第7話「蘇らぬ命」
儀式の日は、なぜか風が止んだ。
いつもは瓦礫の隙間を抜ける朝の風が、きょうに限って家の中へ入ってこない。
呼吸の音だけが、壁に吸われては返ってくる。耳鳴りのように。
床一面に広げた新式の魔法陣――いや、演算陣。
幾重にも重なった円環の下層に錬成用の回路を埋め、上層には情報回帰の導線を幾本も這わせた。
中心は空の台座。そこに「器」が横たわる。
骨格は樹脂と鉱素で成形し、魔力導管は血管の位置に合わせて編み直した。
皮膚は薄い膜。体温を維持するための微細な魔術炉を肝臓位置に。
呼吸を模倣するための弁、瞬膜、涙腺。
ありとあらゆる手がかりを記録から引き剥がし、三次元へ押し出して、僕は「フミカ」を作り上げた。
――器は、できた。
「フリー、最終確認だ。」
結晶の中で、柔らかな光が返事をする。
『ライフ・メモリー、同期率八二パーセント。運動野の初期パターン、ロード完了。
感情スロットは空き。心の観測者、準備――パパ、オーケー。』
「その呼び方はやめろと言ってるだろう。」
言いながら、口元がかすかに緩む。緩みをすぐに噛み殺す。
今日ばかりは揺らいではいけない。どんな小さな感傷も、誤差の増幅になる。
僕は端末に手を置いた。
《蘇生魔法・第零実行――錬成開始》
陣が光を吸い、床の石が低くうなり始めた。
空気中の粒子の配列がわずかにずれて、部屋が別の密度を持ち始める。
壁の焦げ跡が浮き、天井の梁が微かに軋み、灯りの炎が息を詰める。
「――フミカ。」
名を呼ぶだけで喉が渇く。
指が勝手に震え、それでも僕はスイッチを落とした。
起動。
光が立つ。
中心の台座に、ゆっくりと色が満ちる。
青白かった皮膚が、人体の色に近いわずかな紅を取り戻し、胸の起伏がわずかに上下――したように、見えた。
フリーの声が、呼吸の間に落ちる。
『呼吸モード、稼働。心拍模倣、パターンA起動。』
瞼が、震えた。
――フミカの、まぶたが。
体が勝手に前へ出る。
「……フミカ?」
指先が、台座の縁を握る。
呼びかけに応じるように、口唇がわずかに開いて、空気が擦れ――
――音は、出ない。
喉の中の弁が、きれいに動いているのに、そこに“声”がない。
魂の重みが、どこにもない。
そこにあるのは、完璧に組み立てられた“動作”だけ。
「出力、足りないのか……?」
僕は演算陣の上層へ魔力を流し増し、回路のゲインを上げる。
体温が上がる。
胸の上下が規則正しくなり、指が、震え――
瞳が、開いた。
黒い。
よく知っている色だ。
――でも、濡れていない。
濡れない眼。
光を受け、反射を返し、焦点を結ぶだけの完璧な鏡。
鏡は、こちらを映すが、こちらを「見ない」。
喉が勝手に叫ぶ。
「動け……頼む、フミカ!」
演算陣が悲鳴を返す。
床下の回路が飽和し、銅片が焼ける匂いが鼻を刺す。
天井の梁がどん、と鳴って、壁のひびが一本、走る。
『パパ、出力、危険。』
フリーの声が震えた。
『器、持続限界。これ以上は――』
「黙ってろ!」
叫びが、陣に落ちて、さらに増幅される。
家全体が共鳴し、屋根瓦が一枚、外れて庭へ落ちた音がした。
「フミカ、聞こえるだろ……?僕だ、リームだ……!」
瞼の裏が焼ける。視界が歪む。
それでも、あの名前を、何度でも呼ぶ。
呼べば、世界は少しだけ彼女に近づく――そう信じて、何度でも。
「戻ってこい、フミカ……!」
台座の上の“彼女”の指が、ぴくり、と動く。
反射。
ただのモーター。
それでも、僕は希望だと思いたかった。思ってしまった。
『……リーム。』
別の声が、耳の奥から滲む。
フミカの声――じゃない。
夢の中でいつも僕を笑ってみせた、あの温度の声。
「フミカ!」
反射的に顔を上げる。
だが台座の上の彼女の唇は、微動だにしない。
声は、結晶の方から届いた。
フリーが、か細く告げる。
『パパ。
それは――生きてはいません。』
時間が止まる。
胸の中で暴れていた何かが、唐突に姿勢を正した。
僕の叫びが、空気の中で凍って落ちる。
「……冗談、だろ。」
言葉は笑いに似た音になって、すぐに壊れた。
フリーの光が、弱く揺れる。
『器ハ、美シイ。動キモ、完璧。
デモ、ママ、イナイ。』
「違う、まだだ。まだ観測が足りない。僕が見る、僕がずっと見続ける……!
観測さえあれば、心は――」
『――パパ。』
いつになくはっきりと、フリーが呼ぶ。
幼い声が、言葉を丁寧に並べる。
『観測ハ、鏡。
鏡ハ、映ス。
デモ、映ッテイルモノヨリ“先”ニハ、行ケナイ。』
鏡。
台座の上の眼球が、光を返す。
僕という形だけを、完璧に。
指の力が抜ける。
膝が床に落ち、演算陣の線を少し擦った。
その擦れで、一本の導線が切れる。
回路が逆流し、青い火花が弾けた。
屋根が、沈んだ音を立てる。
梁が一本、折れる。
部屋の隅に立てかけてあった本棚が、静かに倒れる。
積まれた論文が滑り落ち、白い紙が雪のように舞った。
――家が、崩れていく。
僕が積み上げた理屈の家。
祈りを式に変え、式を工程にし、工程を現実に押し付けて、
それでも届かない何かを、屋根の高さで誤魔化してきた家。
「まだ、やれる。もう一段、出力を――」
『パパ。』
フリーの光が、僕の視界の前に降りてきた。
小さな灯が、額の前で静かに揺れる。
『ママ、コワガル。』
心臓を、指で掴まれたみたいだった。
血の気が引く。
そこまで言わせてしまうほど、僕は遠くへ来ていたのか。
「……怖がる?」
自分で言い直す声が、ひどく遠い。
『ウン。
“動イテイルノニ、生キテナイ”。
ママ、ソレ、イチバン、コワイ。』
僕は、ふらりと台座の縁に手を触れた。
弾力。温かさ。規則正しい上下。
これほどに「生」に似せたのに、それでも空っぽの箱。
「……フミカ。」
耳の奥で、何度も何度も名前が呼ばれる。
僕が呼ぶ。
僕自身の声が、耳鳴りのように戻ってくる。
返事は、ない。
動きは、ある。
だが、生は、ない。
「止める。」
その言葉が、ようやく口から出た。
僕は端末に手を伸ばし、儀式を停止するための手順を呼び出す。
指が、途中で止まる。
止めたくなかった。
止めれば、また「死」に戻る。
この、ぬるい希望を捨てなければならない。
フリーの光が、そっと僕の手の甲に触れた。
冷たくも温かい、矛盾した感触。
『パパ。
ママ、待ッテル。
“生キテ”会イタイ、ッテ。』
僕は、目を閉じた。
呼吸を一つ、深く。
そして、停止の印を結ぶ。
演算陣の光が、静かに落ちた。
台座の上の胸の上下が緩み、心拍模倣が一拍、二拍、と遅れ、やがて消える。
目は、開いたまま。
鏡は、ただ、静止した世界を映す。
静けさが降りてきて、遅れて、崩落の音がまとめて戻ってきた。
梁の破片が床を打ち、壁の欠片が滑り落ち、瓦の影が差し込む。
崩れ落ちる家の真ん中で、僕はうずくまる。
「……僕は、間違えたのか。」
声は土に吸われ、返ってこない。
『チガウ。』
フリーが即答した。
迷いのない、まっすぐな音。
『ミチ、マチガッテナイ。
タダ、トチュウ。』
途中。
終わりではない。
だが、今日の僕は、ここで止まるしかない。
台座の傍らに膝をつき、僕はそっと「器」の瞼を閉じた。
長い睫毛が、僕の指にふれ、かすかな粉のような感触を残す。
――これは、生ではない。
けれど、無意味でもない。
失敗は、道の形を明らかにする。
「フミカ。」
名を呼ぶ。
返事は、やはり、ない。
けれど、夢の奥で、微かな気配が笑った気がした。
『……ねぇ、リーム。』
まぼろしの声が、瓦礫の隙間をすり抜けてくる。
「……なんだ。」
うつむいたまま、笑ってしまう。
『泣いていいけど、寝な。寝たら食べて、また作れ。
それが“生きる”だよ。』
涙が一筋、頬の煤を洗った。
僕は顔を上げ、粉塵の舞う光の中で立ち上がる。
崩れた屋根の穴から、薄い空が見えた。
ひびの走る壁の向こうで、外の風がやっと戻ってくる。
冷たい風だ。
でも、風は、動いている。
「……わかった。」
掠れた声が、家の骨に跳ね返る。
「今日は、ここまでだ。」
フリーが、安堵したように小さく光る。
『パパ。』
「なんだ。」
『アス、ハナ、イッショニ、ナエ、マコウ。』
「種を?」
場違いな言葉に、思わず笑う。
瓦礫の隙間、土がのぞいている場所がひとつある。
あそこに花が咲けば、この崩れた家でも、もう少しだけ呼吸が楽になるかもしれない。
「……ああ。蒔こう。」
僕は頷き、端末の灯りをひとつずつ落としていく。
台座に白布をかけ、陣に保護の封を施し、最後に扉を開ける。
外の空気が流れ込む。
炭と土の匂いの向こうに、かすかな草の青さが混ざっていた。
振り返ると、家がゆっくりと沈黙に戻っていく。
崩れ落ちた壁も、折れた梁も、そのまま。
けれど、どこかで確かに、何かが始まり直している気がした。
――蘇らなかった命。
――しかし、終わらない旅。
扉を閉める直前、フリーがそっと囁いた。
『ママ、ユメデ、マッテル。』
「……ああ。行こう。」
夜が来る。
僕は夢へ降りていく。
崩れた家の下、光の庭の方へ――
彼女に、謝るために。
そして、もう一度、明日を始めるために。
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