7−6. 光が落ちた瞬間

 窓の外は、相変わらず白い霧に沈んでいた。

 濃いのか薄いのか、時間がどこへ向かっているのか――何も分からない。

 外界が沈黙のままなのに、体育館だけは別の拍動を持ち始めていた。


 光が弱まり、音が濁り、空気が膨らんでいる。

 まるで巨大な肺が、僕らの頭上で“息を吸い込む瞬間”を待っているようだった。


「全員、ステージ前に寄れ。動くな」

 桐生の声が、ひどく遠くから聞こえる。

 発した本人の位置とは少しずれて、壁に貼りついたように返ってきた。


『寄れ……よれ……』


 僕らは密集して座り込んだ。

 互いの体温が触れる距離なのに、呼吸の気配は空気に吸われて消えていく。


 照明はまだ点いていた。

 しかし光は輪郭を失い、天井でふやけて見えた。


「……もたない」

 白石が封印片を握りながら呟く。

「光……もう限界が近い」


 ランタンの灯りも細く震え、その形を保つのに必死だった。


「こえ……が……」

「まえ……いく……」

 詩と奏の声は、もう二人から離れて“勝手に歩いていた”。

 詩が言う前に奏の声が天井から返り、

 奏が震えた瞬間には詩の声が体育館の隅で落ちる。

 声が、持ち主の位置を失っていた。


 二人は確かに、手を繋いでいた。

 指先の感触も、体温も、そこにあった。

 けれど――


 奏は前を見ていた。

 詩は、何かに呼ばれたように、わずかに振り返っていた。

 同じ場所に立ちながら、

 二人は同じものを見ていなかった。


 黒川の足元では、木目が黒川の姿勢をなぞるように湾曲していた。

 肩の角度も、腕の向きも、脚の傾きまでも一致している。


「これ……もう……完成してんじゃねぇか……」

 黒川の声は割れていた。


「夜まで完成しない。動くな」

 白石の声が遅れて床下から返ってくる。


 平田は蒼白になりながら囁いた。

「……真下だ……俺の足の真下で……削ってやがる……」


 ……カリ……カリ……。


 削る音が、平田の足跡の“縁”をなぞるように移動していく。


「やべぇ……俺の形……掘ってる……」


「平田、動くな!」

「分かってるよ……動けねぇだろ……!」


 体育館の空気が濃くなった。

 耳の奥が軋み、皮膚がざらりとする。


 笹本はステージの暗がりだけを見ていた。

 瞳孔がわずかに開き、その視線は闇から戻ってこない。


「すぐ……そこ……筆が……触れそう……」


 ……シャ……シャ……。


 筆がキャンバスをなぞる音が、もはや距離感すら失って耳のすぐ後ろで鳴った。


「笹本!」

 桐生の声さえ届かない。


 光が一度――沈んだ。


「……ッ!」

 美咲が僕の腕を掴む。


 体育館の空気が、ぴたりと止まった。

 音も、風も、呼吸も、二十四人分すべてが奪われる。


 喉が動かない。

 息が吸えない。

 肺が凍りつく。


 世界が一瞬だけ、空っぽになった。


 そして――


 全ての光が落ちた。


 視界が黒く塗りつぶされ、闇が液体のように身体へ貼りついた。

 耳鳴りだけが残り、誰の息も聞こえない。


 手を伸ばしても、誰にも触れなかった。

 叫ぶこともできない。

 音も声も存在しない世界に、僕たちはただ沈んだ。


 永遠に近い、わずかな時間が過ぎ――


 光が戻った。


 ほんの数秒の暗闇だった。

 でも、世界は変わっていた。


 桐生が、息を呑むように言った。


「……誰か……いない……?」


 僕は視線を巡らせた。


 さっきまで肩を寄せ合っていたはずの場所。

 詩と奏が座っていた隅。

 黒川の足元。

 平田の位置。

 ステージを見つめていた笹本。


 そこにあるのは――


 ただの“空白”だった。


 影も、荷物も、体温も残っていない。

 音さえ吸い込まれたような、静かな空白だけが残っていた。

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