蘇生魔法の作り方 ~君の心の傷になった私~

第1話「死者の残響」

火の匂いというものは、時間では落ちない。雨に打たれても、雪に覆われても、石の目地の奥に染み込み、何年経ってもそこから抜け出せない。

それはまるで、この地そのものが戦の記憶を拒めず、永遠に燃え続けているようだった。


崩れた魔王城の瓦礫は、冬の朝日に照らされて白く乾いている。風が吹くたび、砕けた塔の影が地面の上をゆっくりと移動する。封じの魔法陣は破断し、黒曜の床は蜘蛛の巣のような亀裂を抱えたまま冷え固まっていた。

そこに残ったのは、灰と鉄、そして静寂。歓声も嘆きもとうに遠ざかり、今はただ風が焼け跡を撫でるだけ。


――戦は終わった。世界は救われた。

だが、それは世界からたった一人を差し引いた等式にすぎない。


勇者フミカは、魔王と相討ちになった。


僕は賢者リーム。そう呼ばれるようになって久しいが、その名をくれたのは彼女だった。

彼女は異世界の転生者で、この世界の理を「技術」と呼び、魔法を「演算」と言い換えて笑っていた。彼女の武器は剣ではない。轟音を伴う金属の棒――引き金を一度引けば火薬が爆ぜ、鉛の雨が空気を裂き、魔法の発動よりも速く敵を沈める。

最初にそれを見たとき、僕は恐怖した。だがそれ以上に、その冷たい合理に心を奪われた。


フミカはいつも冗談を言い、いつも前を歩いた。戦場の只中でさえ、負傷者の手に触れて体温を確かめ、「生きてる」と小さく呟く。

効率を最優先する彼女が、唯一妥協しなかったのは“生きている”という現象そのものだった。

だからこそ、彼女の体温がゆっくりと消えていくあの瞬間――僕は、世界の冷たさを、抽象ではなく指先の現実として知ったのだと思う。


それでも世界は続いた。

魔王は滅び、止まっていた季節の歯車は再び動き始めた。王都には灯りが戻り、商人たちは値札を新しく書き換え、祈祷師は感謝の儀を編み直した。教会の鐘が救済を告げ、人々は胸に手を当てて空を仰ぎ、「これでいい」と微笑む。

そうやって、彼らは折り合いをつけていく。


――けれど僕は、その輪の外側に立ち尽くしていた。


僕の家は城門から坂を下り、川を渡った丘の上にある。家と呼ぶには程遠い。屋根は半ば崩れ、梁は黒く燻り、壁は炭のように脆くなっている。

フミカがかつて笑いながら「研究室にするならもっと換気を」と言って窓を外した部屋は、今や壁ごと吹き飛び、空がそのまま間取りに入り込んでいた。

床の隙間に詰まった灰はほうきでは取れず、拭けば拭くほど黒い水が滲んだ。


僕はそこを片付け、焼け跡の上に新たな作業台を据えた。

焦げた木の匂いと、薬瓶にこびりついたアルコールの刺激臭が混ざって、肺を鈍く焼く。

天板の上に紙とインク、古い魔導式の計算器、そして彼女が遺した金属筒――分解された銃の部品をそっと置く。触れるだけで、指先の奥に彼女の笑い声が微かに蘇る気がした。


僕は最初の一枚に、こう書いた。


《蘇生魔法の作り方第一記録》


魔法としてではなく、工程として書く。式、手順、失敗の記録。

フミカは言っていた。「再現できない知識は運だよ」と。

運に世界を委ねるつもりはない。

僕は敗北を突きつけられた設計者だ。ならば、設計し直す。それが筋だ。


紙に前提条件を書き並べる。


一、生体はエネルギーの流れで成り立つ。

二、精神活動(心)は外部刺激と内部状態の関数である。

三、魂と呼ばれるものがあるとして、それはどの階層に属するか。


ペン先が宙で止まる。

フミカの横顔が脳裏に浮かぶ。

「魂?いいじゃん、仮置きで。測れる範囲から詰めようよ」

あの明るい声が聞こえた気がして、僕は三の末尾に括弧を足した。

(仮説A:魂=高次情報パターンの持続状態)


――魔法陣を見つめる。

僕たちが「陣」と呼ぶものは、実のところ演算の図式だ。

古代は詩で、近世は祈りで、そして今は数式で表す。外周は境界条件、内側の多角形はモジュール、符号は関数の引数。

フミカは初めてそれを見た夜、「UIがださい」と笑って、ペンを取り、「あたしの世界ではこう」と言いながら、同心円をグリッドに置き換え、矢印で流れを描き直した。

戻れないほど単純で明快な構造。

あの夜、僕は初めて魔法の古さを理解した。


煤けたその設計紙は今も机の片隅にある。汚れた縁の中央にだけ、まぶしい線が残っている。

僕はそれを脇に置き、手を見た。焦げ跡の残る節くれた指。魔王城での傷は癒えたが、皮膚の下――骨でも筋でもない部分が欠けたままだ。

人はそれを「心」と呼ぶのかもしれない。


午後、王都の図書院に行き、古い錬金録を三冊借りた。老司書は僕を見ても何も言わず、ただ小さく頭を下げるだけ。

戦のあと、人々は「ありがとう」とは言っても「お気の毒に」とは言わなくなった。慰めは、過去には効いても未来には効かないのだろう。

帰り道、橋の上で子どもたちが石蹴りをしていた。笑い声は新雪のように軽く、そして、その軽さが胸に刺さった。


夜になると、家は急に広くなる。

音が、音でなくなる。水滴の音、風が壁を撫でる音、紙が擦れる音――それらが混ざり合って、かつて誰かが歌っていた旋律に似る。

僕はそうした夜の隙間で机に向かう。思考の灯を、芯だけ残ったろうそくのように燃やす。


《蘇生魔法に必要な三要素》

Ⅰ記録:対象の全情報(生体・行動・語彙・記憶の痕跡)

Ⅱ器:情報を保持・更新し得る構造(肉体の再構成/代替媒体)

Ⅲ起動:持続を開始させる触媒(外部供給/内因性発火)


書くたび、文字が冷たく震える。だがその震えの中に、焦りと祈りが入り混じっている。

科学は祈りの対極だと言う。けれど今の僕は、祈りを式に変換している。祈りを演算式に落とし込んでいる。

滑稽だ。だが、それが僕のすべてだ。


フミカは最期の夜に言った。

「あたしが死んだら、泣け。泣いたら寝ろ。寝たら起きろ。起きたら食え。食ったら作れ。作ったら壊せ。壊したらまた作れ。それが生きてるってことだよ」

言葉は覚えているのに、表情だけがどうしても思い出せない。笑っていたのか、泣いていたのか。

記録の欠落。記憶とは、最も信用できない保存媒体だ。


ペン先が止まり、視線が机の上の金属片に落ちる。

冷たい――それだけで誠実だ。僕はそれを掌で包み、温める。温度は上がっても冷たさは消えない。

心とは、温度で測れない。


灯りを消す。胸が軋む。

眠るべきだ。睡眠は思考の整流器――そう教えたのも彼女だった。

毛布に潜り、崩れた屋根越しに星を見る。煤けた空に淡く光る星々。その光は冷たいのに、なぜか痛い。


眠りと覚醒の境目で、音が遠ざかっていく。

川の音、風の音、犬の鳴き声。

やがて耳鳴りと混ざり、一本の細い線になる。

その先に――声があった。


――ねえ、起きて。


体が跳ねる。暗闇の中、崩れた家の輪郭が浮かび上がる。

けれど何かが違う。埃が薄く、焦げ跡が浅い。欠けた梁の先に、緑の蔦が絡んでいる。

夢だ、と理解しても、心臓が先に動く。


彼女は、そこにいた。


正確に言えば、彼女の“声”がそこにあった。

光が集まり、まばゆさの手前でほどけ、煙のように揺らめく。

曖昧な輪郭の中心に、確かな調子――あの癖のある語尾。眠たげで皮肉っぽい声。


「……バカ。泣いてんじゃないよ」


その言葉が、涙腺の引き金を引く。

僕は上体を起こし、声の方向へ手を伸ばす。届かない。届かないからこそ、確かにそこにある。


「フミカ……?」


声が震える。夜がそれを攫って遠くに投げる。

彼女は少し間を置いて、優しく問う。


「ねえ、リーム。生きてる?」


懐かしすぎる間合いに、喉が詰まる。

僕は笑おうとして、泣きそうになる。


「……生きてる。たぶん」


「たぶんじゃないよ」


「生きてる」


言い直すと、彼女は満足したように床をとん、と叩いた。音はしない。だが、音がした気がした。

幻聴だ。それでも、僕はその幻に救われる。


「蘇生、やるんでしょ」


「やる」


「なら、まず寝ろ」


夢は、唐突に理屈を超える。彼女らしい。

僕は苦笑し、毛布を引き上げた。

光は消え、暗闇が戻る。緑の蔦は消え、焦げ跡が戻る。

眠りに落ちる寸前、《蘇生魔法の作り方》という題が脳裏に浮かぶ。

ただの言葉だったそれが、急に体温を持つ金属のように重くなった。


夜の底で、夢の底で、彼女がもう一度囁く。


「……バカ、泣いてんじゃないよ」


僕はうなずいた。涙はもう出なかった。

代わりに、まだ見ぬ明日からの光が、ゆっくりと頬に触れるのを感じた。


明日、僕はまた書く。

前提を更新し、仮説を入れ替え、式を削り、関数を減らし、別の語で世界を記述し直す。

祈りを作法へ。感情をプロトコルへ。死を、工程へ。


生きているということを――もう一度、動詞にするために。

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