第3話「影を喰らう者《ラットロード》 ―繁栄の代償―」

 影喰らう王

 ラットロード


 地の底を奔る灰の波。

 腐りかけた光の下で、生は静かに増殖する。

 群れは群れを喰らい、骸は巣となり、街そのものを糧とする。

 忘れるな――繁栄の匂いは、彼らにとって祝宴の合図だ。

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 アルセィーマ地方、帝国領の一角。

 かつて商隊と職人で賑わった小都市は、今や新市街に人と富を奪われ、古い石畳とひび割れた建物だけが残されていた。


 そこを、人は「旧街区」と呼ぶ。

 昼、職人の鎚音と行商人の声がわずかに響くが、それもごく一部の通りだけだ。

 夜になると灯りはまばらで、雨水が石畳を洗う音だけが支配する。


 そのさらに下――

 地上の地図には描かれぬ、もうひとつの“街”がある。


 幾度も増築と放置を繰り返された下水道。

 古い貯水槽、使われなくなった工房の地下室、崩れた地下市場への通路。

 天井からは雨が滴り、壁には苔と黴が張りつき、ところどころで濁った水が音もなく渦を巻いている。


 そしてそこに、灰色の毛並みが満ちていた。


 ラットロード。

 この街の地下に生じた、巨大なラットの女王。

 体長は人の子どもより大きく、肩は丸太のように太く、尾は太い縄のようにのたうつ。

 その周囲には、無数のラットがまとわりつき、動き、鳴き、擦れ合う。


 一匹一匹は取るに足らない。

 だが、その目は同じ方向を向き、その耳は同じ音に震え、その歯は同じ匂いに反応していた。


 それは、群れというより“ひとつの意志”に近かった。


 その夜も、雨が降っていた。

 初夏の豪雨が幾日も続き、下水は限界近くまで膨れ上がっている。

 油と血と腐肉の混ざった匂いが、地上の路地にまで立ち上る。

 市民たちは鼻を押さえ、「古い下水が腐っているのだろう」と笑って通り過ぎた。


 笑い声の真下で、灰色の波が動く。


 先頭を走る小さなラットが、水面を切って進む。

 次のラットがその尾を踏み、そのまた次が続く。

 細い通路を埋め、壁を埋め、天井を走り、やがてひとつの暗がりに集まった。


 そこは古い工房の地下に空いた大きな空洞だった。

 崩れた梁、折れた棚、割れた瓶。

 その隙間に、骨と金属くずと布切れが積まれ、巨大な巣が築かれている。


 巣の中央で、ラットロードが頭をもたげた。

 赤い双眸が、暗闇の中でゆらりと光を撫でる。


 彼女は嗅いでいた。

 雨に混ざる人間の匂いを。

 油と革と、灯りに焼かれた鉄の匂いを。

 それは、近づいてきていた。


 地上では、帝国の下水管理局から派遣された清掃員二人と、護衛の兵士一人が、旧街区の路地に立っていた。


「ここの排水口、三日続けて溢れてる。苦情だらけですよ」

「さっさと詰まりを見て戻るぞ。雨の夜は好きじゃない」


 冗談めいた声。

 彼らは仕事として“降りて”いく。

 濡れた鉄梯子を軋ませ、暗い穴へ消える。


 足元に冷たい水。

 壁に張り付く黴の匂い。

 弱々しい灯りが揺れ、三人の影が長く伸びる。


「……ネズミの気配、多いな」

 兵士が呟く。

 清掃員の一人が笑って肩をすくめる。

「いつものことでしょう。あいつらは人の残飯が好きなんですよ」


 それは、半分だけ正しかった。


 先頭に立つ清掃員の懐中灯が、何かを捉える。

 暗がりで、黒い塊が山になっていた。


「ああ……犬か。かわいそうに」


 片耳のちぎれた野良犬が、半ば骨になって横たわっていた。

 残った肉は不自然なほど綺麗に削がれ、骨は光っている。

 腹のあたりには、まだ少し新しい血がついていた。


 次の瞬間、その骨の隙間から、細い口と光る目がぞろりとのぞいた。


 清掃員が一歩引く。

 水面が揺れる。

 灯りが乱れ、壁が動いたように見えた。


 それは壁ではなかった。

 それは数十、数百のラットの背だった。


 灰色の波が崩れ、前へ滑り出る。

 一匹が、二匹が、男の長靴に飛びつく。

 遅れて、兵士が剣を抜いた。


「下がれ!」


 斬り払う。何匹かが弾け、血が飛ぶ。

 だが波は止まらない。

 膝、腰、腕。爪と歯が布を裂き、皮膚を噛みちぎる。


 一人が足を滑らせ、濁流に落ちた。

 水面が白く泡立ち、すぐに赤に変わる。

 その上を、灰色の背が覆い隠した。


 残った二人は、梯子へ向かって必死に逃げる。

 兵士は剣を振り下ろしながら、清掃員の背を押し上げる。

 足元に、無数の歯が触れる。

 肉を食まれながら、彼は「登れ!」と怒鳴る。


 地上に手が伸び、腕が掴まれ、清掃員が引き上げられる。

 振り返った時には、兵士の姿はもう見えなかった。


 ただ、濁った水面と、そこに小さく渦を巻く灰色の陰だけがあった。


「下水崩落事故だとさ」

 翌日、酒場で誰かが言う。

「兵隊が一人流されて、清掃員が一人行方不明。運が悪かったな」

「旧街区は呪われてるんだよ」


 笑い話に、恐怖がまじる。

 だが誰も、深くは降りない。

 忙しい新市街があり、守るべき帳簿と、売るべき商品がある。


 地上は今日も、普通に回っている。


 地下では、ラットロードが巣の中央にいた。

 彼女の前には、新しく運び込まれたものがある。

 兵士の折れた剣。

 清掃員の鉄製ヘルメット。

 それらは骨と木片とともに組まれ、巣の一部になっていた。


 その周囲を、ラットたちが規則的に走る。

 円を描き、尾を振り、牙を鳴らす。

 まるで儀式のように。


 ラットロードはそれを見ている。

 彼女の目は、群れの目でもある。

 水路の先、別の排水口、路地裏の隙間、パン屋の裏口に落ちた生ゴミ。

 全ての地点が、ひとつの像を結びつつあった。


「彼らは考えていた。

 どう潜り込み、どう増え、どう生き残るかを。

 巣を護るために。

 巣を広げるために。」


 闇の奥で、小さな子ラットがひとつ鳴く。

 別の場所で、別のラットが同じ声を返す。

 その反響は、ひとつの「了解」のようでもあった。


 雨が止んだ夜、旧街区の屋根に一羽の黒い鳥が降り立つ。

 ブロッドクロウ。

 死と腐臭に敏いその鳥は、下から立ち上る匂いに細い舌を動かした。


 まだ“宴”には早い。

 だが、いつかこの街が崩れ落ちる日が来れば、

 最初にその上で輪を描くのは、おそらく自分たちだろう――と、鳥は本能で知っている。


 その時、下水の闇で、ラットロードもまた牙を覗かせていた。

 人間が垂れ流す豊かな残飯、壊れかけた建物、封鎖された通路、見捨てられた部屋。

 すべてが、彼女の群れを養う。


「人は知らない。

 自らの繁栄が、どれほど豊かな餌場を形づくるかを。

 そして、この街が朽ちるその瞬間まで――

 灰色の王は、影のまま笑っている。」


 地上の灯りがひとつ消え、またひとつ灯る。

 誰も、足元でうごめく波を見ない。

 見る必要がないと信じている。


 その信仰こそが、

 ラットロードにとって、何より甘い“祝福”だった。

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