第8話
【八】
フェリアーニ魔法学校の入学試験が終わった数時間後、ミエリはマルグラートの宿屋にいた。数十分前に日が落ちて、街は夜の時間へと突入していた。さすがに首都というだけあって、あちらこちらで灯るランプの明かりは、街をまるで昼間のように演出していた。
ミエリが選んだのは、ベッドとテーブルがあるだけの安宿。別に観光をしにきたというわけではないので、一晩を過ごすだけの宿に贅沢はいらない。不合格となった以上、明日には帰路に着くのだから。
日が暮れる前に食堂に入ったものの食欲はほとんどなく、根菜のスープを食しただけにとどまった。それとて喉を通ったのはごくわずかでしかなかった。
ミエリはベッドに腰を落ち着けると、鞄の中から遠話鏡を取り出した。1回に15分ほどではあるが、魔法の力によって誰でも遠く離れた場所の人物と、顔を見ながら会話をすることが出来るしろもの。
それをテーブルの上にセットするも、ミエリはすぐには両親に繋ぐことができずにいた。鏡に映る自分の顔を目にすると、それは自分でも驚くほどにひどい有り様。
泣き腫らした目は充血しきっており、疲れきったことを隠すことすらできない。おおよそそれは、16歳の少女とは思えないほどだった。
「なにこれ、ひどい顔ね……」
力ない笑みと共にそんな言葉がこぼれ落ちる。家族に心配をかけまいと、どんな顔をして不合格を報告していいのかわからずにずっと悩んでいたが、そんなものはただの杞憂でしかなかったと思うと、また別の笑いが込み上げてくる。
「ふふ…… こんな顔じゃすぐにバレるじゃない」
それでもしばらく逡巡を繰り返したが、ようやく腹を決めると大きく深呼吸をする。鏡の中心を軽く指先で弾くと、ポロンという弦楽器にも似た音をたて、水面のように揺れた。
それがおさまると、鏡には次第に人の姿が映し出されてくるのだった。
「おお、ミエリか? お腹すかせてないか?」
鏡の向こうからは、すぐにそんな言葉が飛んでくる。それだけで誰なのかはわかるが、映し出された人物を懐かしむように確認する。
青白い短髪の男は、革職人であるミエリの父。腕が立つものの、いつも工房に籠りきりの父は日に焼けることがないのでやや病弱な印象を与える。それでも優しくてミエリには自慢の父だった。
父の顔を見た瞬間、目頭がわずかに熱くなる。まだ町を離れて3日しか経っていないというのに、長い間離れていたかのように感じるのだった。
「大丈夫だよ、お父さん。ちゃんと食べたから。美味しいものが一杯でね、ついつい食べ過ぎちゃうよ……」
嘘だった。自分の辛い姿など見せてはいけない気がして、思わすそんな言葉を吐いてしまう。そうして無理矢理作った笑顔を見せると、父は「そうか」と不器用な笑顔をつくってよこした。
「マルグラートはあちこちから人が集まるからな、それだけ旨いもんも集まってくるってもんだ。父さんはマレイ村の、仔牛の香草やわらか煮込みってのがすきだなぁ」
ズキンと心の中が痛む。
自分は今、父をだましているのだと思うと、胸がキュッと締め付けられるのだった。ミエリは明るい方向へと話を持っていこうとする父を、まっすぐ見ることが出来ずにいた。
ミエリはそんな父に対して「うん」と、うつむき加減で力ない返事を漏らすことしかできないでいた。するとそこへ、割って入る母の姿があった。いつも通りの優しい笑顔を携えたままで、母は普段と変わらずにミエリをねぎらう。
「ミエリ、試験お疲れさま。今日はゆっくり休むんだよ」
母は店で革製品を売る看板娘。子供がいるのに『娘』はないだろうと言い合ったことを、ミエリはなぜか今さらながらに思いだしていた。
なにゆえこのタイミングなのか疑問に思うミエリだったが、隠し事をしているという後ろめたさから、何か自分が優位に立てる材料を探しているのだろうと考えた。
無論そんなことでは心が落ち着くはずもなく、自然とミエリの顔が伏し目がちになっていった。
「ミエリ?」
そんな母の心配げな声が耳に届くと、ミエリは顔を上げることができないまま遂にその言葉を口にしたのだった。
腹の底から去来するものを辛うじて押しとどめ、震えそうになる声を必死でこらえながら。
「ごめん。お母さん、お父さん。不合格だったよ。私、受からなかった……」
沈黙が流れる。鏡にはいったいどんな顔をした両親が映っているのか、それを確かめる勇気は、今のミエリにはないのだった。
「大丈夫だよ、戻っておいで。今のミエリの力で、町の人たちは充分に助かってるのよ。みんな感謝してるからさ」
するとそんな沈黙を破って、伏した頭に母の声が投げてよこされる。驚いて顔を上げると、二人はとっくに知っていたのだと改めて気づく。
顔を見た瞬間にも、一度も試験の結果について触れないことでも、二人が不合格だという事実に気づく要素はいくらでもあったのだから、それは至極当然のこと。
そんなことはミエリ自身もわかっていた。それでも言わないままにしておくことができなかった。
なにも言わずとも理解して、その上でちゃんと気持ちをくんで接してくれる。親ってすごいんだなと改めて感謝の想いをいだく。
込み上げる感情をミエリが必死で抑えていると、鏡にぬっと現れる人物があった。いくつもシワが刻まれた顔で、なくなりそうなほどに細い目で笑うのは、大好きな祖母だった。
「ミエリかい?」
「おばあちゃん?」
その顔を見ると、途端に張りつめていた糸がプツンと切れてしまいそうになる。祖母はいつもの穏やかな笑顔を携えてはいたが、口を開くと単刀直入に話を切り出した。
「ミエリ、金貨を払ったら入学できるんだろう? 魔法学校に」
それは向けている笑顔と違い、言葉だけは普段決して出すことのない、強い意思めいたものが感じられた。
不意をつかれたミエリは、驚きの表情を見せてしまう。よもやそんなことを祖母が知っているはずはないと思っていたから。
「どうして? おばあちゃん、どうしてそれを?」
「町の人に聞いたんだよ。一度不合格になっても、金貨を払えば入学できるって。そうなんだろう?」
「……うん」
ミエリは膝の上で両手を力一杯握りしめた。しかしその力は言葉にはいっさい影響を及ぼしはしない。それを口にすることで余計な心配をかけることになるのは明白だったから、あえてそのことには触れなかった。
その金額を口に出すことで、両親や祖母の負担にしたくはなかったから。でも今は、大好きなおばあちゃんからそう切り出されては、隠し通すことも嘘を付くこともできはしなかった。
ミエリは観念したようにその事実を告げた。
「うん、でも金貨1万枚必要なんだ。1万枚なんて…… だから」
ミエリは両親や祖母がそんな大金を払うことはできない。無理だという前に、自分から「諦めて帰るね」と、そう笑って言うつもりだった。それですべてが終わるはずだった。生まれて初めて両親に対して貫き通したわがままも、何もかもがそこで区切りを迎えて終わりになるはずだった。
しかしその言葉をさえぎったのは、ミエリが思いもしなかった祖母の一言。
「そうか。ならば私の持ってる魔法の紫水晶を売ろう。あれを売れば、金貨1万枚にちと足りん位にはなるだろうて」
「お母さん?」
その言葉に真っ先に驚きを示したのは、母だった。
「おばあちゃん…… でも、あれは」
驚く二人にはいっさいお構いなしに、いつものにいっとした笑顔を向ける祖母の顔が、鏡の向こうににじんで見える。それが涙によるものなのだと、ミエリはようやく気がついた。
「だって…… だってあれは、おばあちゃんがもらった形見だって……」
まるで駄々っ子がしゃくりあげるように、どうにか言葉を切れ切れに吐く。祖母の言う魔法の紫水晶は、子供の頃に母から送られたものだと、まだミエリが小さいころに見せてもらったものだった。
それ自体が魔力を帯びているため、自らの魔力と会わせることによって、より大きな魔法を扱うことができるようになるしろもの。祖母との昔話を思い出したミエリは、それ以上はなんと言っていいのかまるで浮かばなかった。
ゆっくりとかぶりを振ると、祖母はいつもの優しい口調に戻っていた。
「ミエリ、お前はお前のやりたいことをやればいいさ。やりたいことがあるならば、決して諦めちゃダメだよ」
「でも…… でも…… あれはおばあちゃんが……」
「気にすることはないんだよ、ミエリ。いいかい? 若者の未来のために尽くすのは、古い人間の役目なんだから」
またしても笑顔にはそぐわない、力の入った言葉をよこす祖母。
「おばあちゃん……」
「ミエリが頑張れるなら、私にとってはそれが一番さ。何よりミエリの成長は楽しみなのさ」
聞き分けのない子供のように、かぶりを振って口にするミエリだったが、気づくと涙が頬を伝って落ちていた。ようやくそれを拭いだすと、鏡の向こうの祖母は、穏やかな笑顔で何度も何度もうなづき続ける。
ミエリは拭っても拭ってもあふれ続ける涙越しに、大好きなおばあちゃんの笑顔を見る。そしていつまでも元気なおばあちゃんで居て欲しいと、ただただ願うばかりだった。
「おばあちゃん、ありがとう……」
「何を泣くことがあるかい、ミエリ。嬉しいときは笑うもんさ」
「私、がんばる。がんばるから……」
ついに涙を拭うことを諦めたミエリは、おばあちゃんのためにも立派に魔法医になるのだと、せめて金貨1万枚分は成長した姿を見てもらいたい。それまでは決して弱音なんかはかないと、心に固く誓う。
「ふわぁぁ…… あぁ……」
限界を越えてしまった感情に、いっさい抗うことをあきらめたミエリの目には、もう何も映らなかった。いつの間にか使用時間を過ぎてしまったことにも気づかないままのミエリの嗚咽は、小さな部屋からしばらくの間消えることはないのだった。
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