第6話

 

【六】

 

 行き交う人らの軽やかな足取りとは対照的に、まるで足枷でも付いているかのようにヴェロアの足はとても重たいものだった。トボトボとした足取りはどこへ向かうでもなく、ただただ街を彷徨うためだけに動いていた。

 

 ヴェロアの頭の中には、呪いにでもかかったかのように「金貨1万枚」という言葉が駆け巡っていて、他のことはいっさい考える余地さえありはしない。例えそれをいくら考え頭を悩ませたところで、目処が立つはずがないのは明確すぎるほど明確なのに。

 

 もはやヴェロアに残された選択肢は一つしかない。深く考えるまでもなく「諦めて村に帰る」それだけだった。ただそれだけなのに、なぜかその踏ん切りがつかないでいた。


 どれほどの時間をそうして過ごしたのか、どこをどう歩いてきたのかまったくわからないままに、気がつくとヴェロアは表通りの雰囲気とはまったく違うスラム街に足を踏み入れていた。キョロキョロと周囲に視線を飛ばしながら、それでもどうにか置かれた状況を整理しようと試みる。

 

「あれ? ここはどこだろう…… えっと、どっちから来たんだろう」

 

 いくら気分が塞ぎ込んでいたとはいえ、見知らぬ街でうつ向いてあてもなく彷徨えば、道に迷うことは火を見るより明らか。次第に状況を理解すると、途端に得も言われぬ不安が全身を駆ける。

 表通りの平坦な地形とは異なって、斜面にごちゃごちゃと密集して建てられたその隙間を縫って狭い路地が無秩序に走っていた。

 

 そのため目印となるはずの時計台の姿も見えず、おおよその位置も、はっきりとした時刻もわからなかった。見上げた空は遠くの茜色が、残りわずかな支配の時間との別れを惜しんでいるかのようで、すでに夜の帳は今や遅しと待ち構え準備万端だった。

 

「どうしよう。道に迷ったかもしれない……」

 

 揺るぎない事実がヴェロアの意思とは無関係に口からこぼれると、それはものの見事に震えていた。

 ポツリポツリと灯り始める家々のランプの明かりが、各々のテリトリーを誇示しているかのように感じられ、ヴェロアは居場所が徐々に削られていくような不安にさいなまれていた。


「ちょっと、そこのキミ」

 

 突如として投げ掛けられたその声に、びくんと身体を強張らせることで反応したヴェロアは、恐る恐る声のした方を振り返る。場所が場所、そして時間が時間なだけに、行き場のない不安によって全身を巡る血がいつもより速度を増しているのがはっきりとわかる。

 

 小刻みな身体の震えを隠しながら、声の主を探して視線を泳がせる。

 目に入るのはテラスのようなスペースを備えた店舗。通りに面した大きな窓が全開になっているが、テラスに設えられたランプの明かりによって店の奥まではうかがい知ることは叶わなかった。窓のそばにある深い揺り椅子に腰を下ろした声の主とおぼしき女性が、にこやかな笑顔で手招きを繰り返している。

 

 首元と手首の部分にふんだんに黒い鳥の羽根をあしらい、それ以外の場所はピッチリとして身体のラインを強調させるデザインの服に身を包んだ女性。最も目を引くざっくりと開いた胸元には、服の色とはまるで正反対な真っ白な膨らみがとても深い谷間を形成していた。

 

 ヴェロアの第一印象は「真っ黒と真っ白だ」というもの。ウエーブした黒みがかった紫の髪を揺らしながら、なおも艶かしい手つきでヴェロアを誘っているが、いくら手招きをされたところで、ランプの明かりに照らされるその姿に、本能的に近寄るのをためらってしまうほどの雰囲気を女性は持っていた。


「あの…… 僕に何か用ですか?」

 

 どんな店なのか、女性が一体何者なのかがわからず、さすがにすぐに近づくのは怖かったヴェロアは、最大限の警戒をしつつその場から尋ねる。ヴェロアの警戒などいっさい関せずといった様子で笑みを見せる女性は、その瑞々しくもぷっくりとした唇を開いた。

 

「ワタシは占い師なんだけれどね、どうやらキミの運勢があまり良くないようなのよぅ。だから、ちゃんと占った方がいいかなぁと思って声をかけたのよ?」

「占い師?」

 

 決して声を張るわけでもないのに、女性の言葉はまるで耳元で囁かれているような、そんな不思議な感覚に陥り、占い師という職業でさらにいかがわしさが上乗せされたように感じていた。いくら田舎出身で世間知らずのヴェロアでも、それは明らかに怪しいと感じるほど。一体何がと問われれば、全部と答えるほどに。

 

 いぶかしむヴェロアに対し女性は人差し指を向けると、驚くべき言葉を口にしたのだった。

 

「キミは…… マレイの村の出身なのね。そして今は…… そっか、お金のことで悩んでいるわけね」

「え? あ……」

 

 驚きのあまり言葉をなくすヴェロアに、さらにとどめをさした。

 

「お金の使い道は魔法学校の入学金で、額は金貨1万枚。と、そんなところかしら?」

「なんで? なんでわかったんですか?」

「ふふふ、それはだって…… 占い師ですもの。キミのことはなんでもお見通しよ?」

 

 夜に咲く純白の花のような神秘的な笑みを浮かべると、女性は艶やかな唇から滴る蜜のように甘く言葉を漏らす。たかがそれだけのことで、一瞬にしてヴェロアの頭からは今までの疑念も、なにもかもが吹き飛んでいた。

 

 小さな子供をおいでおいでと招くようなしぐさに、「うふふ」という笑みをトッピングした女性。ヴェロアは魂を抜き取られたかのようなおぼつかない足取りで、ふらふらとそちらの方へと歩み寄ってゆくのだった。


 今はすがれるものなら、何にでもすがりたい。どうしても諦めることはできないと心の底で思っていたのヴェロアは、無意識のうちにその思いを口にしていた。

 

「あの、僕は…… どうすればいいんですか?」

 

 黒く吸い込まれそうな瞳をにわかに輝かせると、女性は鮮血よりも赤い魅力的な唇の端を持ち上げて笑った。

 

「キミの運命に、とても悪い予感があるの。だから一度、きちんと占った方がいいと思うのよ」

「あ、でも僕、お金持ってないです……」

 

 ゆっくりとかぶりを振り立ち上がった女性は、ヴェロアの手を取り店内へと誘う。

 

「ふふ、心配しなくとも、キミはカワイイからタダで占ってあげるわよ? サービスね。さぁ、こっちに来て座って」

「あ、はい」

 

 そうして女性は店の奥にある席にヴェロアを着かせ、自らはその向かいに腰を下ろした。


 テーブルにはまがまがしいタッチの魔方陣が描かれており、占い師だという女性の言葉に嘘はないようだった。くるりと椅子ごと90度向きを変えた女性は、コツコツとテーブルの中央を指で叩く。

 

「それじゃぁ、さっそく始めましょうか…… まずは左手をここに置いてね」

「あの、こうですか?」

 

 言われるがままにテーブルの上に手を乗せ、魔方陣の真ん中にすべらせる。おもむろに女性が右手をそっと重ねてくると、透き通るような白い肌に反し、ほのかな温もりが伝わってくるのだった。たったそれだけのことでヴェロアの心臓の動きが、また違った加速を開始した。

 

「えっと、僕はなにをすれば……」

 

 情けないまでの免疫力のなさを悟られぬよう尋ねるも、目を合わせることなどできない。かといって視線を落とせば白い谷間に行き着いてしまい、どこに視線を置いていいものやら困る。

 

「うふふ。大丈夫よ。お姉さんにまかせなさい」

 

 ねっとりと絡み付くような口ぶりでそう言葉を漏らすと、その声もまた耳元で囁かれているようで、甘美な刺激が全身を駆け巡って行く感覚にとらわれる。脳が、さらには五感が、経験したことのない刺激を受けているようだった。


 不意に女性がパチンと左手の指を弾くと、テーブルの上の魔方陣の周りに並べられていたロウソクに一斉に火が灯る。たったそれだけのことで、ヴェロアには占いを受け入れる心の準備が整ってしまった。

 

「まずはこれがキミ自身の、今の運勢よ」

 

 言いながら女性は再びパチンと指を弾いた。するといくつかのロウソクが炎の色を紫に変え、そのなかの一本が激しく燃え盛る。

 もちろんそれがどのような意味を持ち、どのように良いのか、はたまた悪いのか。そんなことはヴェロアにはいっさいわからない。ただ目の前の出来事を、真剣な眼差しで眺めるしかできない。

 

「そしてこれからのキミの運勢よ。いいかしら?」

 

 そんなヴェロアを慈しむように見ながらみたび指を鳴らすと、今度はその炎が緑色へと変化したのだった。

 

「ウーン……なるほど。これは困ったわねぇ」

「ええ?」

 

 女性が整った綺麗な顔をわずかに曇らせ呟く。眉根を寄せる困り顔も美しくはあるものの、一度も見せることのなかった表情に、それを見たヴェロアには得も言われぬ不安がじんわりと湧き上がってくる。

 もはや何一つ疑うこともなく、ヴェロアは受け入れてしまっていた。

 

「あの…… 僕の運勢になにか問題が?」

 

 その不安を押し隠すことが出来ず、ヴェロアは震える声で質問を投げる。それは声だけでなく、テーブルの下で握りしめた右手も震えていた。そして当然のことながら、震えは重ねられた手を通して女性にもしっかりと伝わっているはずだった。

 

 しかし女性はすぐには答えを示さず、さらに「ウーン……」と唸ったきり押し黙ってしまう。沈黙のベールが周囲を包んでゆくと、さらなる不安を運んでくる。だがヴェロアにできるのは、ただじっと唇を噛んでそれに耐えることだけだった。それでも湧き上がる不安が、身体の震えとなることを制御することは全くもってできはしなかった。

 

「困ったわねぇ」

「え? な、何がですか?」

 

 いてもたってもいられずに、言葉が焦って口を飛び出してゆく。

 

「キミは魔法学校に入らないと、この先の運勢は下降する一方みたいなのよぅ」

「そ、そんな…… だって僕は……」

 

 沈黙を破って女性が口にした言葉は、ヴェロアにとっては非情な宣告そのものだった。

 それは究極的な負の連鎖。魔法学校に入らなければ運勢は悪くなる。けれども試験には落ちてしまった。それでも金貨1万枚を払えば入れる。しかしそれを用意することは不可能。

 

 まるで終わりなく打ち寄せる波のように、希望と絶望が交互にやってくる。そこから希望だけが失われてゆき、いつしか残った絶望だけが遥かな断崖を形成したかのようだった。足元が今にも崩れ落ちそうなほどで、いっそこのまま落ちてしまいたい。そんな気分にとらわれてしまう。

 

 気づくといつしか手の震えも止まっていた。それもそのはずで、ヴェロアの身体はすべての緊張から解放されたように全身の力が抜けていたのだから。もちろんどうすることも叶わない絶望によって。

 ぐったりとしたように身体を背もたれに委ねると、不意に重ねられていた女性の右手に力がこもる。


 女性がまっすぐな視線を向けると、それをそらす力もないヴェロアはじっと目を見つめ返す。ゆっくりと艶かしく動く唇が、スローモーションに見える。

 

「もしも……」

 

 脱力したヴェロアの身体は、何かの呪いでも受けたかのように指一本動かない。

 

「もしもワタシの仕事を手伝ってもらえるのならば、金貨1万枚はワタシが融資してあげる」

「へ?」

 

 たった一言しか口にすることのできない魔法にあてられたみたいに、そんな間の抜けた返事をするヴェロア。視線で拘束したままで、女性は強くうなづいて見せる。

 

 ルビー色した両の眼にしっかりと捉えられたまま、その言葉を脳内で繰り返し黙考する。

 長く感じた魔法のような硬直からどうにか解放され、店内をぐるりと見渡すと、そこは調度品や美術品に混じって、一体何に使うか見当すらつかない様々な物でごった返していた。

 

 女性は占い師と言ったが、店内の様子からは何でも屋の様ような印象を受ける。もちろん占いなど全く出来はしないので、出来ることは店の手伝いをするくらいだろうという考えが頭を巡る。

 今までの心の薄曇りに光明が差し込むと共に、目にも精気が蘇ってくる。

 

「やります! 僕、お手伝い頑張ります!」

 

 二つ返事でそれを決めると、その答えを聞いた女性は神秘的な笑顔を浮かべて見せた。

 

「うんうん、それでこそ男の子よぅ。男の子はそうでなくちゃね」


 女性の声がひときわ踊ると、そしてまたもやパチンと指を鳴らを披露する。それを合図にバタンバタンと音をたて、開け放たれていた窓が一斉に閉まる。

 

 何事かと、驚きと不安をにじませた表情を浮かべたヴェロアの目の前でそれは起こった。

 突然空中に青白い炎が姿を見せると次の瞬間、それが一枚の紙切れに変わる。声すら上げることも出来ずに唖然とするヴェロアには気にすることなく、女性は白く細い手でそれをつまむとヴェロアの目の前にスッと差し出した。

 

「あの、これは?」

「契約書よ」

「契約書……」

「これに名前を書いて金貨を受け取ったら、契約は成立するわ」

 

 やや口調を重みのあるものに変えてそう言う女性は、大きな瞳をギラリと輝かせると、ヴェロアにその決断を迫る。

 

「どうする? 今ならまだやめてもいいのよ?」

 

 契約書に目を落とすと、同時にドスンとテーブルの上に金貨袋が置かれる。三つの金貨袋を目にした途端、ヴェロアの腹は決まったのだ。

 

「いいえ、やります」

 

 かぶりを振ると、今までの自分が嘘であったかのように、驚くほど語気のしっかりとした返事をしていた。

 

「そう。じゃあ、後はサインをするだけよ?」

 

 夜空に浮かぶ赤い三日月の様な唇からこぼれた魔法めいた一言にヴェロアはうなづくと、目の前の契約書に筆を走らせた。

 これで入学できる。これで魔法を学ぶことが出来る。すでにヴェロアの脳内を支配しているのは、もはやあふれんばかりの希望しかなかった。

 

「これで……」

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