第3話 祟りの生贄と、一袋の干し芋
「……それで、神官様。俺に話とは」
自分の家の前。夕暮れの光が赤く傾き、影だけが長く伸びている。
白い法衣をまとったエドガル神官は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。その瞳だけが、黄昏よりも冷えている。
「アレン殿。あなたも薄々お気づきでしょう。このままでは、村は持ちませぬ」
「それは……分かっています。でも、だからって俺を——」
「勘違いなさらぬよう」
柔らかな声が、ぴたりと被さる。
「私はあなたを責めてはおりません。ただ、主の御言葉と、古くから伝わる記述をお伝えしているだけなのです」
「御言葉、ね……」
「『不吉な器は、外へ追いやれ』。主はそう仰せです」
エドガルは一歩近づき、まるで労わるかのように俺の肩へ手を置いた。ひやりとした指先が、服越しに骨まで刺さる。
「これは、あなた一人を救う慈悲でもあるのですよ」
「……救う?」
「ええ。村は限界です。不安のはけ口を失えば、理性を保てぬ者も出てくる。誰かが怒りを向けられ、血が流れるかもしれません」
視線が、ちらりと家の向こう——リリアの家がある方角へ滑る。
「もしあなたが拒めば、村はさらなる怒りを買うやもしれぬ。そうなれば、アレン殿の大切な者たちも、巻き添えになってしまうでしょう」
大切な者——言われるまでもない。
(リリアを……)
「つまり俺が『祟り』として外に出れば、村は落ち着くと」
「ええ。あなた一人が外へ行くことで、村は救われるのです。あなたは昔から、村のために働いてきた。ならば最後まで、皆のために働いてくださるでしょう?」
優しい声。だからこそ、残酷だった。
「……俺は、不吉なんかじゃありません」
「ええ、そうかもしれません。しかし、今はそうであることが必要なのです」
エドガルは目を細める。
「古文書にもこうあります。『小さき器は星を喰らう』と。不完全なまま放置すれば、いずれ大地の恵みを喰らい尽くすやもしれぬ。真偽はともかく、民はそれを恐れている」
つまり、俺を生贄にして都合よく安心したいだけだ。
喉の奥までこみ上げた罵声を、必死に飲み込む。
「……俺が出て行けば、本当に、他の誰かには手を出さないと約束できますか」
「主が望まれるのは、『不吉を断ち切る決断』です。それがなされれば、これ以上の犠牲は望まれないでしょう」
答えになっていない。逃げ道を残した、ずるい言い回し。
(結局、俺に選択肢なんてないってことか)
「……分かりました。明日の集会で、俺は村を出ると言います」
「話が早くて助かります」
エドガル神官は満足げに頷き、帰り際、小さく囁いた。
「早く決まれば、それだけ穏やかに済みましょう。どうか賢明なままでいてください」
穏やかに——追放を、か。
石のような言葉だけが残り、神官は闇の中へ消えた。
冷え切った体のまま家に入り、その夜は一睡もできなかった。
◇
翌日。村の広場には、再び人が集められた。
昨日以上に重い空気。俺を見る目は、疑いではなく、「もうそう決まっている」という諦めと安堵で固まっている。
「皆、静まってくれ」
壇上に立った村長——エドガーは、芝居がかった悲痛な声で口を開いた。
「我らは祈り、耐え、働いてきた。しかし凶作は止まらぬ。神官殿への神託、古文書の記述……それらを鑑み、ここに一つの結論を出さねばならん」
エドガル神官が一歩前に出て、低く告げる。
「主は仰せです。『不吉な器は、外へ追いやれ』と。小さき器が村を蝕む前に、その因子を断ち切れ、と」
その言葉に合わせるように、村長の指がゆっくりと俺を指し示す。
「凶作の元凶たる不吉な器——【アイテムボックス】を持つアレン・クロフトを、本日をもってトレス村より追放とする!」
ざわめき。怒鳴り声。安堵のため息。
覚悟していたはずなのに、胸に鉛を流し込まれたような重さが生まれる。
「待ってください!」
澄んだ叫び声が、空気を裂いた。
リリアだった。
肩で息をしながら駆け出てきた彼女は、俺の前に立ち、震える体で村長たちを睨みつける。
「そんなのおかしいです! アレンは誰よりも畑を耕して、水を運んで、村のために働いてきました! それをみんな知っているはずです!」
「リリア! お前、何を——」
「不吉だからなんて曖昧な理由で、人を追い出すなんて間違ってます! 神託だって古文書だって、本当にアレンだって決まったわけじゃないでしょう!?」
村人たちがざわつき、何人かはばつが悪そうに目を伏せた。
(やめろ、リリア。そんなに正面から——)
俺が止めようとした、そのとき。
「リリィ」
嫌な声が、彼女の隣からぬっと割り込んだ。
村長の息子、ゲイル。
取り巻きを従え、にやにやと笑っている。
「あんまり父さんと神官様に楯突かねぇ方がいいんじゃねぇの?」
「ゲイルさん、これは——」
「お前んちさぁ、最近、村からの配給と、うちの家の援助でギリギリ食えてんだよな?」
リリアの顔から血の気が引く。
「こないだも干し肉や穀物、分けてやったろ。あれなかったら、お前の弟たち、腹空かして泣いてたぜ?」
「……それは」
「アレンを庇うのは勝手だ。でもこのまま邪魔するならさ」
ゲイルは声を落とし、彼女の耳元に唇を寄せた。その内容は、俺にだけ聞こえる程度の距離。
「援助は全部打ち切りだ。村の連中にも、『あの家には余計な情けをやるな』って言ってやるよ。祟りの穢れが移るってな」
「やめてください……!」
震える声。リリアの肩が小刻みに揺れる。
「それにな」
ゲイルは、わざと俺の方へ視線を流し、口角を吊り上げた。
「祟り持ちの男に入れ込んでる女だなんて噂が立ったら、お前んとこ、本当に終わりだぜ?」
「っ……!」
その瞬間、リリアと目が合った。
彼女の瞳が、「これ以上は危ない」と必死に訴えている。
(リリアの家族まで巻き込むわけにはいかない)
「神官様、村長さんよ」
ゲイルはあっさりと顔を離し、大声で言う。
「こいつ、ただ取り乱してるだけだ。な?」
後ろから、リリアの母親がすがるように娘の袖を掴んだ。
「リリア……お願いだから、もう……」
「お母さん……」
リリアは唇を噛み、声を失う。
村長は「やれやれ」とため息をつき、言葉を続けた。
「では、改めて。アレン・クロフト」
皆の視線が俺に突き刺さる。
「神託と古文書に従い、わしはお前を『村の外へ出す』ことを提案する。これは断じて処刑ではない。命は助ける。村のために、外で生きてくれ。それが、お前にできる最後の奉仕だ」
「追放って、はっきり言えばいいだろ」
ゲイルの取り巻きがくつくつ笑い、下卑た笑いがあちこちから漏れる。
綺麗事で塗り固めた最低の宣告。
だが、ここで俺が抵抗すれば、真っ先に狙われるのはリリアたちだ。
「……分かりました」
震えないよう、ゆっくりと言う。
「俺は、出て行きます」
リリアの肩がびくりと跳ねた。
「アレン……!」
「ただ、一つだけ」
俺は村長と神官を真っ直ぐに見据える。
「俺は祟りなんかじゃありません。俺のスキルが原因だなんて話は間違っている。神託も古文書も、本当かどうか分からない。それでも俺が出て行くのは、村のみんなと……大切な人たちを守るためです」
その「大切な人」に、当然彼女も含まれている。
村長の目がわずかに細まり、偽善的な笑みが深くなる。
「そうか……礼を言うぞ、アレン。お前の覚悟、無駄にはせん」
礼なんて、いらない。
「出立は、明朝とする」
エドガル神官が、淡々と宣言した。
「夜明けとともに門を出なさい。村に戻ることは、二度と叶わぬと主は仰せです」
「祟りが戻ってこないって分かりゃ安心だ!」
「これで雨が降るといいがな……」
勝手な期待と恐怖が、俺一人に押し付けられていく。
◇
追放の準備と称して、事態は容赦なく進んだ。
「悪いがアレン、お前の家財は没収させてもらう。村の備蓄が足りん」
村長は申し訳なさそうな顔をして言う。
「……全部ですか」
「お前がこの村で食い繋いでこられたのは、皆のおかげだ。その分の対価だと思ってくれ」
どの口が言うのか。
家具、工具、冬服、両親の形見の食器まで、男たちの手で次々と運び出されていく。
俺の家は、みるみるうちに空っぽの箱になった。
「せめて少しでも、道中の糧にしなさい」
村長が懐から小さな布袋を取り出し、俺の足元に投げ捨てる。
中から、乾ききった芋が数本転がり出た。
「これだけは持っていくがいい。わしからの、最後の情けだ」
情け——。
笑い出しそうになるのを、奥歯を噛み締めてこらえる。
「……ありがとうございます」
それだけを言って、干し芋を拾い、震える手で袋にしまった。
家の前を通りかかった子どもが、不思議そうに首をかしげる。
「アレン兄ちゃん、どこ行くの?」
「ちょっと旅に出てきます。またね」
頭を撫でて笑う。その笑いは、自分でも分かるほどぎこちなかった。
◇
夜。
干し芋の袋と、今着ている服だけが、俺の全財産になった。
がらんどうになった家の床に座り込み、一つだけ迷っていた。
(リリアに……会うべきか)
最後にちゃんと話したい。「必ず迎えに行く」と約束したい。
でも、ここで会えば、その事実だけで彼女が責められる。ゲイルが黙っているはずがない。
拳を握りしめた、その時。
「……アレン?」
小さなノックと、控えめな声。
扉を開けると、そこにリリアが立っていた。
「リリア……!」
「ごめんなさい……ごめんなさい、アレン……!」
次の瞬間、彼女は飛びつくように抱きついてきた。
細い肩が震え、押し殺していた涙が一気に溢れ出す。
「私、何もできなくて……守るって言ったのに、あなたを守れなくて……!」
「違います。守ってくれてました。ずっと」
俺はそっと抱きしめ返す。
彼女の髪から、いつもの土と陽だまりの匂いがした。それだけで、胸が締め付けられる。
「俺が決めたんです。村を出るのは、俺の選択ですから」
「でも、これは……!」
「君の家族が困るのは嫌です。君が苦しむのは、もっと嫌だ」
リリアは涙に濡れた瞳で俺を見上げる。
「……ずるい。そんなふうに言われたら、何も言い返せないじゃない」
「本音ですから」
「ねぇ、アレン。前に言ったよね……いつか二人で村を出て、静かな場所で畑を耕そうって……一緒に行こうって、言ったのに……」
本当は、その言葉に飛びつきたかった。
一緒に行こう、と。
でも、今の彼女には弟や妹、家族がいる。俺と出ることは、家族を飢えさせることだ。
「いつか——」
喉を絞るようにして言葉を出す。
「いつか必ず、迎えに来ます」
「……っ」
「力を手に入れて、胸を張って、『一緒に行こう』って言えるようになってから。その時は、誰にも文句は言わせない。だから、今は……君は君の家族を守ってください」
「そんなの……そんなの、ずるいよ……!」
リリアは小さな拳で俺の胸を叩く。
「待っててほしいって言ってよ……! そうしたら、私はどれだけでも待てるのに……!」
「待っててください」
堰を切ったように、言葉があふれた。
「信じてください。俺は絶対に、君を迎えに行きます」
それは約束であり、自分への呪いでもあった。
リリアは嗚咽を飲み込みながら、強く頷く。
「信じる……絶対、信じる……だから、お願い。生きて。どこに行っても、絶対に諦めないで」
「はい」
指切りをするみたいに、小指と小指を絡める。
その温もりを、焼き付ける。
「もう行かなきゃ……見つかったら、あなたも、私も……」
「分かりました」
名残惜しさを断ち切るように、彼女は一歩下がり、涙を拭った。
「アレン。私は、あなたの選択を恨んだりしない。だから、自分を責めないで」
「ありがとうございます」
扉が閉まる直前まで、互いに目を離せなかった。
彼女が去ったあと、空っぽの家で、俺は一度だけ天井を仰いで深呼吸する。
(絶対に、生き延びる)
(絶対に、迎えに行く)
それだけが、今の俺を辛うじて繋ぎ止めていた。
◇
夜明け前。
まだ薄暗い空の下、村の門に村長、神官、ゲイル、数人の男たちが集まっていた。見送りと称した、監視役たちだ。
「本当に、一人で行くのだな?」
「ええ」
干し芋の袋を肩に担ぎ、門の前に立つ。
リリアの姿は、ここにはない。
(来なくていい。ここに来たら、きっと泣かせてしまう)
「アレン」
村長が、重々しく声をかける。
「これは村の総意だ。恨むなとは言わん。だが、どうか分かってくれ。これは、この村を守るためだ」
「分かっています」
乾いた声で答える。
「主の御加護があらんことを」
エドガル神官が十字を切るような仕草をする。その目に、罪悪感の影はない。
ゲイルが、俺の肩をぽんと叩いた。
「よぉ、穀潰し。ついにお別れだな」
「……どいてください」
「まぁまぁ。最後くらい素直に聞けよ」
耳元に顔を寄せ、低く囁く。
「リリィは俺が慰めてやるから、心配すんな。昨日も泣いてたぜ、『どうしてアレンが』ってよ。可愛かったなぁ。これからは、俺の女としてたっぷり可愛がってやる」
視界が真っ赤に染まりかける。
「お前がもし戻ってきたら、その時は本物の祟りとしてぶっ殺してやるよ」
拳が震える。殴り飛ばしたい。
だが殴った瞬間、標的になるのは——村に残るリリアだ。
「……二度と、その名前を穢すな」
低くくぐもった声で吐き捨てると、ゲイルは「怖っ」と笑って肩を離した。
「開けろ」
村長の合図で、ぎぃ……と重い音を立てて木の門が開いていく。
その向こうに広がるのは、暗く深い森。隣町へ続くという、未知の世界。
背中に、村人たちの視線が突き刺さる。
「祟りが出て行くぞ」
「これで、雨が……」
「主よ、どうかお守りを……」
勝手な恐怖と希望を、勝手に俺に背負わせて。
一歩、村の外へ足を踏み出す。
本当は、振り返るつもりはなかった。
それでも、どうしても目が勝手に動く。
門の影、人垣の隙間——。
そこに、リリアがいた。
声を押し殺し、唇を震わせながら、ただじっとこちらを見つめている。
門が閉まりゆく、ほんのわずかな隙間。
彼女の唇が、声なく動いた。
『ごめんなさい』
違う。謝るのは俺だ。
そう言う前に——門は完全に閉ざされ、重い音が俺と村を断ち切った。
静寂。
閉ざされた木戸をひと睨みして、俺は振り返る。
目の前には、深い森と、何の保証もない道。
手元に残ったのは、一袋の干し芋だけ。
(……いいさ)
足を前へ出す。
(ここから先は、俺の人生だ)
背後で、門の内側からくぐもった声がかすかに聞こえたことに、この時の俺は気づかない。
「本当に追い出すだけでよかったのか、父上」
「古文書には『小さき器は星を喰らう』ともあった……あれが外で育てば、厄介だぞ」
「今は村を落ち着かせるのが先決だ。必要とあらば、後からでも手は打てる」
ひそひそと交わされたその言葉は、朝靄に紛れて森へと消えていった。
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