4−6. 夜の影

 体育館は、息をひそめたように静かだった。

 誰も話さず、誰も動かない。

 空気そのものが何かを待っているみたいで、

 その沈黙の底に、言葉にならない緊張が滲んでいた。


 そのとき——

 校舎の奥から、薄い金属を叩いたような一音が響いた。


「ポン……」


 音楽室の方向だ。

 一音だけなのに、体育館全体が凍りつく。


「……いま、聞こえたよね?」

 美咲が僕の袖をつまんだ。


「聞こえた」

 僕は正直に答えた。


 誰も息をする音すらたてなかった。

 その沈黙を切り裂くように、

 廊下の奥でライトの揺れが近づいてきた。


    ◇


 ——数分後。


 矢島、山中、田所、佐久間の四人が、

 足早に体育館へ戻ってきた。


 戻ってきたというより、“引き返してきた”という緊張があった。


「……戻ったぞ」

 矢島が荒い呼吸で言う。


「お、おかえり……!」

 三井が駆け寄る。


 山中が額の汗を拭いながら言った。

「なあ……今、音したよな。……あのピアノの……」


「聞こえたから……戻ってきた」

 田所が肩で息をしながら続ける。

「誰もいない廊下で……いきなり鳴って……」


「……やばいと思った」

 佐久間は震えて言った。

「わたしたち……あの暗い帯の中にいたのに……なのに音だけすごく近くて……」


 矢島は何も言わない。ただライトを強く握り締めた。

 戻る途中で何があったのか、口には出さないが、その沈黙が物語っていた。


    ◇


「高橋と加瀬は?」

 矢島が辺りを見回す。


「まだ戻ってないっぽい……」

 三井が震える声で言った。


「は? あいつら、まだなのかよ」

 苛立ちと焦りが矢島の目に浮かぶ。


 けれど実際、二人は“帰還時間”を決めていなかった。

 小さな死角に向かった二人は、どれくらい調べるとも言わずに出て行ったのだ。


 その曖昧さが、今になって胸を圧迫する。


「加瀬くーん!」

 三井が扉の外へ呼びかける。


 返事は……なかった。

 声そのものが廊下で吸われたように消えていった。


「……声、返ってこない」

 美咲が小さく言った。


 白石がノートを開き、落ち着いた筆致で書き込む。

「三日目、夜。高橋・加瀬——不在。呼びかけへの反応なし」


 “なし”という二文字だけが、不自然に重かった。


    ◇


「迎えに行く」

 矢島が低く言う。


 まるで何かを押し殺しているような声だった。

 拳を握りしめ、廊下へ踏み出しそうになる。


「だめだよ!」

 三井が泣きながら叫ぶ。


「なんでだよ!」

 矢島が振り返り、怒鳴る。


 佐久間が矢島の腕を掴んだ。

 涙で声が震えている。


「……だめ……あの影……おかしかった……。

 わたし……あそこでもう少し進んでたら……」


 うまく言葉になっていない。

 けれど、その恐怖は本物だった。


「矢島!」

 僕は前へ出た。

「今行ったら……多分、戻れない」


 矢島の顔が歪む。

 一歩、廊下へ踏み出しかける。


「戻れねぇわけ……」

 拳を握るが、足は動かない。


「……っくそ!!」

 矢島は壁を殴った。

 乾いた音が体育館に響く。


    ◇


 そのとき、再び音が鳴った。


「ポン……ポン……」


 二音。

 さっきよりもはっきりした音。

 鍵盤が“勝手に落ちた”ような響き。


 美咲が僕の腕にすがりつく。

「真一……音楽室……だよね……?」


「……多分」


 森川が作品にされた部屋。

 あのピアノが置かれている場所。


 そこからまた音が鳴る。


 誰も理由を知らない。

 でも、“まだ何かが動いている”ことだけは理解できた。


    ◇


「……なあ。影、変じゃね?」

 山中が床を指さす。


 僕もそこを見る。


 体育館に落ちている影は、本来なら矢島、山中、田所、佐久間の四つ。

 しかし、一瞬だけ——


 六つに見えた。


 瞬きをすると、四つに戻る。

 誰もそこにはいない。


「……いま、影……増えなかった?」

 美咲が震える声で言う。


「……分からない」

 僕は正直に答えた。

 推測はしない。それが今の僕にできる全てだった。


    ◇


 白石がノートを閉じ、静かに言った。

「……もう、夜が変わってきてる」


 その直後だった。


「コーン……」


 長い単音が、音楽室の奥から響いた。

 鍵盤を押した音ではなく、

 誰も触れないまま、重力だけで落ちたみたいな、乾いた響き。


 誰も動けなかった。


 名前を呼ぶ声さえ出ない。

 高橋も加瀬も、影のように“そこにいない”。


 ただ、夜の奥から響くその単音だけが、

 戻らないものの気配を静かに告げていた。

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