閉ざされた校舎の七日間 ― 芸術の檻 ―

さかもと まる

1章. 閉ざされる朝(一日目朝〜)

1−1. 教室の音

 朝の教室は、やけに広く見えた。

 冬休み中の補講で登校している三年生は少ない。市立青葉学園中学校の三年として過ごす最後の冬なのに、教室は静かだった。


 窓の外には霧が張りついていた。

 白ではなく、灰色に近い霧。光を反射しない薄い膜のようで、世界の音も、色も、そこに吸い取られていくようだった。


 僕はいつもより早く席に鞄を置いた。

 まだ誰も来ていない。

 黒板の上には昨日の公式が半分だけ残り、チョークの粉が縦に落ちている。誰かが急いで消して、そのままにしたのだろう。


 机の上には模試の結果表が開きっぱなしだった。

 赤ペンで引いたラインが、今日はただの傷みたいに見える。

 「B判定まであと一問」と書き込んだ自分の文字は、紙の上でひび割れたようになっていた。


 時計の音が嫌いだ。

 刻むたびに「早くしろ」と急かされている気持ちになる。

 今日は、その音さえしなかった。


 教室の後ろの時計は八時三十五分を指していた。

 秒針は確かに動いているのに、音は一つも聞こえない。


 静かすぎる。

 そう思って耳を澄ませても、冬の朝特有の車の音も、人の足音も、遠くの鳥の声さえもしなかった。

 音が消えた世界にいるみたいだった。


 窓の向こうに目を向ける。

 校庭の奥、校舎の中心に立つ時計塔が見える。

 長針も短針も、ゆっくりと、確かに動いていた。時間自体は正常に進んでいる。


 ただ、霧越しに見えるその針は、どこか“重い”。

 進んでいるのに、追いついてこないような。

 動きと時間が微妙にずれているように感じた。


 理由の分からない違和感が、胸の奥に沈んでいく。


 ドアが静かに開いた。

 幼馴染の氷室 美咲が入ってきた。

 美咲は黒髪を高い位置でまとめていて、揺れた毛先が霧の光を吸い込むように細い影を首筋に落としていた。


「おはよう、柊くん。今日も早いね」


 淡いマフラーを外しながら笑う美咲の声は、霧の色とは正反対の温度をしていた。

 その笑顔を見ると、不思議と呼吸が楽になる。


「おはよう。……外、ひどかったのか?」


「うん。なんか、濡れてる感じもしないのに、服に霧がまとわりついてくるの。変じゃない?」


 美咲は窓の外を覗き込む。

 霧が光を吸い込んでいて、外が昼か夜かさえ曖昧だった。


「冬だからだろ」


「そうだけど、ほら……」


 美咲は窓ガラスに指先を近づけ、すぐに離した。


「光、返さないの。普通の霧ならもっと白いのに」


「……気のせいじゃないか?」


「気のせいだったらいいんだけどね」


 美咲は小さく笑ったが、その目は笑っていなかった。

 その不安が、言葉より早く僕の胸に移ってきた。


「時計塔、見た?」

 突然、美咲が言った。


「動いてるだろ」


「動いてるけど……進み方が変。ちょっと遅れてる気がする」


「霧でぼやけて見えるだけじゃないのか?」


「そうかもしれない。でも、見てると“戻ってる”みたいに感じない?」


 僕は時計塔をもう一度見る。

 確かに、針は動いている。

 だけど、動いているのに、時間が少しだけ後ろに残されていくように見えた。


 美咲は机に手を置き、僕の方へ少し身を寄せた。


「ねえ柊くん。今日、なんか変だよ」


 その声にぞくりとした。

 理由は分からないけれど、美咲が“変だ”と言うときは、本当に何かが起きる前触れだった。


 そのとき、廊下から足音が響いた。

 重い靴音。

 反響が、いつもより半拍遅れて戻ってくる。


「おーい、真面目組!」


 勢いよくドアが開き、桐生 隼人が顔を出した。

 髪は盛大に寝癖で跳ね、片手にはコンビニのおにぎり。

 桐生の短い髪は四方に跳ね上がり、その影まで落ち着きなく揺れていた。


「柊、また誰より早いじゃん。美咲までいるし」


 桐生は歩きながら霧の外に視線をやる。


「時計塔、今日も普通に動いてるな。珍しくサボってねえ」


「サボるって……時計に人格あるみたいに言わないでよ」

 美咲が笑ったが、その声は少し硬い。


 桐生は美咲の顔を見て、眉をひそめた。


「なんだよ二人とも。朝から暗いぞ。補講くらい気楽にいこうぜ」


「桐生くん、霧、変じゃない?」

 美咲が言う。


「変って?」


「光、返してないの。なんか、全部吸い込んでる」


「おいおいホラー映画じゃねえんだぞ。……まあ確かに濃いけどさ。冬だろ、冬」


 そう言いながら、桐生は腕時計を見た。

 その目が、一瞬だけ鋭くなる。

 すぐにふざけた表情に戻ったが、「一瞬」を見逃すほど僕は鈍くない。


 その一瞬が、妙に引っかかった。


 ふと、もう一つの足音が近づいてきた。

 規則正しい、軽い足音。


「おはようございます」


 白石 千尋が教室に入ってきた。

 両腕に厚いノートと資料を抱え、真っ直ぐ黒板へ歩く。

 肩でそろえた黒髪が淡い光に揺れ、足元の影だけが先にすっと揺れた。


「白石、今日もノートすごい量……」

 美咲が声をかける。


「記録しておきたくて。こういうとき、数字のほうが落ち着くので」


 白石は教室の時計を見て、少しだけ眉を寄せた。

 次に窓の外の時計塔を見て、また視線を戻した。


「……ほんの少し、ずれてますね」


「ずれてる?」

 僕が聞き返す。


「いえ、針自体は正確なんです。けど……見え方が、です。霧の向こうで光が屈折しているだけかもしれませんが」


 白石の声は落ち着いているのに、言葉の端だけがざらついていた。


 そのとき、始業チャイムが鳴った。


 いつもより半拍遅れて聞こえた。

 音が天井裏の奥からにじみ出てくるような鳴り方だった。


「……チャイム、遅れましたよね」

 白石が呟く。


「気のせいじゃない?」

 美咲はそう言うが、窓から目を離さなかった。


 廊下から藤木先生の声が響いた。


「着席しろー。ホームルーム始めるぞ」


 黒髪を短く整えた藤木先生が姿を見せ、スーツの肩に落ちた影だけがわずかに遅れて揺れていた。


 僕たちは席についた。椅子の脚が床と擦れる音も、どこか遠く聞こえた。

 音が、この教室に届く前に薄まってしまうような感覚。


 窓の外の霧はさらに濃くなっていた。

 時計塔は動いているのに、霧の揺れ方のせいか、その針が歪んで見える。

 進んでいるのに、追いついてこない時間。

 あるいは、どこか別の場所に引っ張られている時間。


 教室の時計は八時四十五分。

 秒針は静かに進んでいる。


 動くものと、止まりかけのもの。

 その境界が、少しずつ曖昧になっていく。


 こうして始まった朝が、

 “いつも通り”で終わる気はまったくしなかった。

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