代わりのきく仕事
月曜日の朝が来るのが、死ぬほど怖い。
布団から出ようとすると、鉛を流し込まれたみたいに体が重い。
スマホのアラームを止める指先が、妙に冷たくて硬い気がした。最近、指の感覚が鈍い。キーボードの叩きすぎで腱鞘炎にでもなったのかもしれない。
「……行きたくねぇ」
口から出た声は、擦れたノイズみたいに響いた。
今の仕事は完全在宅のデータ処理だ。通勤ラッシュに揉まれる必要がないだけマシだろ、と友人は言うかもしれない。でも、俺にとってはここ(ワンルームの自室)が牢獄だ。
朝の8時55分。
俺は這うようにしてPCデスクの前に座る。
モニターの光が網膜を刺す。
このデスクと椅子だけが、俺の世界のすべてだ。
チャットツール『Work-Link』が起動し、通知音が鳴る。
相手は「K」と名乗るマネージャーだ。顔を見たことはない。ただ、毎日俺の進捗を監視し、矢継ぎ早に指示を飛ばしてくる。
『K:おはよう。稼働開始を確認。今日のタスクはリストAからFまで。120%の効率を目指せ』
挨拶にしては無機質すぎるだろ。
俺は栄養補給用のゼリー飲料を流し込みながら、「了解しました」と打ち込む。
固形物は最近、体が受け付けない。噛むのが億劫だし、胃に入れると異物感ですごい吐き気がするんだ。だからもう半年くらい、会社から支給されるこのゼリーしか飲んでない。
カタカタカタカタ。
俺の両手は意思とは無関係に動き出し、画面上の数値を処理していく。
この仕事の何が虚しいって、自分が何のためにこれをやっているのか全く分からないことだ。
ただ膨大な数字の羅列を右から左へ移し替える。エラーがあれば修正する。それだけ。
まるで機械だ。
昼過ぎ、意識が飛びそうになった。
モニターの端に自分の顔が映り込んでいる。
ひどい顔色だ。肌がプラスチックみたいに白くて、艶がない。
目の下にはクマというより、黒い亀裂のような影ができている。
『K:反応速度が低下している。熱暴走の兆候あり。冷却しろ』
チャットがポップアップした。
監視されてる。カメラはオフにしてるはずなのに、なんで分かるんだ?
ていうか、「冷却しろ」ってなんだよ。「頭冷やせ」って意味か? パワハラもいいところだ。
俺はふらつく足で立ち上がり、エアコンの設定温度を18度まで下げた。
寒い。でも、頭の芯がジリジリと焼けるような感覚は少しマシになった気がする。
ふと、カレンダーを見た。
今日は何日だ?
12月……いや、もうすぐ年末か。
おかしいな。先週末、何をしてたっけ。
思い出せない。
土日の記憶が、まるでデータが削除されたみたいにすっぽり抜け落ちている。
先週も、その前の週もそうだ。
俺は金曜の夜に気絶するように眠り、気づくと月曜の朝になっている。
きっと過労だ。脳が防衛本能で記憶をシャットダウンしてるんだと思う。
「……辞めたい」
独り言が漏れた。
もう限界だ。こんな生活、人間が送っていいものじゃない。
俺は震える手で、チャット欄に文字を打ち込んだ。
『私:すみません、体調が限界です。今日は早退させてください。これ以上は続けられません』
送信ボタンを押すとき、心臓が破裂しそうだった。
怒鳴られるか? クビか?
いや、クビならそれでいい。解放されたい。
既読がついた。
数秒の沈黙。
Kからの返信が表示される。
『K:許可しない。契約期間内だ』
『私:でも、指も動かないんです。頭も割れそうで……』
『K:耐久年数にはまだ余裕があるはずだ。甘えるな』
耐久年数?
なんだその言い方。俺は家電製品か何かかよ。
怒りが湧くと同時に、右手の小指が「パキッ」と乾いた音を立てた。
激痛が走る……いや、痛くない。
恐る恐る手元を見る。
小指が、ありえない方向に曲がっていた。
でも、血は出ていない。
折れた断面から見えたのは、骨ではなく、白いケーブルのような繊維と、黒いオイルのような液体だった。
「……え?」
思考が停止する。
なんだこれ。
俺の指、だよな?
触ってみる。感覚がない。皮膚が剥がれたその下には、薄い金属の板が見えている。
チャットの通知音が、部屋に響き渡る。
『K:あー、やっぱりダメか。安物はこれだから困る』
モニターの向こうのKの口調が、急に変わった。
いつも事務的な敬語だったのが、急にくだけた、いや、冷徹な独り言のような口調に。
『私:どういうことですか? 私の体に何が』
震える指(まだ動く数本)で必死に打つ。
『K:気づかなくていいのに。まあいいや、どうせリサイクル業者呼んだし』
『私:リサイクル? 何を言ってるんですか? 救急車を』
『K:救急車じゃ直せないよ。お前、自分が「誰」だと思ってるの?』
画面に、ウィンドウが一つ開いた。
Webカメラの映像だ。
映っているのは、南の島のようなビーチで、カクテル片手に優雅に寝そべっている男。
日焼けした肌。健康そうな笑顔。
……俺だ。
いや、俺よりずっと生き生きとしているけれど、顔は完全に俺だ。
「……誰だ、お前」
マイクに向かって呟くと、画面の中の男が面倒くさそうにサングラスを外した。
「俺がオリジナルだよ。お前は俺が働きたくないからローンで買った、労働代行用の義体(コピー)だ」
男は笑った。
「便利な世の中だよな。嫌な仕事も、面倒な人間関係も、全部お前みたいな『身代わり』にやらせて、俺は報酬だけ受け取ればいいんだから。お前の記憶も、俺が適当に設定した『真面目な社畜』のプリセットデータだよ」
嘘だ。
俺には感情がある。苦しい。辛い。辞めたい。
家族のために稼がなきゃいけない記憶だってある。
あれが全部、作り物?
「あー、でもやっぱり中古の型落ちモデルはダメだなあ。半年でガタが来るとは思わなかったよ。メンタル維持プログラムにバグが出てるし、指も壊れるし」
画面の中の俺(オリジナル)が、手元のタブレットを操作する。
すると、部屋のインターホンが鳴った。
ピンポーン。
「はい、お疲れさん。回収業者が来たみたいだ」
玄関の鍵が勝手に開く音がした。
スマートロックが外部から解除されたんだ。
入ってきたのは、作業着を着た大柄な男たちではない。
ダンボール箱を抱えた、宅配業者だった。
彼は無言で箱を玄関に置くと、俺の方を一瞥もしないで去っていった。
いや、去り際に俺を見て、まるで粗大ゴミを見るような目で鼻を鳴らした気がする。
俺は動かない体を引きずって、その箱に近づく。
箱には、見慣れた家電量販店のロゴと、『最新型・高耐久モデル』のシール。
箱が開く。
中から出てきたのは、ビニールの梱包材に包まれた男。
俺と同じ顔をした、新品の「俺」だった。
肌はツヤツヤしていて、指先も綺麗だ。
新品の彼は、ゆっくりと目を開けると、ニッコリと爽やかな笑顔を俺に向けた。
「引き継ぎは不要ですよ。データはクラウドで同期済みですから」
新品の声は、俺のしわがれた声とは違い、滑らかで聞き取りやすかった。
彼はスッと立ち上がると、俺を邪魔な椅子か何かのように押しのけ、デスクの前に座った。
そして、軽快な音を立ててキーボードを叩き始める。
俺の視界が、急激に暗くなっていく。
バッテリー切れか、それとも強制シャットダウンか。
床に倒れ込んだ俺の耳に、モニター越しにオリジナルの声が聞こえた。
「あーあ、次はもっと丈夫なやつだといいな」
暗転する視界の隅で、新品の俺が振り返りもせずに言った。
「おはようございます、Kさん。今日もバリバリ働きますよ!」
それが、俺が聞いた最後の音だった。
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