6−4. 封印の実験(白石琴江視点)

――録音を続ける。

 観測は止まらない。

 だからこそ、私はこの記録を残さなければならない。


 今日、神代教授は「核心に触れる」と口にした。

 観測者が被観測者となる瞬間。

 つまり、観測の往復をひとりの人間の内部で完結させるという、

 常識では理解しがたい実験だ。


 研究棟の窓は、昼でも薄暗かった。

 すりガラス越しに広がる曇天の光は粉雪のような白さをまとい、

 部屋の輪郭を曖昧にしている。

 机の上には、絵具のように見える薬品が静かに沈み、

 石膏像の頬には、誰のものとも知れない影が落ちていた。


「白石君、準備はできたかい?」


 教授は穏やかな調子で問うた。

 細い指が古いノートのページを静かにめくる。

 数式と素描が同じ密度で並ぶそのノートは、

 学問と芸術が教授の中で完全に混ざり合っている証だった。


「はい。……本当に、やるんですか?」


「やるとも」


 教授の笑みは狂気ではなかった。

 むしろ、希望に似た、澄んだ光がそこにあった。


「観測の理論は“外部の観測者”を必要とする。

 だが私は、それを乗り越えたい。

 観測され続けることが永遠を生むのなら、

 観測者自身が対象となった瞬間こそ、完全な保存が起きるはずだ」


 教授の声は静かなのに熱を帯びていた。


「自分自身を……作品にするつもりですか?」


「作品? 違うよ。

 作品化は観測の副作用だ。

 本当の目的は“観測の完了”なんだ。

 観測が閉じた状態――それは永遠と同じ意味を持つ」


 私は喉を震わせた。


「でも、それは……死と同じでは?」


「死? 違う」

 教授は優しく否定した。

「人が死ぬのは、見られなくなったときだ。

 観測が途絶えたとき、存在は消失する。

 だが私は、自分自身を観測する装置を創った。

 観測の内在化――これが実現すれば、

 人は“観測者”と“被観測者”を同時に満たし、永遠になる」


「そんなこと……」


「できるとも」


 教授は机の奥から新しい装置を取り出した。

 木製の箱に細いレンズが埋め込まれ、

 内部の鏡が複雑な角度で光を返す。

 装置の光は蛍光灯とは違い、灰色の揺らぎを帯びていた。


「これは“観測炉”の改良型だよ」

 教授が言う。

「外側からの観測を必要としない。

 自分の影と光を、内部で循環させる構造だ。

 言いかえれば……“影を封じる器”だね」


「封じる……?」


「そうだ。観測の往復を閉じるための器。

 私はこれを“封印片”と呼んでいる」


 教授の掌にのせられた真鍮の欠片は、

 校章の意匠を模した奇妙な形で、

 光を当てると脈動するように見えた。


「……教授。

 本当に……戻って来られるのですか?」


「戻る?」

 教授は軽く首をかしげ、柔らかく笑った。

「白石君。

 これは“消える”実験じゃない。

 “残る”実験なんだよ」


 その言葉が胸に落ちる前に、教授は装置の前に立っていた。

 蛍光灯に伸びた影がレンズと重なり、黒が揺れる。


「記録を頼むよ。これが私の……最後の観測になる」


「教授……!」


 止めようと手を伸ばしたが、教授の背中は揺るがなかった。


 スイッチが押され、装置が低く唸り始める。

 鏡の内部で光が螺旋を描き、灰色の粒が空気に滲む。

 影が床に溶け、輪郭がゆっくりと薄れていく。


「……あ……ああ……」


 教授の声が遠ざかっていく。

 片腕、肩、胸――身体の一部が光に溶け、

 影の形が新しく“描かれ”ていくようだった。


「これで……いい……」

 教授が呟いた。

「私は……永遠に……」


 光が一度だけ大きく脈動した。


「教授!」


 私は机の上の封印片を掴み、

 咄嗟にレンズへ叩きつけた。


 金属が裂けるような音。

 光が逆流し、鏡が砕ける。

 空気が悲鳴を上げ、研究室全体が震えた。


 視界が白に塗りつぶされる。


 次に見えたのは――

 床に崩れ落ちる教授の姿だった。


 半身が影のまま固まり、輪郭が壁へと流れ込み続けている。

 まるで、壁そのものに“吸われている途中”のようだった。


「……白石、君か……」


 教授は微笑んでいた。

 影になった片目だけが、かすかに光り続けている。


「見たね……白石君。

 観測を閉じることは、私にはできなかった。

 だから……託すよ……」


 教授の手から封印片が落ち、

 熱を帯びたまま脈動していた。


 私はそれを拾い上げた。

 触れた瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。


「……これは……何なんですか……」


「観測を……外側へ逃がす……鍵だよ。

 私の影が……固定されてしまう前に……

 誰かが……封を閉じなければ……」


 教授の声はそこで途切れた。

 壁の黒はゆっくりと萎み、完全に動きを止める。


 録音機の赤いランプだけが、

 まだ小さく点滅し続けていた。


「……教授……?」


 返答はなかった。

 壁に焼き付いた影だけが残り、

 そこに“存在し続けてしまった”。


 私は封印片を胸に抱えて、震える声で記録を続けた。


「……どうか、光を閉じてください。

 この影が、二度と誰かを“永遠”にしませんように」


――ザーッ。

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