第2話


 中森のおおばば桜は、熊が四匹もかたまって、すいと背伸びをしたような、大きな太い幹をした古木でした。真っ黒な幹には醜怪な割れ目やよじれが縦横に走っており、灰緑のコケが、斑点のように全体を覆っています。このように醜い木肌の持ち主ではありますが、春ともなると、梢という梢に薄紅色の花が無数に点じられ、その木陰に入った者は、まるで春の女神の裳裾にでももぐりこんだのではないかと、思うほどなのでした。

 日が沈み、満月が森の上にようやく顔を出した頃、すみれは、ふらふらと迷いながらも、おおばば桜のところへやってきました。

 昨夜は、いろんなことを考え過ぎて、ほとんど眠れませんでした。どうやればクロジの心を虜にすることができるのか、そんなことを考えたり、不用意に行けば、乱暴なことをされるのではないかと考えたり、いっそどこにも行かずに、ずっと巣穴の中にいようと考えたりもしました。実際、ほんのつかの間の眠りから覚めた時は、今日は絶対この場から動くまいと考えていました。

 でも、約束の時間が近づいてくるにつれ、すみれはそわそわと落ち着かなくなりました。夕方、狩りから帰ってきた母親が、隠してある獲物をとりにいくと言ってもう一度出ていくと、彼女はもうたまらなくなり、母の後を追って外へと飛び出しました。

「おかあさん、待って!」

 すみれは、巣穴から出ると、夕闇の濃い空の下で、きょろきょろと母親の姿を探しました。でも、母親の姿はもうどこにも見当たりませんでした。

 すみれは、そのまま、しばしぽつんと立ち尽くしていました。けれど、やがて、まるで足がくにゃりと折れて、倒れ込むように、とぼとぼと歩き始めました。どこに行けばいいのか、まだ決めかねているまま……

 森を横切り、おおばば桜が見える小道まで来ると、白い月が森の上に顔を出しました。すみれは立ち止まりました。何とはなしに足が向いてしまったものの、あの大きな桜の木を見たら、突然怖くなって、歩けなくなったのです。自分の頭をひっくり返して、どこをどうひっかき回しても、これ以上進む勇気が見つかりません。すみれは、じりりと、退きました。しかし、さあ後ろを向いて逃げようと思ったとたん、すぐそばから声がしました。

「すみれ!」

 すると、二、三歩離れたところの茂みが、がさりと動き、中から大きな若い雄が飛び出しました。すみれは、あんまりびっくりして、息を吸い込んだまま凍りついてしまうかと思うくらい、全身が硬くなりました。

「よかった。もう来ないかと思った」

 若い雄は、震えるからだの中に、今にも飛び出そうとする喜びを、精一杯押さえながら、すみれを見つめています。すみれは、ごくりと生唾を飲み込みました。そして、視線をふらふらと揺らしながら、地面に目を落としました。こうなった以上、もう引き返すことはできません。すみれは、奥歯を強くかむと、覚悟を決めたように、もう一度顔をあげて、クロジを見ました。

 クロジは、その名のとおり、全身黒っぽい毛皮をしていました。前足が長くて、肩の位置が高く、しっぽが細めなので、どことなく犬に似ています。キツネの目で見ると、クロジはどう見ても美しい部類ではありません。瞳の輝きが、素直な賢さのようなものを、何となく感じさせはしますが、全体の感じは、どうしても、もっさりとやぼったく見えました。

「あの……、あたし……」

 すみれはめまいを覚えながら、消え入るような声で言いました。頭の中に、「ことわろうと思って……」という言葉が浮かびましたが、声にはなりませんでした。

「ねえ、こ、こっちに来て、座らないかい?」

 クロジは、すみれをおおばば桜の木の下へと、誘いました。

「え……?」

「さ、桜が、きれいなんだよ……」

 すみれは、とまどいつつも、何だかクロジがあまりにも一生懸命なので、しかたなく、クロジの後に従いました。月夜にけむるようなおおばば桜の花の下に入ると、夢のような香りが辺りをつつみ、すみれは、どこからかやさしい気持ちがわいてきて、まあ、少しぐらいならいいわと、思いました。

 クロジはおおばば桜の太い幹のそばに、腰を下ろしました。すみれは、遠慮がちに、少し離れて座りました。と、クロジの毛皮の匂いが、まわりの空気の中に、濃く漂いました。すみれは思わず顔を背けました。クロジの方に近い肩のあたりが、じりじりと熱く感じられました。涙が出そうになるのは、どうしてでしょう?

 時が過ぎました。ふたりは、何も言葉をかわさないまま、じっと座っていました。クロジは、落ち着かなげに、何度も頭をかいたり、きょろきょろと辺りを見回したりしていました。すみれは、ただ、じっと、うつむいていました。

「ねえ、そこらを歩いてみないか?」

 やがて、しびれをきらしたように、クロジが言いました。すみれは、はっと顔をあげて、思わず「え、ええ」と、答えてしまいました。

 クロジは、ぴょんと立ち上がると、さあ、おいでよ、と言うように、すみれを振り返りました。すみれは、おずおずと笑いながら、立ち上がりました。

 ふたりはしばらくの間、無言で歩きました。クロジが少し先を歩き、すみれは体ひとつ遅れて、従いました。時々、本当についてきているかどうか確かめるように、クロジがすみれを振り向きました。

 歩きながら、すみれはふと考えました。少しよろけて、クロジに肩をぶつけてみようか。それとも、振り向かれたとき、にっこりと笑いかけてみようか。すると、すみれは何だか、急におかしくなりました。それらのことが、みんな、子供じみたばかばかしい考えのように思えました。

(あたし、このひとのこと、好きなのかしら……)

 すみれは、考えました。今こうして、ただいっしょに歩いているだけで、何だか胸がいっぱいで、苦しいくらいです。恋というのは、こういうものなのでしょうか? 自分は、このひとの妻になるのでしょうか? でも、考えようとすると、つまずいてひっくりかえった拍子に、突然目が空にほうり込まれた時のように、頭の中がどこか知らない虚空へ飛んで、真っ白になるのです。もとより、クロジは、自分のことを、どう思っているんでしょう。結婚を申し込んでくれた時の気持ちは、今も変わっていないのでしょうか?

 クロジは、すみれにあわせて、ゆっくりと前を歩いてくれます。一度、クロジが暗い茂みの中に踏み込んだとき、すみれは一瞬、妙なことをされるのではないかと思って、体を硬くしました。でも、クロジは黙々と歩くばかりで、何も起こりませんでした。

 愛していてくれるのかしら? それとも、興味はないってことなのかしら? 暗い森を歩きながら、もやもやとした悩みにからみつかれて、すみれは何だかひどく疲れたように感じました。

 ふと、家に帰りたいという思いが、すみれの頭をよぎりました。母親の顔が目に浮かび、懐かしさに涙があふれそうになりました。こんなに母親から遠く離れてしまったのは、初めてです。母親の元に帰れば、こんな不安な気持ちからは、逃れられるでしょう……。すみれは胸の中で、繰り返しました。帰りたい……帰りたい……でも……

 眼窩に涙の玉がふくれ、すみれは地面に目を落としました。ぼやけた視界が、ぽたぽたとしたたり落ちたと思ったら、ふと白く光る月のようなものが、すみれの足元に現れました。目をパチパチさせてよく見ると、それは小さな桜の花びらでした。黒い地面に、白い花びらが一つ、落ちているのです。

「ごらん! すみれ!」

 やがて、ふと、前を行くクロジが、言いました。すみれは、思わず、顔を上げました。瞬間、まるで、眼前で音もなく光が爆発したかのように、すみれの目は、真っ白なものの中へ、吸い込まれました。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る