時計じかけのナルシスト
黒瀬智哉(くろせともや)
黒いコートと十分間の永遠
夜の都心、六本木の裏路地。ネオンの光がアスファルトの雨上がりの水たまりに反射し、ギラギラとした色彩を放っている。
黒いロングコートの男(彼)が、壁に凭れるように立っていた。コートは彼の体をほとんど隠し、ポケットに突っ込んだ手は、世界のすべてを拒絶しているようにも見える。彼の目は、何の光も宿さず、ただ前を向いている。
彼は、周囲の喧騒や、通り過ぎる酔客、すべてを**「無価値な背景」**として認識していた。最近、過去を弄ぶ頻度が上がり、**現実世界での『良い子の振り』**を維持するための精神的消耗が激しい。心療内科の予約を断られた怒りと、満たされない退屈。
「ちぃ。この世界のすべてが、俺を特別扱いする努力を怠っている」
その時、一人の女が路地の向かいから現れた。彼女(マダム・リサ)は、深くスリットの入った黒いベルベットのドレスに身を包み、そのプロポーションは完璧だった。髪は夜の闇に溶け込み、ネオンの光が彼女の妖艶な顔立ちを際立たせる。
彼女は彼を見定めると、ゆっくりと、しかし確信に満ちた足取りで近づいてきた。
彼女:「一人で寂しそうね、あなた。――少し、お話し相手になってくれないかしら?」
その声は、計算された甘い響きを持ち、普通の男なら誰もが、自分が**「選ばれた」と錯覚する。彼女の瞳は、彼の孤独と、コートの下に隠されたであろう『獲物』**としての価値を正確に測っていた。
彼の口元が、わずかに、しかし冷笑的に動く。彼女の常套手段。そして、彼の意識が、ポケットの中で一瞬、跳躍した。
(彼の内面)
意識は、現実の彼の肉体を離れ、彼女の人生の決定的瞬間に送り込まれた。
彼女の地味な本名、過去の裏切られた恋、そのトラウマから現在の「マダム・リサ」を創り上げた瞬間。悪意に満ちた動機、隠し口座の番号、そして彼を誘惑する手順。すべてが、彼の中を一瞬のデータとして流れ込んでくる。
彼女の最大の弱点も、彼には手に取るように分かった。彼女の支配欲の根源は、過去に支配されたトラウマにある。
「ああ、お前か。……相変わらず芸がない。でも、いいだろう。お前の仕掛けた罠が、結局は俺の退屈を潰すための道具になる」
時間は、現実世界では**一秒も経っていない。**彼の表情は、わずかな冷笑を刻んだまま、静止した時のようだった。
彼女は、彼が意識を飛ばしていたことなど知る由もない。
彼女:「どうしたの? まるで、私を知っているみたいね。」
彼女の挑発的な問いかけに、彼は初めてポケットから手を出し、**「いいだろう」**と微笑んだ。その笑みは、彼女の美しさに魅了された男のそれではなく、**すべてを知り尽くした「全知の支配者」**のそれだった。
彼:「ああ、そうだな。それもいい。」
彼は、彼女の罠という名の舞台に、**『騙される役者』**として、優雅に足を踏み入れた。
――彼は彼女の誘いに乗り、二人は六本木の喧騒を離れた一角にある、会員制の高級ラウンジへと移動した。案内されたのは、重厚なカーテンで外界と隔てられた個室。彼女が選んだ場所は、「獲物」を逃さないための、最もプライベートで支配的な空間だった。
彼女は、彼が自分を選んだことに確信を持つ。この手の男は、結局、自分の孤独と退屈を、彼女の妖艶さで埋めようとするのだ。
彼女:「カクテルでいいかしら? ここは、少し強めがお得意なの。」
彼女の問いかけは、彼の**「強さ」と「脆さ」**を同時に試す、計算されたものだ。
彼:「ああ。……お前が選んでくれ。」
彼はソファの隅に深く腰掛け、コートを脱ぎもしない。その態度は、彼女の空間に対する無関心と、彼女への過剰な警戒のようにも見える。しかし、その無関心さが、逆に彼女の征服欲を掻き立てる。
彼女(心の声):「傲慢な男。でも、その瞳の奥には、世界から見捨てられた孤独が見える。いいわ、私がその壁を壊してあげる。」
カクテルが運ばれてくる。彼女はグラスを傾け、彼を見つめる。
彼女:「ねぇ、どうしてそんなに淋しそうな目をしているの? 私にはわかるわ。あなたは、普通の人とは違う。だから、世界はあなたを理解してくれないのよ。」
彼女の言葉は、彼のナルシシズムをくすぐり、承認欲求の核心を突く。普通の男なら、ここで心を許し、自己陶酔的な愚痴を語り始める。
彼(演技): 彼は微かに目を伏せる。まるで、心の壁が崩れたかのように見せかける。 彼(心の声): 完璧だ。過去の調査通り、この言葉は常に効く。しかし、俺が求めるのは、お前の嘘ではなく、お前の口から出る*『真実の情報』*だ。
彼:「……そう見えるか? おかしな話だが、 三ヶ月待ちの予約 が必要なほど、世界は俺の狂気を無視している。その事実に、ある種の面白さを見出している、と言えばいいだろうか?」
彼女の違和感は、この時、初めて確信に変わった。彼の返答は、彼女の質問に答えていない。だが、彼の口にした**「三ヶ月待ちの予約」**というキーワードは、彼女が次に聞こうと思っていた、彼の精神的な不安定さという話題に、完璧に誘導している。
彼女(心の声):「この男、まるで私の思考を先読みしているよう……? いや、偶然よ。ただの自意識過剰な男ね。」
彼女は、その違和感を打ち消すように、さらに一歩、誘惑を深める。
彼女:「……いいわ。そんな世界、無視してしまえばいい。あなたは私だけ見ていればいいのよ。ねえ、それより私といいことしない? あなたを、世界で一番満たしてあげるわ。」
彼女は立ち上がり、彼のコートに手を伸ばす。彼女の指先が触れた瞬間、彼の目は冷たく輝いた。
彼(心の声): 来たな、常套手段。お前の手口と、次に使う隠し口座の番号も、すべて知っている。さあ、最高に騙されてやるよ。
彼:「ああ、そうだな。それもいい。」
彼は彼女の手を掴み、優しく引き寄せた。優しく、しかし有無を言わさぬ力で。
彼:「ただし、 俺の退屈 は、そんなに安くない。存分に、 演技 を楽しませてもらおうか、リサ。」
彼の言葉に含まれた**『演技』という単語は、彼女の耳には入らなかった。彼女は、目の前の男が、自分の色仕掛けにイチコロ**になったと確信し、満面の笑みを浮かべた。
二人の夜は、彼が仕掛けた**「演技」と、彼女が信じた「勝利」**という、二重の虚構の中で幕を開けた。
夜は深まり、場所は彼女のマンションの一室へと移った。彼女は完璧なプロポーションを武器に、彼をベッドへと誘い込む。
彼女は、彼の理性を溶かし、情報を引き出し、支配するという、いつものルーティンを完璧にこなす。彼は、**惹かれ、熱狂し、理性を失っていく「普通の男」を演じ続けた。彼の演技は完璧で、彼女は「今回の獲物がこれまでで最高の逸品だ」**と高揚していた。
そして、肉体的な行為が最高潮に達したその瞬間。
彼女(心の声): (これで完全に支配した。あとは、彼の口座情報を聞き出すだけ!)
その時、彼の指先が、彼女の肌に触れる。
彼(意識): チェックメイトだ、マダム・リサ。お前が最も得意とする快楽を、お前が最も恐れる*『終わりのない無力感』*に変えてやる。
彼の指先から、彼女の意識の「時間知覚」だけに、特殊な「力」が流れ込む。
現実世界では、彼の肉体は彼女の上で動きを止め、静かに横たわる。
彼女(意識の中): 快感の波が、再び頂点へと押し上げる。しかし、そこから**「終わりの瞬間」へと移行しない。また、一瞬で快感の始まり**に戻ってしまう。
一分が、彼女の意識の中では一時間となり、二時間となる。
彼女(意識の中): 「……ハァ、ハァ……! まだ……まだ終わらないの? あなた、どうしたの……?」
彼の体は、現実では動かない。しかし、彼女の意識の中では、終わりのない行為が続いている。
彼女(意識の中): 「やめて! もう……もういいわ! 体が……動かない! いつまでやってるのよ!?」
彼女の声は、妖艶さを失い、純粋な恐怖に変わる。
彼(現実)は、彼女の苦悶の表情を、満足げに、そして冷酷に眺めていた。
彼(心の声): たったの三分で、お前の自尊心は崩壊した。さあ、この間に、お前の隠し口座への送金手続きと、お前の過去のトラウマを狙った改変を完了させるとしよう。
彼はゆっくりとベッドから起き上がり、コートを手に取った。彼女は、時間の牢獄に囚われたまま、彼の動きを見ることができない。彼女の意識は、終わりのない絶望の快楽に閉じ込められていた。
彼は、彼女のスマホと自分のスマホを操作し、そして過去への意識移動を行った。すべてが、彼女の**「無限ループ」**の間に、音もなく完了する。
そして、彼は彼女の頬に触れた。
彼:「術を解いたよ、リサ。 楽しかったかい? 俺にとって、たったの十分だったが」
彼女は、汗だくのまま飛び起きる。肉体の疲労と、精神の絶望。
彼女:「……そ、そんな……馬鹿な……。どうして……体が動かない……? あなたは……一体、何者なの……?」
彼女の質問に、彼はニヤリと笑う。
彼:「どうしたのかな?」
そして、彼は彼女の絶望的な顔を愛でるように眺めながら、決定的な言葉を放つのだった。
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