第19話
【十九】
時刻は昼をとうに過ぎていたが、店には朝から閉店を示す札が下げられていた。わざわざそんな人払いをしなくても、もともと客など来るのは稀。それでも今日はそうしなければならなかった。
店の中央にある大きなテーブルには、普段はその使用目的も不明というような雑多な商品が無造作に置かれているが、今はそれさえも綺麗に片付けられていた。
代わりにあるのは複雑な魔方陣。そして周りには七つの燭台が取り囲むようにして置かれており、そこにしつらえられたロウソクがわずかに炎を揺らす。
身体の線が強調されるいつもの黒い服に身を包んだアリエスが店の奥からやって来る。その手には大きな水晶玉があり、それはロウソクの炎をキラキラと反射させては、室内に幻想的な雰囲気を作り出している。
踏み台と椅子を使いテーブルに上がると、アリエスはその大きく取られたスリットから白く淫靡な太股をあらわにする。だが今はそれを目にする者も、行儀が悪いとたしなめる者もいない。
テーブルの上で膝をつき、艶かしい仕草でアリエスは水晶玉を台にセットすると「ふぅ」と息をついた。
「とうとうこの日が来たのね。ホント、長い十年だったなぁ」
そう感慨深げに漏らすと、自身の身体をじっくりと見る。
「この身体も、決して嫌いじゃなかったけどね…… いざ離れるとなると、なんだか不思議な気分よね」
苦笑しつつ、誰に言うでもなくそうこぼすと、意を決して魔方陣の中央にその身体を横たえた。
目に映る天井をぼんやりと眺めると、アリエスの心には様々な思いが去来する。あの日からずっと待ち望んできたことが、もうすぐ叶おうとしている。それが叶うという保証などどこにもありはしないのだが、それでも信じていた。
信じたいと言った方が正しいのかもしれない。
「これが恐らく、ワタシに残された最初で最後のチャンス……」
来る日も来る日も占いに費やしながら長年待ち望んで、ようやくあの少年が現れると知った時、アリエスは踊り出して喜びたいほどの衝動にかられたのだった。
初めて会った経緯も、そして見た目も雰囲気も、確かに頼りないところは大いにある。いや、むしろ今は頼りないところしかないといっても過言ではない。それでもその能力とその魔力は稀有のものという占いは、本人に会って強い確信に変わった。
「たとえ頼りなくっても、それでもワタシにとっては、白馬の王子様なのよねぇ」
アリエスは黒髪のくせ毛の少年を思い浮かべると、ほんのりと頬が上気するのがじぶんでもわかった。
今の自分の姿を見たら、妖艶さにはおおよそ似つかわしくない。恐らくアイリーシェはそう言って笑うだろう。「天下の黒魔女様にも、そんな乙女な部分があったのね」と間違いなく笑い転げるに違いない。そこだけは自信をもって断言できた。
出来ることならばちゃんと一から指導して、きちんと少年の能力を開花させてあげたかったとアリエスは胸を痛めていた。けれどそれは端から叶わないことだった。少年に出会ったときにはすでに、アリエスに残された時間はわずかしかなかったから。
それを話せば、恐らくあの少年は責任を感じるに違いない。自分の力が足りないからと嘆き、己が不甲斐なさに心を痛めることだろう。
アリエスの指示した任務を力強くこなす姿よりも、そちらの方が容易に想像ができてしまうことが、なぜか妙に可笑しかった。
「ふふふ……」
全身の力を徐々に抜きながら、そんな笑みをこぼす。
でも時間がないのは少年が現れるよりも以前から、とうにわかっていたことだった。だからアリエスは詳細をいっさい明かさず、強引とも言える手段を取った。考えたくはないが、もしも失敗するようなことがあっても、それであの少年が責任を感じて、万が一にも自らの可能性を抑えつけてしまわぬように。
黒魔女の契約が、能力に負の影響を与えてしまったのだと言い聞かせられるように。
だがそれを受け入れて納得するかということにはいささか疑問もあった。真っ直ぐであるからこそ、自らを責めるに違いないと、会ううちにそう確信するようになった。
あの心優しい少年の一生の枷となるくらいならば、いっそ自分の身などいらない。アリエスはそんな思いをいだいたこともあった。
「恐らくは、あと一時間といったところかしら…… 予想していたよりも、ずいぶん早くなったわね。あいつらが急いているという証拠だわ」
その時が刻一刻と迫りつつあった。
時間がくれば、再びあれを受けることになる。今の自分では、恐らくそれに長く耐え続けるこことはできないだろう。
そうなったら、自分は自分で無くなる。エルターナ・アリエス・ベルトーラという名の自分の意識は永遠に無くなってしまう。そんな考えがアリエスの頭を、晴れない霧のように蝕んでゆく。
すると意志とは無関係な震えが全身を襲ってくる。燭台がカタカタと音を立て、見つめた天井がわずかに歪む。
「ざまぁないね。いくら虚勢をはったって、所詮はこんなものなのね」
笑う様にそんな言葉を吐いて無理矢理に心を奮い立たせると、押し寄せる不安にどうにかか抵抗を試みる。
黒魔女と呼ばれたアリエスでも、それは未知の恐怖であった。生きながらに自分が自分でなくなる恐怖など、到底図り知ることなど出来るはずがない。
それはアリエスが十年間毎日戦ってきた恐怖であり、アイリーシェがかつて乗り越えた恐怖でもあった。
「あの時、アイリーシェはこんな思いをしたんだ……」
ただ一人の親友のことを思い浮かべて漏らした声も、微かに震えたまま。憎まれ口を叩きながら、それでも十年一緒にいてくれたアイリーシェが感じていた恐怖。それに気づきもしなかったこに、深い悔恨に押し潰されそうになる。そして少年に対してもまた同じ想いでいた。
少年は今、重大な局面を迎えている。最大の危機を迎えているといっても過言ではない。副校長の、あのドルモアの調査を指示したのだから、当然そんな事態は容易に想像がついたし、それはアリエスの占いでも間違いはなかった。
しかし今、その難題を課した自分は何の手助けをすることも出来ない。もどかしくもあり、歯痒くもあった。
「ごめんね無茶言って…… ごめんね、勝手なことばかりで」
線の細い少年の優しい顔が、困った顔が次々に目に浮かぶと、さらに心がちりちりと痛む。
それが罪悪感からくるものなのか、それともまったく違った感情なのか、それはアリエス自身にもわからなかった。ただひたすらに胸を締めつける想いを言葉にした。
「本当は先輩であるはずのワタシが、力になるべきなんだけどね…… それでもワタシは信じているよ。必ずなんとかしてくれるって。だってワタシよりもすごい能力と魔力を持ってるんだから。本当はできそこないの落ちこぼれなんかじゃないんだよ」
アリエスの目尻から、涙がつーっとこぼれ落ちた。それを拭うことなく目を瞑ると、艶やかな唇を開き、その身体で口にする最後の言葉を紡いだ。
「汝の魂よ、本来あるべき所へ返す。万の時間、億の秒を越えて、安らぎと温もりを求める魂よ。その息吹に導かれて静かに飛べ。不安も恐れも全てを捨てて、ただあるべき場所へ……」
しばらくして、かくんとアリエスの全身から力が抜ける。横たわったその身体が仄かに光ると、それが粒子となって宙に溶けてゆく。
するとそれはまるで意思を持っているかのように、しばらく抜け出た身体の上を旋回する。あたかも最後の別れを惜しんでいるかのように。
やがて光る粒子が店を出て飛んで行くと、そこに残されたアリエスの脱け殻は、本来の人形へと姿を変えた。
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