父が見守る息子の戦い(柊鋼牙 視点)

俺の名前は柊鋼牙。四十五歳。元プロ格闘家で、今は総合格闘技ジムを経営している。リングで数え切れないほどの戦いを経験してきた。勝利の味も、敗北の苦さも知っている。だが、人生で一番難しい戦いは、リングの外にあると、俺は息子を見ていて思う。


息子の名前は黎明。十七歳の高校二年生だ。いや、正確には「だった」と言うべきか。あいつは最近、高校を辞めた。俺は、それを止めなかった。止める理由がなかったからだ。


黎明は、小さい頃から変わった子供だった。三歳の時、既に文字が読めた。五歳で、大人向けの本を読んでいた。七歳の時には、パソコンを分解して組み立て直していた。天才、という言葉は安っぽいが、黎明にはそれが当てはまると俺は思っていた。


だが、黎明には別の才能もあった。身体能力だ。俺が格闘家だったからか、黎明の体は生まれつき筋肉のバランスが良かった。五歳から、俺はジムで黎明に柔道とキックボクシングを教えた。最初は遊び半分だったが、黎明はすぐに上達した。中学生の時には、県大会で優勝するレベルになっていた。


「親父、なんで人は戦うの?」


ある日、黎明がそう聞いてきた。


「色々理由はある。守るため、勝つため、証明するため」

「俺は、どうして戦うの?」

「それは、お前が決めることだ」


黎明は黙って考えていた。俺は、息子がいつか答えを見つけると信じていた。


高校に入学してから、黎明は変わった。いや、「変わったふり」をしていた。学校では地味な服装、ぼさぼさの髪、眼鏡。まるで別人のように目立たなくしていた。


「なんで、そんな格好してんだ?」


俺が聞くと、黎明は淡々と答えた。


「学校は面倒だから。目立たない方が楽なんだ」

「そうか」


俺は、それ以上何も聞かなかった。黎明には黎明の考えがある。親が口を出すことじゃない。


だが、ある日、黎明の様子がおかしくなった。学校から帰ってくると、いつもより暗い表情をしていた。


「どうした?」

「別に」


黎明は嘘が下手だ。顔に出る。


「何かあったんだろ」

「少し、面倒なことが起きそう」

「やられたのか?」

「精神的に、少し」


俺は腕を組んだ。誰かが、息子をいじめている。それは許せなかった。だが、俺が出て行って解決する問題じゃない。


「やり返すか?」

「考えてる」

「いいだろう。ただし、やるなら徹底的にやれ。中途半端が一番良くない」


黎明は頷いた。その目には、決意が宿っていた。


その日から、黎明は夜遅くまでパソコンに向かうようになった。何をしているのか、俺にはわからなかった。だが、黎明が何か計画していることは明らかだった。


ある夜、俺はジムでサンドバッグを叩いていた。すると、黎明が入ってきた。


「親父、スパーリング相手して」

「おう」


俺たちはリングに上がった。黎明の動きは、以前より鋭くなっていた。怒りが、技術を研ぎ澄ませていた。俺の攻撃を捌き、カウンターを入れる。その目は、真剣だった。


三十分のスパーリングの後、俺たちはリングに座り込んだ。


「強くなったな」

「まだまだです」

「いや、本当だ。お前は、もう俺がいなくても大丈夫だ」


黎明は少し驚いた表情をした。


「学校の件、決めたのか?」

「はい」

「徹底的にやるんだな?」

「はい」

「わかった。何かあったら、いつでも言え」


黎明は頷いた。俺は、息子の頭を撫でた。もう、子供じゃない。一人の戦士だ。


数日後、地元のニュースで大きな事件が報じられた。神宮寺建設という会社が、不正入札と粉飾決算で告発されたという。俺はその名前に聞き覚えがあった。確か、黎明のクラスメイトの父親の会社だ。


「黎明、これ、お前がやったのか?」


夕食の時、俺は聞いた。


「何のこと?」


黎明はとぼけた。だが、その目は何かを語っていた。


「神宮寺建設の件だよ」

「ああ、ニュースになってましたね」

「お前、関係あるのか?」


黎明は少し考えてから、答えた。


「証拠を、適切な場所に送っただけです」

「そうか」


俺は、それ以上追及しなかった。黎明がやったことは、違法じゃない。ただ、真実を明るみに出しただけだ。


「やり返してんだな」

「はい」

「徹底的にやれよ」

「わかってます」


黎明は静かに笑った。その笑みは、俺がリングで見せていた笑みと同じだった。戦いを楽しむ者の笑み。


その後も、黎明の周囲では色々なことが起きた。クラスメイトの女子生徒がSNSで炎上した。陽キャグループが崩壊した。そして、黎明は高校を辞めた。


「親父、俺、高校辞める」


ある日、黎明がそう言った。


「理由は?」

「ITの会社から、オファーがあった。チーフエンジニアとして働いてほしいって」

「給料は?」

「月百万」


俺は驚いた。十七歳で、月百万。だが、黎明の実力なら不思議じゃない。


「いいんじゃないか」

「親父、止めないの?」

「止める理由がない。お前は、もう自分の道を歩き始めてる」


黎明は少し安心したような顔をした。


「ありがとう」

「ただし、一つだけ言っておく」

「なに?」

「人を潰すのは簡単だ。だが、自分を保つのは難しい。復讐に溺れるな」


黎明は頷いた。


「わかってる。俺は、ただ報いを与えただけ。それ以上でも、それ以下でもない」

「なら、いい」


俺は息子の肩を叩いた。もう、親が教えることは何もない。


黎明が高校を辞めて、会社で働き始めてから、家での時間は減った。朝早く出て、夜遅く帰る。たまに、週末にジムに来てトレーニングをする程度だった。


ある日、黎明がスーツ姿で帰ってきた。


「どうした、そのスーツ」

「プレゼンがあったんだ」

「似合ってるじゃないか」


黎明は照れくさそうに笑った。


「ありがとう」

「仕事、どうだ?」

「楽しい。学校より、ずっと」

「そうか」


俺は嬉しかった。息子が、自分の居場所を見つけた。それが何より大切だ。


ある日、隣の家の奥さんが訪ねてきた。星崎さん、黎明の幼馴染の母親だ。


「柊さん、ちょっと相談が」

「どうしました?」

「うちの娘、陽茉莉なんですけど、最近、学校に行けなくなって」


俺は黎明の話を思い出した。星崎陽茉莉。黎明が、昔よく一緒に遊んでいた女の子だ。


「それは、大変ですね」

「黎明くんと、何かあったんでしょうか」


俺は少し考えた。何を言うべきか。


「さあ、どうでしょう。黎明は、何も言ってませんが」

「そうですか」


星崎さんは悲しそうな顔をして帰っていった。俺は、複雑な気持ちだった。


その夜、黎明に聞いた。


「隣の星崎さんの娘さん、知ってるだろ?」

「ええ」

「あの子、通信制高校に転校したらしい。母親が心配してたよ」


黎明は何も答えなかった。


「お前、何かあったのか?」

「別に」


黎明は嘘をついていた。だが、俺は追及しなかった。


「そうか。まあ、お前が何も言わないなら、俺も聞かない」


電話を切った。俺は窓の外を見た。隣の家の明かりが、寂しく見えた。


息子が誰かを傷つけた。それは、間違いない。だが、それは息子が生きるために必要なことだったのかもしれない。俺には、それを責める資格はない。俺も、リングで多くの人間を傷つけてきた。それが、戦いというものだ。


数年後、黎明は二十歳になった。会社では最年少役員に就任し、メディアにも出るようになった。俺は、テレビで息子を見た。


「若き天才エンジニア、柊黎明さん」


画面の中の黎明は、自信に満ちた表情で語っていた。もう、あの地味な高校生の面影はなかった。


「立派になったな」


俺は呟いた。妻も隣で、嬉しそうに画面を見ていた。


「あなたに似たのね」

「いや、あいつは俺よりずっと賢い」

「でも、強さはあなたから受け継いだわ」


俺は頷いた。強さ。それは、肉体的な強さだけじゃない。心の強さ。逆境に立ち向かう勇気。それを、黎明は持っていた。


ある日、黎明がジムに来た。久しぶりのスパーリングだった。


「親父、手加減しないでくれ」

「わかった」


俺たちはリングで向かい合った。黎明の動きは、以前より洗練されていた。無駄がない。的確に、俺の弱点を突いてくる。俺も本気で応戦した。かつての現役時代の動きを思い出しながら、息子と戦った。


三十分後、俺たちは互いに笑っていた。


「お前、強くなったな」

「親父にはまだまだ敵わない」

「いや、もう俺より強いかもしれん」


黎明は首を横に振った。


「親父が教えてくれたから、俺は強くなれた」

「そうか」


俺たちはリングを降りた。シャワーを浴びて、ジムのラウンジでプロテインを飲んだ。


「なあ、黎明」

「なに?」

「お前、後悔はないのか?」

「何を?」

「学校の連中に、やったこと」


黎明は少し考えてから、答えた。


「後悔はない。あいつらは、報いを受けただけ」

「そうか」

「でも、時々思う。もっと違うやり方があったんじゃないかって」

「それが、人間だ」


俺は言った。


「完璧な復讐なんてない。どんな選択をしても、心のどこかに引っかかりが残る」

「親父もそうだった?」

「ああ。リングで相手を倒した後、いつも考えた。もっと違う戦い方があったんじゃないかって」


黎明は頷いた。


「でもな、大事なのは、自分の選択を受け入れることだ」

「受け入れる」

「ああ。お前が選んだ道は、お前のものだ。誰にも否定されない」


黎明は少し笑った。


「ありがとう、親父」

「いいってことよ」


俺は息子の頭を撫でた。もう、黎明は大人だ。自分の足で立ち、自分の道を歩いている。親ができることは、ただ見守ることだけだ。


ある日、俺は街を歩いていて、見覚えのある少女を見た。星崎陽茉莉だった。彼女は、小さなビルの前に立っていた。出版社の看板が見える。


「星崎さん」


俺が声をかけると、彼女は驚いて振り返った。


「柊さん」

「久しぶり。元気だったか?」

「はい、なんとか」


彼女は疲れた顔をしていた。かつて、黎明と一緒に遊んでいた明るい少女の面影はなかった。


「黎明のこと、テレビで見ました」

「ああ、あいつも頑張ってるよ」

「すごいですね。私とは、もう全然違う世界に」


陽茉莉は寂しそうに笑った。


「あの、柊さん」

「なに?」

「黎明くんに、伝えてもらえますか」

「なんて?」

「ごめんなさい、って」


俺は黙っていた。


「私が、黎明くんを傷つけた。それは、消えない。でも、ちゃんと謝りたかったって」

「わかった。伝えておく」

「ありがとうございます」


陽茉莉は頭を下げて、ビルの中に入っていった。俺は、その背中を見送った。


その夜、俺は黎明に伝えた。


「今日、星崎さんに会った」

「そう」


「お前に、謝りたいって言ってた」


黎明は何も答えなかった。


「お前、許す気はないのか?」

「わからない」


黎明は正直に答えた。


「まだ、整理がつかない」

「そうか」


俺は、それ以上何も言わなかった。それは、黎明が自分で決めることだ。


「でもな、一つだけ言っておく」

「なに?」

「憎しみは、いつか自分を食い潰す。許せとは言わない。ただ、手放せ」


黎明は頷いた。


「考えてみる」

「それでいい」


俺は息子の肩を叩いた。黎明は、まだ若い。これから、もっと色々なことを経験するだろう。その中で、答えを見つけていくはずだ。


数ヶ月後、黎明が珍しく早く帰ってきた。


「どうした?」

「今日、陽茉莉に会った」

「そうか」

「彼女、謝ってきた」

「お前は?」

「許さなかった」


黎明は静かに言った。


「でも、もう憎んでもいない」

「それでいいんじゃないか」

「そうかな」

「ああ。許すことと、忘れることは違う。お前は、忘れる必要はない。ただ、前に進めばいい」


黎明は少し安心したような顔をした。


「親父、いつもありがとう」

「なに言ってんだ。親子だろ」


俺たちは笑った。


黎明は、自分の道を歩き続けている。俺は、その背中を見守り続ける。それが、父親の役目だ。戦いは、まだ終わらない。人生という戦いは、死ぬまで続く。だが、黎明なら大丈夫だ。あいつは強い。肉体も、心も。


俺が教えられることは、もう何もない。ただ、一つだけ願う。黎明が、幸せになってくれることを。それだけだ。


夜、ジムのリングに一人で立った。かつて、ここで息子とスパーリングをした。あの頃の黎明は、まだ子供だった。でも今は、立派な大人だ。


「よくやった、黎明」


俺は呟いた。


「お前は、俺の誇りだ」


リングを降りて、ジムの明かりを消した。外に出ると、夜空に星が輝いていた。あの星のように、黎明も輝き続けるだろう。俺は、それを信じている。


これが、父として見守った、息子の戦いの記録だ。

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