済む話じゃないけどな)
やることは決まっている。
患者に触れ、胸の奥の【アイテムボックス】に命じて、体内の「夢見の銀晶」の呪詛だけを、選り分けて抜き取る。
説明して理解される種類のものじゃない。
「気休めの呪(まじな)い」くらいに見てもらった方がやりやすい。
「来たぞ……」
カイが路地の入口を顎でしゃくる。
昨日、簡易解毒を施した住民たちが、互いに肩を貸し合いながら、おずおずと列を作ってくる。その数はあっという間に数十人に膨れ上がった。皆、顔色は悪いままだが、その目にはかすかな期待が灯っている。
「……じゃあ、始めますか」
俺は木箱に腰を下ろし、最初の一人――ひどく咳き込む老婆を手招きした。
◇
「ひどい咳ですね。少し楽にしますから」
老婆の節くれだった手に、そっと自分の手を重ねる。
ひやりと冷たい肌。その奥で、ざらついた“負の価値”が蠢いているのがはっきりと分かった。
(この人の中の“銀晶”だけ、少し貰う)
『対象:夢見の銀晶微粒子/呪詛タグ付着』
『限定抽出:実行』
見えない冷たい粒が、細い糸になって指先から胸の奥へ吸い込まれていく。
泥水をストローで吸うような感触。何度味わっても気持ちのいいものじゃない。
『吸収完了』
『付随効果:対象個体の生命力減衰を停止』
数秒後、老婆の肩がぴくりと震えた。
「……あれ……?」
さっきまで鳴っていた喉のヒューヒューが止まり、呼吸が楽になったのか、彼女は何度か大きく息を吸い込んで目を見開く。
「咳が……止まった……? 胸が……軽い……?」
自分の胸に手を当て、信じられないというように俺を見る。
「何を……何をしたんだい、あんた……」
「言ったでしょう。気休めですよ。ただ、疲れが少し楽になる“おまじない”です」
にこりと笑って手を離す。
「はい、次の方どうぞ」
老婆はしばし呆然と立ち尽くしていたが、やがて膝をつき、震える声を上げた。
「おお……神よ……! 聖人様が……!」
「ちょ、やめてください。俺は聖人なんかじゃ――」
慌てて制止しようとする声は、周囲のどよめきにかき消される。
「見たか! ばあさんの咳が本当に止まったぞ!」
「触れただけだ……触れただけで治した!」
「奇跡だ……! 聖人様だ!」
疑念に曇っていた視線が、一気に熱へと変わる。
人々は我先にと列に詰め寄り、俺の手を掴もうとする。
「慌てないで。必ず全員診ますから、順番に」
(都合のいい勘違いだな)
内心で舌を打ちながらも、否定はしきらない。
(この“信仰”は、そのうち強力な盾になる。ギルドの強硬派でも、公爵家でも、好き勝手には手を出しづらくなる)
聖人の仮面は、今は被っておいていい。
「俺はアレン・クロフトです。偽物の後始末をしに来ただけの、ただの農民ですよ」
そう告げると、かえって熱は高まった。
「謙遜まで聖人様だ……」
「名前、覚えたぞ……アレン様……!」
(だから違うって言ってるだろうが)
心の中だけでため息をついて、次の患者に向き直る。
◇
「ぼ、僕……黒い星が全部食べちゃう夢、見て……」
若い母親に連れられてきた男の子は、怯えた目でそう言った。
母親の手には、濁った青の瓶――偽「星喰いポーション」の空き瓶。
「“それ”を飲んでからですか?」
「……はい。露店で“安くて効く本物だ”って……」
母親が悔しそうに唇を噛む。
『内部照合:星喰教団共通イメージと類似』
『遠隔洗脳パターン:初期段階』
(やっぱり仕込んでやがる)
男の子の頭にそっと手を置く。
「大丈夫。その夢は、ここでおしまいにしよう」
(この子の中の“黒い砂”だけ、抜き取れ)
『対象:夢見の銀晶粒子+付随呪詛タグ』
『抽出・浄化:実行』
するりと、嫌なざらつきが吸い上げられ、胸の奥で無害な「価値」に変換される。
「……あれ」
男の子が目を瞬かせる。
「どう?」
「こわくない……」
恐る恐るそう言った瞬間、母親が涙声で俺に頭を下げた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……!」
「さっきも言いましたが、偽物の後始末をしてるだけですよ」
「それでも……聖人様だ……!」
「だから違いますって」
(訂正はする。けど、否定はしない)
完全に否定したら、このラベルごと彼らの支えを壊すことになる。
それは、ここを「守る場所」にしたい俺自身にとっても損だ。
聖人でも怪物でも、呼び名はどうでもいい。
俺が選ぶのは、「守る側」に立つことだ。
◇
「嘘だろ……何が起きてるんだ、これは……」
列の後ろ、監視役のはずのバートンが、思わず漏らした声は完全に素だった。
次々と、手を握られただけで咳が収まり、悪夢から解放され、歩けなかった者が足に力を取り戻していく。
錆びついた騎士としての常識では、理解不能だろう。
「バートン隊長」
俺は、治療の合間に声をかける。
「疑うのは当然です。でも、“見えないからない”って決めるのは危ないですよ」
「……“英雄様”のご高説か」
言葉とは裏腹に、さっきのような露骨な嘲りは薄い。
「こいつの“おまじない”、本当に効いてんだ。俺たちも楽になった」
患者の一人が、まだ荒い息のまま笑うと、バートンは顔を背けた。
「まだ信用したわけじゃない」
「知ってます」
「だが……ここで治療を受けた者たちの顔を見れば、認めざるを得ん部分もある」
ぶっきらぼうな評価だったが、それで十分だ。
『外部評価:バートン/侮蔑 → 警戒+部分的信頼』
(ほんと仕事が早いな、お前)
◇
昼過ぎには立っているだけでふらつき始めた頃、ミリーが慌てて駆け寄ってきた。
「アレンさん、汗が……! お水、どうぞ!」
清潔な布で額の汗を拭われ、カップを差し出される。
指先が頬にかすめ、心臓が変な跳ね方をした。
「あ、ありがとう、ミリーさん」
「い、いえっ!」
真っ赤になって手を引っ込めるミリー。
その瞳には、戸惑いと尊敬と、言葉にしづらい熱が混じっていた。
「ミリーは、昔から人の手当てをしておったからの。手際がよい」
祖父が笑うと、ミリーは更に赤くなる。
「ミリーさん、すごく助かってます。本当に」
「っ……!」
素直に礼を言うと、彼女はうつむきながらも小さく頷いた。
「ここに来る前、噂で……“星喰い”とか“怪物”とか言われてて、正直ちょっと怖かったです」
「でしょうね」
「でも、今は分かります。アレンさんは……困ってる人を見て放っておけない人です」
「買いかぶりですよ。俺は俺がやりたいからやってるだけです」
「それでいいと思います」
ミリーは、まっすぐ言った。
「計算だって、理由だって、どうでもいいです。こうして助けてくれてることが、本当だから」
(……ズルい言い方だな)
胸のどこかが、少しだけ痛む。
リリアの笑顔が、一瞬重なった。
『内部メモ:ミリー/信頼度 高/重要支援者』
「勝手にタグ付けするな」
心の中でボックスに小声でツッコむ。
◇
「おい、“聖人様”」
聞き飽きた皮肉混じりの呼び方が、夕方近くになって頭上から降ってきた。
「だからアレンですって」
顔を上げると、そこにいたのはゲッコーではなく、粗末なフードを被った痩せた男だった。
一見ただの客だが、立ち姿に妙な余裕がある。目だけが笑っていない。
「安く本物をばら撒いてるって噂、本当だったんだな」
「治療を受けに来たんですか?」
「いや、今日は様子見だ」
男は路地全体を一瞥し、薄く笑う。
「立派な人気じゃねぇか、“聖人様”」
「アレンです」
「どっちでもいいさ」
肩をすくめると、懐からちらりと銀色の札が覗いた。
刻印された紋章を見逃さない。
(公爵家……)
「ちょっとした伝言だ。“上”はお前に興味がある。“星喰いポーション”の本物を、しかるべき場所に卸す気はねぇか?」
「しかるべき場所、ってどこです?」
「王都だよ。“公爵家”の席だ」
軽い口ぶりで、とんでもない単語を出してくる。
「悪いですが」
即答した。
「ここでやってる分で手一杯なんで。誰かの席に座る予定はありません」
「そう言うと思ったよ」
男は目を細める。
「“この路地を守りたきゃ、上手く立ち回れ”――ああ、それだけ伝えろってさ」
それだけ言い残し、人波に紛れて消えた。
『解析:携行品=公爵家紋章入り銀札/星喰教団タグなし』
『注記:王都公爵家側の独自行動を確認』
(わざわざここまで……。俺の“聖人”ラベルごと欲しいってか)
だったら余計に、この路地は手放せない。
俺の“駒”であり、“盾”であり、“居場所”にする。
◇
日が傾く頃には、軽症者の診察は一通り終わっていた。
簡易ポーションと限定抽出で楽になった者。
抽出だけで十分だった者。
だが、祖父が指さした数人だけは違った。
「あの者たち……まだ顔色が優れん。咳も残っておる」
壁にもたれている五、六人。瞳の奥に、まだ澱んだ影がこびりついている。
(さっき、確かに抜いたはずだが……)
『対象個体群:夢見の銀晶粉末の大部分は除去済み』
『残留:微弱な“負の価値”が深部に癒着/根状構造』
(根、か)
背筋に冷たいものが走る。
軽い汚染は表面の砂利みたいなものだ。今まで通り抜き取ればそれでいい。
こいつらは違う。長期摂取で、魂の深くに「アンテナ」を植え付けられている。
トレス村とフロンティアを繋ぐ、呪詛ネットワークの“受信機”。
「どうしたんですか、アレンさん?」
ミリーが心配そうに覗き込む。
「ちょっと厄介なのが残ってる人たちがいます」
俺は重症者たちに近づき、一人の胸に手を当てた。
(深く潜りすぎるなよ。根だけ見ろ)
【アイテムボックス】にそう念を押して、ほんの少しだけ「視る」。
黒鉄砂の細い線。
夢見の銀晶の薄膜。
それが一本に束ねられて、遠く――俺の知る「座標タグ:トレス村」の方向へ伸びている。
(……やっぱり、繋いでやがる)
抜けば抜くほど、遠くから補充される構造。
この場だけで完結する問題じゃない。
「今日はここまでです」
顔を上げて告げる。
「今印をつけた方は、明日以降、優先的に診ます。時間をかけて、きちんと根まで切りますから」
不安げな目がこちらを見たが、俺が正面から頷くと、かすかに力が抜ける。
「聖人様……」
「アレンさんがそう言うなら、信じるよ……」
その信頼が、今は重い。
◇
診療所を畳み終えた頃、バートンが歩み寄ってきた。
「本日の“おまじない”は終わりか」
「はい。隊長も一日中の監視、お疲れさまです」
「監視だと言ってるだろうが」
「ですね」
互いに苦笑を浮かべる。
「さっきのフードの男、公爵家の札を持っていた」
「見えてましたか」
「目障りな紋章だ。あいつらは功績も人気も、すぐに札にする」
バートンは俺をまっすぐ見る。
「気をつけろ、アレン。あそこは、“英雄”も“聖人”も、自分たちの器に嵌めたがる」
「ありがとうございます」
『外部評価:バートン/警戒+部分的信頼 → 保護意識生成』
「……それとだ」
彼は少し言い淀んでから続けた。
「非効率だと思っていたが、お前のやり方は、この街を“実験区画”にさせないための、防壁でもあるらしいな」
「はい。ゴミ拾いみたいなもんです」
「なら、明日も付き合う。騎士団としてな」
そう言いかけて、ふと振り返る。
「アレン」
「はい?」
「“聖人”の仮面を被るなら、その内側まで腐らせるな」
一瞬、心臓を掴まれたような感覚。
「俺は騎士だ。偽りの英雄は何人も見てきた」
「俺は聖人じゃありませんよ」
「なら、そのままでいろ」
それだけ言い残し、彼は路地の奥へと去っていった。
(見てるところ、本当に渋いな)
ミリーが小声で笑う。
「バートンさん、アレンさんのこと、心配してるんだと思います」
「……そうかもしれないですね」
俺は空を仰いだ。
遠く、トレス村の方向。
(仮面は道具だ。中身まで明け渡す気はない)
守りたいもののために使うだけだ。
◇
夜。借家に戻り、簡単な食事を済ませた後、机に肘をついて【アイテムボックス】のログを開く。
『更新:灰色路地受信機 無力化率 72%』
『関連ネットワーク:トレス村座標タグへの同期負荷 軽減』
「……よし」
少しだけ息が軽くなる。
『残存:深層呪詛保持者 多数/要継続処理』
『観測:王都公爵家系統より“星喰い”情報収集行動』
『注記:星喰教団タグとは別系統』
「公爵家も、教団も、ギルドも。全員勝手に動いてるな」
(全員、まとめて交渉のテーブルに引きずり出す)
そう決めかけた時、ログの端に見慣れない行が割り込んだ。
『――外部アクセス要求:第三種識別コード【灰の星】』
心臓がどくりと跳ねる。
(こいつは……)
トレス村の起動を一瞬だけ抑えた、あの「灰色の干渉」と同じ匂い。
『内容:観測ログ共有要求/限定質疑』
「いいぜ」
小さく呟く。
「質問には、こっちからも返させてもらう」
応答を許可しようとした瞬間、半透明のウィンドウに文字が刻まれた。
『――“聖人”の仮面を、いつまで保つつもりだ、アレン・クロフト』
胸の奥が、ひやりと冷えた。
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