6章. 封じられた場所 (五日目朝〜)

6−1. 朝の確認:五つの犠牲

 朝になったはずなのに、体育館の空気には“朝”の気配がまったくなかった。

 窓を覆う霧は濃く、白い膜の向こうから光が届いてくるのかさえ分からない。

 二十四人の生存者は、ほとんど眠れないまま、夜が終わったらしいことだけを頼りに身を寄せていた。


「……行こう」


 藤木先生が小さく言った。黒髪をきちんと整えているはずなのに、霧の光のせいか、いつもより表情が影に沈んで見えた。

 昨夜、五人が姿を消した。

 矢島、山中、田所、佐久間、そして相沢先生。

 その“結果”を確かめるため、僕、美咲、白石、桐生、藤木先生の五人が動く。


「絶対に、無理はしないで」

 三井が震える声で言う。肩までのセミロングが揺れ、いつもより頼りなげに見えた。


「ああ。すぐ戻る」

 自分で言ったその言葉に、僕自身がすがっていた。


 体育館の扉を開けると、霧の冷たさが一気に肌にまとわりつく。

 空気が沈黙を吸い込み、廊下の奥で“何か”がこちらを見ているような気配があった。


「まずは……体育倉庫の確認だな」

 桐生が言う。短髪の跳ねた寝癖が、神経質に震えていた。

 体育館と隣接している倉庫は、最初に確認すべき場所だった。


 扉を開けると、湿った木の匂いがむっと押し寄せた。

 薄暗い倉庫の中で、跳び箱やマットが影のように沈んでいる。

 その中央——跳馬だけが不自然な存在感を放っていた。


「……跳馬、だよな。こんな形だったか?」

 桐生が眉をひそめる。


 跳馬の革張りの表面が、ありえないほど歪んでいた。

 膨らんでいる、というより“内部の形が外に浮き上がっている”。


 背中の丸み。

 右肩が少しだけ下がる姿勢。

 背骨の湾曲。

 間違いようもない体の癖。


「……矢島、だ」

 僕は息を飲んだ。

「このライン……あいつの体勢そのままだ……」


 跳馬の革がかすかに震えた。

 人の声ではなく、骨の軋みが革越しに響いてくる気配。


「……組み合わされてる」

 白石が低く言う。丸眼鏡の奥の瞳が揺れていた。

「矢島くんの身体構造が……跳馬の内部と重ね合わせられて……

 器具と個体の境界がなくなってる。

 これは……完全な“展示”形態よ……」


「矢島……!」

 桐生が一歩踏み出した瞬間、跳馬が生き物のように震えた。


 顔はない。

 手もない。

 しかし、骨格の主張だけが跳馬の内部から響き続けていた。


「……呼ぶな」

 美咲が震える声で言った。

 高い位置でまとめた黒いポニーテールが、霧の湿気でわずかに重く揺れる。

「名前を呼べば……観測が進行して……完全に固定される」


 僕は跳馬から目をそらした。

 あれはもう“矢島の形をした跳馬”でもなく、“跳馬に変質した矢島”でもない。

 そのどちらでもない何かが、そこにあった。


「……次に行こう」

 藤木先生が言った。

「ここに長くいるのは危険だ」


 倉庫を出ると、霧の膜が揺れる渡り廊下に出た。

 静けさは濃く、足音が吸い込まれるように消えていく。


 そして、その理由がすぐに分かった。


「……っ」


 美咲が立ち止まり、指を伸ばす。


 渡り廊下の壁。

 そこに、灰色の影が三つ重なり合っていた。


「……山中、田所、佐久間……?」

 桐生がうめくように言った。


 影は黒くなく、白くもない。

 霧の粒を吸い込んだような、濁った灰色。

 輪郭は崩れかけているのに、姿勢の癖だけが鮮明に残っていた。


 山中の猫背。

 田所の腕の角度。

 佐久間の重心の置き方。


 それらが“影として融合”して壁に固定されている。


 僕が息をした瞬間、影の輪郭がわずかに揺れた。

 僕らの気配に反応したように。


「観測されるたび……固定されていく……」

 白石の声が震える。

「もう……戻れない」


「離れよう」

 美咲が言った。

「ここ、長く見たら……こっちまで描かれる」


 僕たちは影から視線を外し、廊下を進んだ。


 そして、図書室の前まで来たときだった。

 扉が、半分だけ開いていた。


「……確認するしかないな」

 藤木先生が言う。


 図書室に入った瞬間、空気が変わった。

 本の匂いではない。

 もっと“生々しい匂い”。


 閲覧机の中央に、一冊だけ本が置かれていた。


 背表紙には金の文字で——

 相沢沙織

 と刻まれていた。


「……先生……」

 藤木先生の声が震えた。


 白石がそっとページをめくる。

 紙ではなかった。

 皮膚のように薄い層が重なり、指先が沈む。


「これも……“展示”。

 観測され続けた結果……

 形が、本として固定された……」


「……閉じてくれ」

 藤木先生が顔を伏せる。


 白石は静かに本を閉じた。


 僕たちはしばらく何も言えなかった。

 相沢先生は、もうどこにもいなかった。


「……これで五人」

 美咲がゆっくりと言う。

 細身の肩がわずかに震えている。

「矢島、山中、田所、佐久間……相沢先生」


 桐生が拳を握った。肩幅の広い体が強張る。

「全員……展示された形で見つかったってことか」


「……戻ろう」

 僕は言う。

「みんなが待ってる」


 図書室を出たあと、廊下の奥で影が一瞬だけ揺れた。

 霧かもしれない。

 でも、“形を探している何か”が動いたように見えた。


 体育館の扉が見えたとき、ようやく息が戻った。

 だが、霧の向こうの気配だけはまだ消えていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る