おやすみオセロー

仁井なざくら

おやすみ

 たとえば、跳ねるようなステップを君と踏めたら。

落ちそうな君に危ないよ言って、その手を引けたら。

「良かったのに、なんて全部もう遅いよ」

 払われた手を眺めるんじゃなくて、君をもっとちゃんと見ていたら。


「大人になれないね」

「うん」

「あなたのことじゃなくて、私のこと」

「そうなんだ」

「別に大人になりたかったわけじゃないし、いいんだけど」

「じゃあ、何になりたかったの?」

「分からない。だって私たちは、望まれて生まれてきたけど、望んで生まれてきたことはないから」

 彼女のそんなセリフを聞いて、確かになぁと頷いた。それに笑ったのは、どっちだったか。

「そろそろ帰るよ」

「送ってく」

「車?」

「自転車。後ろ乗っていいよ」

「二人乗りは危ないよ」

「危なくないよ。どうせ、いつもと変わらないし」

「そっか」

 今日はどこまで? と聞くために彼女の方を見ると、もうそこには誰もいなかった。空になったマグカップと、開けられたままのお菓子の袋だけが置かれている。

「……望んで生まれてきたことはない、かぁ。まるで何度も生を繰り返しているような言い方だよね」

 一つ一つ、袋を掴んでゴミ箱に捨てていく。マグカップはシンクに置いて、あとで洗うことにした。

「何度も繰り返したところで、僕も君も馬鹿だから、何度も殺してしまうし、何度も殺されてしまうね」

 今となっては、君の顔すら思い出せない。そんな薄情な奴のところへ、君は何度でもやって来るのだろう。

「君のどこを見ていれば、君は大人になりたいと思った?」

 心か、顔か、頭か、それとも怪我をしていたところ全てか。見て見ぬふりがよくなかったのかもしれない。うん、きっとそうだ。目を見て話すんじゃなくて、君の痛いところ辛いところ全て知ってあげればよかったんだ。

「もう遅いよ、ってまたはたかれちゃうね」

 僕だって、大人になりたくて生きてきたわけじゃないよ。それでも大人になっていくのは、それ以上に死ぬのが怖かったからなんだ。

 死んで、何も考えられなくなって、深い闇を一人で彷徨うくらいなら、なりたくもない大人になっていた方が、まだ気が楽だったから。

「ごめん、臆病で。いや、臆病なのは君もか」

 苦痛を投げ出すことの苦痛を知るほど、臆病になるのは当たり前だ。逃げたと指をさされて責められるかもしれない。

 でも、もう、よくないか。そういう大人は、僕らを理解し得ないように作られている機械なんだよ。感情なんかないんだ。稀にいる優しい人間も、たまたまそういう風にプログラムされた機械で、心から思っていることなんてありえないって、前にもそう話したじゃんか。

「……あぁ、もう寝るよ。眠っている間は、全部が嘘になってくれるから」

 おやすみ。

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