二月

 暇だ。ああ、暇だ。バイトでもしよっかななんて思う今日この頃。

 大学の一般入試も三日前に無事終わり、自分の感覚ではどの大学もいい出来だったと思う。将太のペンケースがそばにある。それが俺の気持ちを不思議と落ち着かせてくれて、気負うことなく試験を受けられた。うまくいったのは将太のおかげだ。

 ま、だからと言ってもちろん絶対大丈夫とは言い切れません。でも合格発表の日まではどうせわかんないし、結果を心配してももう終わったことだし、ってことで、俺は入試が終わってからのこの三日間、そして合格発表までのあと一週間、やることもなく暇してる。もし全滅だったらやばいけど。

 裕吾も入試はうまくいったみたいで、俺の入試がすべて終わったその日、いつもお世話になってるマックで会ってお互いを労った。だけど気になることが一つ。裕吾の様子がなんかいつもと違った。どこがと言われるとどことは言えないんだが、なんかおかしかった。

 俺らは隣駅で待ち合わせ、二人でわんわん泣きまくったマックでいつも通りのメニューを注文して席に着いた。

「どうだった、試験」

「まあ大丈夫かな。裕吾は?」

「大丈夫かな」

「なら大丈夫だな。そういえば、親父さんとはどうなの」

「ああ……まあ、もうなんも言ってはこねえけど」

「納得はしてない?」

「だろうな」

「弟君たちは?」

「元気にしてるよ。俺が医者にならねえって宣言したことがプレッシャーになるかなって思ったけど、なんでか二人とも余計な力が抜けたみたいでさ、成績は上がってるみたいだよ」

「ふうん。俺の勝手な想像だけど、裕吾がちゃんと弟君たちの頑張りに気付いてやれてたから、それで安心したんじゃないか? 自分の努力をちゃんと見てくれてる人がいるって嬉しいじゃん」

「どうだかな。ま、そうならいいけど」

「弟君たちに医者になる気があるなら、親父さんも落ち着くだろ」

「でもまだ高一と中三だからな。どうなるかわかんねえよ。俺みたいに反旗を翻すかもしんねえし」

「そうなったら親父さん大暴れだな」

「だな」

「そんときは裕吾が守ってやりゃあいいよ。家出るつもりないんだろ?」

「……」

「裕吾?」

「ああ、うん。そうだな」

「お前、大学行ったら家出るつもりなのか?」

「いや、そういうわけじゃねえけど……」

「なんだよ」

「うん?」

「なんかあんのか?」

「……いやべつに」

「おい、どうした」

「なにが」

 そう惚ける裕吾の頭ん中にはどう考えても別のことがある。そうとしか思えない。

「話せないならいいけど、大丈夫か?」

「……うん」

「……そっか。ならいいや」

 俺も裕吾も黙り込んでしまい、とりあえず目の前にあるもんを口に運ぶ。少しして裕吾がドリンクカップをこんっと置いて、バーガーにかぶりつく俺を見た。

「ちょっと、考えてることがあって」

「うん」

「でも、これは一人で答えを出したいって思ってんだ。凌に相談すれば、たぶん俺が求める答えが見つかると思うんだけど、でも、一人で考えたい。だからちょっと待ってくれ」

 まっすぐ俺を見る裕吾の目がいつになく真剣で、俺は目を瞬いてぎこちなく頷いた。

「わかった」もう一回なぜか頷いてしまう。「裕吾が、俺に話そうって思ったら話してくれ」

「うん、そうする」

 そう答えた裕吾もどこまでも真剣で、ちょっと可笑しいくらいだった。

 そんなこんなで裕吾にも連絡が取りづらくなっちゃって、結果、俺は暇なのだ。

 それにしても暇だなあ。裕吾に連絡しよっかな。先生にも会いたいし、裕吾と一緒に会いに行こっかな。だってもう三週間ぐらい会ってないんだもの。でも裕吾から連絡してくるまではそっとしといたほうがいい気もするし。あれからまだ三日しか経ってないし。うん、やっぱり連絡を待とう。

 将太に会いに行こっかな。お寺までのんびり歩きながら会いに行こっかな。

 あ、それとも先生に電話しちゃおっかな……嘘、無理。合格発表よりドキドキしちゃう。でも会いたいなあ。声聞きたいなあ。どうしよう、電話しちゃおっかな。だって言ってたもん。

 ――凌に会いたくなったら会いに行く、話したくなったら電話する。

 ――だったら凌もそうしろ。

 あれ、先生会いに来ないな、電話してこないな。ああ、そうか。べつに会いたくもなってないし、話したくもなってないのか。気付きたくないことに気付いちゃったじゃないか。ああ、でも話したいなあ。今授業中かな。いや、違う、今は昼休みだ。もうすぐ終わっちゃうけど。えええええ、どうしよう。将太に会いに行く前に電話しちゃおっかな。

 スマホを手に取り、アドレス帳から龍河先生を選んで画面に表示させた。

 この受話器をタップしたら電話が掛かる。どくんどくんどくん。この受話器をタップしたら電話が掛かる。どくんどくんどくん。この受話器をタップしたら電話が掛かる。どくんどくんどくん。この受話器をタップしたら……。

 えいやっ!

 タップしてしまったああああ!

 プルルルルル、プルルルルル、プルルルルルと聞こえて、ついでに心臓が暴れまくってる音も聞こえて、四コール目のプルルで愛しき人の声が聞こえた。

『俺と話したくなったか』

 えええ? いきなりそれ?

「……はい」その通りです。

『全然電話くんねえから嫌われたのかと思った』

「そんなわけないじゃないですか」

『会いにも来ねえし』

「いや、試験あったんで」

『ふうん』

 あれ、もしかして、拗ねてる?

 え、可愛すぎるんだけど。どうしたらいいんだ、この気持ち。

「いや、あの、違うんです。なんか、合格発表のあとがいいかなって。合格しました! って言いたいなと思って」

『ふうん』

「ほんとですよ。すごい先生に会いたいんです。今すぐ会いたいんです。三週間ぐらい先生と会えてないから、すごい寂しいんです」

『ふうん』

 おや、違うな。あの笑顔が見えるな。

 龍河マニアの俺は声のわずかな変化に気付くんだからな。なめんなよ。

「先生」

『ん?』

「先生だって全然連絡くれないし、会いに来てくれないじゃないですか」

『面倒だった』

 ぼふうううううんっ!

 いつもとは違う意味で撃沈。

「面倒って……マジで泣きそうです」

『冗談だよ』

「ほんとですか?」

『受験生の邪魔はできねえだろ』

「邪魔なわけないじゃないですか。先生ならいつでも大歓迎です」

『可愛いこと言うじゃん』

「ただの本心です。でも、電話するのすっごい緊張しました」

『なんで』

「なんだかんだ俺から電話するのはじめてなんで」

『そういやそうじゃん。俺に対する愛が足りねえな』

「溢れてますよ。とめどなく溢れてます」

『ふうん』

 おや、またですね。

『楽しみにしてるよ』

 なにがでしょう。なんとなくわかるけど。

「はい、善処します」

『あはは!』

「あの、からかうのもほどほどにお願いしますね」

『やだ』

「ですよね」

『わかってんなら言うなよ』

「はい、もう言いません」そこで時計を見ると、昼休みが終わるギリギリだった。「あ、もうお昼終わりですよね」

『ああ、そうだな』

「緊張したけど、電話してよかったです。先生の声聞いたらほっとしました」

『いつでも掛けてこい』

「はい、話したくなったら電話します」

『俺も掛けるよ』

「はい、待ってます!」

 笑みが零れる音がして、『じゃあな』と電話が切れた。

 ああ、電話してよかった。声聞いただけで元気が出るって、やっぱすごいな先生は。そうか、これが龍河マジックか。

 パワーチャージが終わった俺は、上着を羽織って家を出る。将太がいるお寺まで、てくてくのんびり歩いていった。


 合格発表日まであと四日となった日、なにか用があったわけじゃないけど、やることもないし、俺は隣駅にある駅ビルをぷらついていた。

 洋服屋を覗いたら龍河先生が着ていたのと同じタイプのシャツを見つけて買ってしまったり、本屋を覗いたら好きな漫画の新刊が出てて買ってしまったり、雑貨屋を覗いたらいっぱい持ってるのにニット帽を買ってしまったり。

 そんなこんなで、ただぷらぷらするはずだけの暇潰しで散財してしまった。これ以上ぷらぷらするのは危険だなと自分に自制をかけ、もう帰ろうとエスカレーターで一階へ下りる途中、二階のフロアに降りたとき、なんとびっくり、クラスメイトと鉢合わせ。

「あ、風丘君」

「あれ、なっちゃん」

 うちのクラスの大石なな、通称なっちゃん。高二のときから同じクラスのなっちゃん。俺が淡い想いを寄せているなっちゃん。

 なっちゃんはいつも明るく笑ってる、優しい女の子。なっちゃんの周りにはいつも友達が集まるし、話しやすいから男女問わずみんなと仲がいい。とにかくいい子なのだ。だから恋心を抱いているのだ。

 後ろから来る人の邪魔にならないようにちょっと移動する。なっちゃんは俺の手にある紙袋を見て、俺はなっちゃんの手にある紙袋を見て、二人で笑い合った。

「受験のストレスかな」

「うん、そうかも。まだ結果出てないけど、解放されてお財布が緩くなっちゃった」

「さっきまでやっちまったって思ってたけど、仲間が見つかってよかった」

「あはは! そうだね、ちょっと安心」

「うん。なっちゃんはまだ買い物続行?」

「ううん、これ以上ここにいたら破産しちゃう」

「俺も。なっちゃん帰るつもりだったならどっかで休憩しない? 歩き疲れちゃった」

「うん、いいね。私も疲れちゃった」

 どちらともなく一歩踏み出し、なっちゃんと一緒にエスカレーターに乗る。なっちゃんが前、俺が後ろ。なっちゃんと仲がいいとはいえ、恋心があるとはいえ、学校以外で会ったことはない。だから私服姿のなっちゃんははじめてだった。すごく可愛らしかった。

 なっちゃんは部活を引退するまで、キャプテンとしてバスケ部で活躍していたスポーツ少女。バスケをしているなっちゃんはものすごいかっこいいし、性格もさっぱしているから勝手にボーイッシュなイメージを抱いていた。だけど今目の前にいるなっちゃんは女の子だった。フードのついたボアブルゾンにデニム地のミニスカート、足元はショートブーツ。寒くないのかなって心配になっちゃうけど、スタイルのいいなっちゃんにはよく似合ってたし、なんてったて可愛らしい。ドキドキしちゃう。

 お茶できる店をいくつか覗いてみたものの、時間帯のせいか、どの店もいっぱいで入れそうになかった。だからテイクアウトで購入し、各フロアの随所にあるソファでひと休み。

「受験どうだった?」

「うん、大丈夫だとは思うけど、こればっかりはね。なっちゃんは?」

「どうだろう。できたほうだとは思うけど、やっぱり不安はあるよね」

「いつ発表?」

「明後日。風丘君は?」

「四日後」

「もうどうすることもできないけど、やっぱ落ち着かないよね」

「うん、だね。なっちゃんの第一はどこなの?」

「――大学。風丘君は?」

「俺は――大学」

「そっか、そうだろうとは思ってたけどやっぱり別々だね」

「うん、裕吾とも別だし、みんなここからはバラバラになっちゃうな」

「そうだねえ。寂しいけど」はあ~あ、と元気なくため息をつく。「次みんなと会うときはもうさよならか」

「実感ないけどね」

「私も」

 なっちゃんは少しだけ口を噤み、そっと俺に訊いた。

「風丘君、体調はどう? 大丈夫になることなんてないだろうけど」

「ああ……」そうか、将太がいなくなった日から学校行ってなかったもんな。「うん、気持ちは落ち着いてる。裕吾と、うちの家族と、将太の家族と、あと龍河先生のおかげで前向けるようになった」

「そっか、よかった」

 そう言って涙ぐむなっちゃんを見て、また気付く。

 そうだよな。みんなそれぞれ傷を負ってる。俺らだけじゃない。

「なっちゃん」

「うん?」

「ありがとう」

「ううん」

 微笑んで俯くなっちゃん。心がじんわりあったかくなって、穏やかな沈黙が流れた。

 少しずつだけど、抱えられるようになっている。まだ長くは抱えていられないけど、一歩ずつ進めるようになっている。俺はちゃんと、前を向けている。

「――だね」

 物思いからふと覚める。

「うん?」

「風丘君と学校以外で会うのはじめてだね」

「ああ、うん。俺もさっき思ってた。学校ではけっこう話すのに、外では会うことなかったなって」

「私服の風丘君がなんか新鮮」

「あはは! それも思った。なっちゃん普段は女の子なんだなって」

「それどういう意味?」と俺を睨む。

「いやいや、悪い意味じゃなくて、バスケしてるなっちゃんすごいかっこいいからさ、それとのギャップがね」

「ギャップ萌えしちゃった?」

「あはは! そうそう、それそれ」

「思ってもないのがバレバレだよ。そういう風丘君だって……」

「え、なに」って恐る恐る訊いても、なっちゃんは俺をじっと見るだけでなにも答えてくれない。「え、私服変?」

 うろたえる俺をなっちゃんが笑う。

「冗談。おしゃれだし、かっこいいよ」

「それはそれで照れる」

「あはは!」

 いい子だなあ、なっちゃん。可愛いなあ、なっちゃん。明るく笑うなっちゃんの声を聞いてると、俺も明るい気持ちになる。今日出かけてよかったな。

「そういえば、風丘君ってなんで龍河先生と仲いいの?」

「え?」

「さっきも龍河先生のおかげって言ってたでしょ? 先生って優しいけど、誰かを特別扱いするようなことはしないじゃん。でも風丘君のことはすごく可愛がってるっていうか、私たちに向ける眼差しとは違う眼差しを向けてるっていうか。もちろん授業中はみんな同じなんだけどさ、授業が終わるとそれがあからさまにわかるもん」

「そう?」と言いながら、否定しきれない自分がいるのがなんだか照れ臭い。

「先生と仲良くなりたいって思ってる子いっぱいいるけど、誰一人仲良くなれてないじゃん。なのに風丘君はあっさり仲良くなっちゃって、みんな怒り心頭だよ」

「なんでそうなんの。仲良くなりたいなら仲良くなればいいじゃん」

「それができないからみんな地団太踏んでるんだって」そこまで言って、なっちゃんは小さく笑った。「いつか、風丘君がどっかのクラスの子に啖呵切ったでしょ? あれはスッキリしたなあ」

 突如現れた昔話に俺は慌てちゃう。

「いや、あれはなんていうか……」

「先生ものすごくかっこいいから騒ぎたくなる気持ちもわかるけど、あれはひどかった。大変だよね、先生も」

「なっちゃんは騒がないんだ?」

「いやああああ~、あれはかっこよすぎて手に負えない。異星人に見える」

「わかるわかる」

「とか言いながら仲いいくせに」

「……まあね」てへへ。

「最初の質問に戻るけど、なんで先生とそんなに仲いいの?」

「うーん……なんでって訊かれるとうまく答えらんないけど、先生は特別なんだ。俺にとって特別な人なんだ。だからなんで仲いいのって訊かれると、ただ俺が先生を求めたからってなるかな」

「特別か……」

「うん。でも正直言えば、俺にもよくわかってないんだけどね」

「だから特別なのかも。人にしてもモノにしても、よくわかんないけど好きってのが一番だと思わない?」

「ああ……そう言われるとそうかも」

 ふふ、と笑ったなっちゃんは、なんでもないように、でもどこか躊躇うように、俯きながらゆっくりと口を開いた。

「私もさ、なんかよくわかんないけど、風丘君のこと好きなんだよね」

「…………え?」

 突然の言葉に目を瞬く。

 え? 今、好きって言った? 俺のことが、好き?

 ……マジで?

 ってことは、これは両想いってことだな? そういうことだな? まさか卒業目前に恋人ができるなんて。しかもなっちゃんだなんて……マジか。マジでか。やるな俺!

 俺が驚いてる間にも、なっちゃんは耳を真っ赤にして言い募る。俺の耳も赤くなっているに違いない。だって、めちゃくちゃ熱いもん。

「急に言われても困るよね。私も言うつもりなかったんだけど、なんか言いたくなっちゃって。だからその……うん、まあ、そういうこと」

「……マジで?」

「うん、マジで」

「それは――」

 ものすごく嬉しい、とんでもなく嬉しい。嬉しいんだけど――

 なぜか龍河先生の無邪気に笑った顔が、俺を見つめる茶色がかった瞳が思い浮かぶ。俺の名前を呼ぶ声が聴こえる。

 おいおい、なんで先生を思い出してんだよ。先生のことは大好きだし、『愛おしい』とも想う。それぐらいの愛情がある。でもそれとこれとは違くないか? 俺が先生に抱く『愛おしい』は、そういう『愛おしい』とは違うよな?

 うん? 違うよな? だって、ねえ?

 それに、先生には心から愛する恋人がいるし、俺が足掻いたところでどうにかなることじゃない。先生が俺に――ってなにを考えてるんだ俺は。先生は俺にとって特別な存在だけど、これから先もかけがえのない存在だけど――

 そう、そんなことあるわけない。先生に抱く想いはそうじゃない。

 でも、なっちゃんの告白に頷けない俺がいる。なっちゃんが恋人だったらって夢見たことあるのに、なっちゃんには好きっていう感情を抱いてるはずなのに、素直に頷けない。

「ごめん。俺、好きな人がいる」

 気付けばそう言っていた。そう言った自分に驚く自分がいた。

「そっか」想いが通じなかったってのに、なっちゃんは明るく笑った。「そりゃ残念。でも、卒業前に言えてよかった。聞いてくれてありがとう」

「ううん、俺のほうこそありがとう。なっちゃんにそう言ってもらえて、すごい嬉しい、マジで嬉しい。うん、マジで嬉しい」

「あはは! 嬉しいって何回言うの」

「いや、マジで嬉しかったから」

「そんなに喜んでくれるなら尚更伝えてよかった」

 また笑ってくれるなっちゃん。

 ああ、ほんとにいい子だな、なっちゃん。なんで俺断っちゃったんだろう。今からでも遅くないかな。俺から告ろうかな。だって、なっちゃんマジでいい子だし、可愛いし、いい子だし、可愛いし。

 でも言えない。なにかが俺を引き留める。俺も好きって言おうとする喉を、なにかが塞いで言えない。

「そろそろ帰ろっか」

「え、ああ、うん。そうだね、帰ろっか」

 なっちゃんと並んで歩き、駅に向かう。その間もなっちゃんに気落ちした様子はなく、もちろん無理してるんだろうけど、それでもいつもと変わらず笑ってくれるなっちゃんがいじらしい。

 ああ、俺やっぱり好きだな、なっちゃんのこと。

 なっちゃんは上り方面、俺は下り方面。ホームが違うから改札を入ったところでなっちゃんとはお別れだ。なんだか別れ惜しいけど、俺が断っちゃったんだからしょうがない。

「それじゃあまた学校でね」

「うん。帰り気を付けて」

「風丘君も」

「うん、それじゃ」

 背中を向けて歩き出し、たまらずため息。

 はあああああ、なんで断っちゃったんだろう。せっかく両想いだったのに、なっちゃんとなら絶対楽しくて幸せになれたのに。って思うけど、これでよかったって思ってる自分もいる。

 よかったって、なんで?

 ふと過るのは、やっぱり龍河先生の笑顔と声。

 いやいやいや、違うから。たぶんあれだ、先生にからかわれてキスしたり、抱きしめられたり、甘えられたり、そういうことされてなんかごっちゃになってるだけだ。そうだよ、そうに決まってる。

 ……そうだよな?

 気持ちが行ったり来たり。自分の想いがよくわからない。でもやっぱり思ってしまう。

 なっちゃんのことすごい好きなんだけどなあ! なんで断っちゃったんだよこんちくしょう!

 ……でも。

 と、またループがはじまる俺であった。


 第一志望大学の合格発表日。

 家にあるパソコンで大学のホームページを開き、ぽちっとクリック。

 …………。

 うおおおおおおおお! 合格したああああああ!

 よかったあああああああ! マジでよかったあああああああ!

 やばい、とんでもなく緊張した! とんでもなく手震えた! 昨日まであんなに余裕ぶっこいてたのに、みっともないぐらい緊張した!

 椅子からずるりと尻を落として、床にへたり込む。

 ああ、寿命が縮まった気がする。でもよかった。とりあえずよかった。マジでよかった。ああ、安心した。吐きそうなぐらい安心した。

 みんなにありがとうって言いたい。そのへんを歩いてる人にも、葉っぱが枯れ落ちた木にも、せっせと餌を運ぶありんこにも、この世のすべてにありがとうって抱きつきたい気分だ。

 床に手をつき身体を持ち上げて、テーブルからスマホを取る。

 父さんと姉ちゃんにまず報告しなきゃ。

〈第一合格したよ〉

 そうLINEすると、すぐに二人とも既読になってすぐにスマホが震えた。姉ちゃんからだ。

〈やった! やった! おめでとう! 今日は宴じゃあああ!〉

 というメッセージと一緒に、動物たちが踊りまくってるスタンプ。姉ちゃん自身が踊ってるように見えて笑ってしまう。ありがとう、と返信したところでスマホがまた震えた。今度は父さん。返信じゃなくて着信。

「はーい」

『凌! やったな!』

「うん、ありがとう」

『大丈夫だとは思ってたが、合格したって聞くと安心するな』

「俺も崩れ落ちた」

『お父さんは叫んじゃったよ。部下から笑われた』

「それはごめん」

『いやいや、そのまま自慢してやった。拍手喝采だったぞ』

「みんな優しい。ありがとうございますって伝えておいてください」

『うん、伝えておくよ』

 そう言う父さんの声の後ろから、父さんを呼ぶ声が聞こえた。

『すまん、凌。会議がはじまっちまう』

「うん、電話くれてありがとう」

『今日はお祝いだな!』

「姉ちゃんも同じこと言ってた」

『あはは! そうか、じゃあ決まりだな。じゃあ凌、ほんとにおめでとう。また帰ったらな』

「うん、ありがとう。仕事がんばって」

『ああ、じゃあな』

 姉ちゃんからのメッセージと父さんからの電話で、俺の興奮もようやく落ち着いた。改めて感謝の気持ちが湧いてくる。父さんと姉ちゃんだけじゃなく、俺のそばにいてくれるみんなにありがとうって思う。

 ふうっと息を吐き、仏壇の前に座る。

「母さん、大学受かったよ。びっくりするぐらいほっとした。なんか、この一年いろんなことがあったけど、おかげで少しだけ成長できたような気がする。母さん、いつもそばにいてくれてありがとね。これからもそばにいてね」

 笑ってる母さんに笑いかけ、ふうっとまた息を吐く。

 よし、次は将太だ。

 家を出て将太んちに向かう。今日はお寺じゃなくて将太んち。おじさんとおばさんにも報告したいから。

 将太の四十九日を過ぎ、おじさんとおばさんは店を再開した。店の再開を待ちわびていた人たちはほんとに多く、その人たちはみんな将太を喪ったことを嘆いて悲しんで、おじさんとおばさんを心配して労わってくれた。そしてなにより応援してくれた。もともと働くことが大好きなおじさんとおばさんにとって、店を再開し、そうした常連さんたちと交わることがエネルギーとなっているようだ。もちろん強いて明るく振る舞ってるとこはある。それでも二人が明るく働く姿を見て、俺はほっとしたし嬉しかった。

 店の扉を開けると、おじさんとおばさんの反射的な「いらっしゃい!」と言う声に迎えられた。開店時間直後ということもあり、店にお客さんは三人しかいない。

「凌君!」とおばさんがテーブルを拭く手を止めて歩み寄る。

「おお、凌君!」とおじさんがなにかを刻む手を止めてカウンターから出てくる。

「こんちは。まだ混んでなくてよかった」

「お昼ごはん?」

「ううん、今日はおじさんとおばさんに報告があって」

 それで察したようだ。二人の顔が緊張で強張るのが可笑しい。

「ちょっと待って、心の準備が」

「おいおい、緊張するな」

「お父さん、いい?」

「おう、こい!」

「第一志望、合格した」

 きゃあああああああ! うおおおおおお!

 抱きつかれて、身体が離れたかと思うと腕やら背中やらをばしばし叩かれて、もう一度抱きつかれた。嬉しくて可笑しくて、俺の笑いは止まらない。

 店内のお客さんはびっくり。ぎょっとした顔を俺らに向けている。そりゃそうですよね。お食事中、申し訳ございません。

 俺が恐縮していると、おばさんがお客さんに向かって言った。

「すみませんねえ、なんたって凌君が大学合格したって言うもんだから」

 おおおお! とお客さんから感心する声が漏れ、笑顔で拍手を送ってくれる。おいおい、おばさん。嬉しいけど恥ずかしいよ。なんて思いながらお客さんにぺこぺこ頭をさげた。

「昼飯食ってくか?」

「あ、うん。そうしようかな。でもその前に将太と話してくる」

「そうだな、将太も喜ぶぞ」

「跳ね回って喜ぶわよ」

「うん、行ってくる。お邪魔するね」

 勝手知ったる他人の家。店から家の中に入って、仏壇がある部屋へ直行。仏壇の前に座り、ろうそくに火を灯して線香に移す。りんの音がしんと響いた。

「将太、合格したよ。試験のとき、将太のペンケース持ってったんだ。これからも持ってく。だから将太も一緒だよ。一緒に大学行こう。これからどうなんのか想像つかないけど、大学生活楽しみだな。あ、そういや、まだ裕吾からなんも言ってこないんだよ。俺から訊いてもいいと思うか? 裕吾の第一志望も今日発表日でさ、まだ連絡ないけど、連絡くるかな? でもこの時間まで連絡ないっておかしくないか? あいつならすぐ連絡よこしそうなもんだけど、って言いながら俺もまだ連絡してないけど。昼飯食い終わったら連絡してみるか。裕吾なら合格してるだろうけどさ」

 仏壇に飾られた写真を眺める。満面の笑みで楽しそうな将太。なんで笑ってるのか俺は知ってる。

 高二んときの修学旅行、この写真を撮ったのは裕吾。シャッターを押す少し前に鳥の糞が裕吾めがけて落ちてきて、幸か不幸か、直撃はしなかったけど裕吾の鼻のてっぺんをかすめ、そこに白い跡を残した。それを見て爆笑する俺と将太。なんで笑ってんのかわからずシャッターを押す裕吾。そのあとすぐに理由がわかって、裕吾は空に向かって怒ってた。

 可笑しくて楽しくて、ただ純粋に笑ってる。将太の隣には同じように笑ってる俺がいる。将太の視線の先には裕吾がいる。この写真には俺ら三人が映ってる。

「なあ将太、生きるってすごいな。当たり前のように感じてたけど、生きるって奇跡なんだよな。先生の言う通りだ。生きてんなら、精一杯生きなきゃな」

 将太と目を合わせる。

「将太、ありがとう」

 少しだけその場に座り込み、「また来るよ」と将太に伝えて店に戻った。おじさんとおばさんと話しながら昼飯を食い、二人にも「また来るね」と伝えて俺は元バイト先に向かった。

 店は仕込み中でまだ開いてなかったが、裏口から入っておじちゃんとおばちゃんを驚かせ、大学に受かったことを報告した。二人とも目に涙を浮かべて喜んでくれて、近いうちに合格祝いするぞ! と相談をはじめてしまった。ありがたく厚意を受け取って日にちを決めたあと、できる範囲で準備を手伝ってから俺は家に帰った。

 裕吾からの連絡はやっぱりない。今日中に来なかったら明日俺から連絡しようと決めて、父さんと姉ちゃんの帰りを待つ。姉ちゃんから夕飯の準備はしなくていいと連絡があったからなにもせず帰りを待ってると、いくつもの紙袋を両手に提げた姉ちゃんがいつもより二時間近く早く帰ってきた。

「おかえり。っていうか、早くない?」

「午後休使っちゃった」

「ええ?」

「いいのいいの。この時期暇だし、今日やらなきゃいけないことは全部終わらせてきたから」

「あそう……」

 姉ちゃんはこういう人である。思い切ったところがあるというか、大胆というか。その姉ちゃんは洋菓子店と思しき箱と、今日の夕飯の一部になるのであろういくつものパックを冷蔵庫にしまうと、着替えるために二階へと上がっていった。気になって冷蔵庫を覗いちゃう。料理名はわからないが、うまそうな惣菜が冷蔵庫の二段分を占領し、洋菓子店の箱はなんだかおしゃれで高級そうだった。姉ちゃんの思いやりが嬉しくて、冷蔵庫の冷気に当たりながら俺はにやにやと頬を緩めた。

 父さんもいつもより早く帰って来て、その手には五人前はありそうな寿司が入った提げ袋。マジか! とテンションが上がった。その寿司は『かねや』と同じぐらい古い、駅前にあるめちゃくちゃうまい寿司屋さんの寿司。家族みんな大好きだ。

「おかえり。わーい、お寿司お寿司!」

「おかえり。早かったね」

「いつもの三倍の速さで仕事したからな。やればできるもんだ」

「これからもそのスピードでやれって言われない?」

「寝坊したときと同じだよね。あのよくわからない手際のよさ」

「ああ、なるほど」

「大丈夫だ。鬼気迫るもんがあったみたいで、みんな顔引き攣ってたから」

「あはは! そんな父さん見てみたいな」

「私もそうだったのかな」

「般若になってたと思うぞ。仕事もキリよく終わったし、部下も気を遣ってくれて早く上がらせてもらった」

「姉ちゃんは午後休使ったって言うし、なんだか申し訳ない」

「なに言ってんだ。めでたいことなんだからいいんだよ」

「そうそう、こういうときはいいの。じゃあ準備しちゃうね」

 父さんも姉ちゃんも大学に合格した俺より浮かれてる。それが可笑しくて、やっぱり嬉しい。

 テーブルの真ん中に寿司を置き、その周りに姉ちゃんが盛り付け直した惣菜が並ぶ。父さんと姉ちゃんは飲む気満々のようで、冷蔵庫にはいくつものビールとチューハイの缶、日本酒の瓶とワインボトル。それがまた可笑しくて、やっぱり嬉しい。

 母さんの前に寿司を供え、みんなで手を合わせる。それぞれが母さんと話し終わったら宴のはじまり。

 食べて食べて、飲んで飲んで、喜んで笑って、ちょびっと泣いて、家族でこんなにわいわいしたのはほんとに久しぶりだった。すごく楽しかった。母さんも笑ってる。

 父さんも姉ちゃんも俺も腹いっぱい。もう食えない。苦しみながらソファにもたれかかり、目を瞑って胃液を応援していると、父さんと姉ちゃんが俺を呼んだ。

「凌」

「うん?」

「はい。合格祝い」

 その言葉に目がぱちくりとなってむくりと身体を起こした。父さんと姉ちゃんがそれぞれ紙袋を俺に差し出している。

「ええ? マジで?」

「ほらほら、開けてみてよ」

「ええ? いいの?」

「いいに決まってるじゃないか。お祝いなんだから」

「うわあ……ありがとう」

「早く開けてよ。わくわくしちゃう」

「じゃあ姉ちゃんのから開ける。っていうか、ここのブランド――」

「いいから早く開けなさいよ」

 大きい紙袋から大きい箱を取り出してリボンを解く。箱を開けるとリュックが入ってた。色は黒、A4サイズが入るぐらいの大きさで、余計な装飾のないシンプルなリュックだけど、さりげなく見えるブランドロゴがそれをおしゃれに変えている。

「えええっ! いいの? マジでいいの? 俺マジで欲しかったんだよここのリュック! え、なに、知ってたの? 偶然?」

「お姉様の観察眼をなめんじゃないわよ」

「マジか! すごすぎる! すんごい嬉しい! 姉ちゃんありがとう!」

「そんなに喜んでくれるとは」姉ちゃんの肩から力が抜けた。「はあああ、よかった、安心した」

「喜ぶに決まってんじゃん! うわあ、やった! マジでありがとう!」

「どういたしまして。合格おめでとう」

「うん、ありがとう」

「はい、じゃあ次お父さん」

「あのさ、こんなに喜んだ姿を見てから渡すお父さんの気持ち、わかる?」

「あははは! だから先に渡したの」

「失敗したな」

「いいから早く渡してよ」

「はい、じゃあお父さんからはこれを」

 さっきはよく見えなかったけど、今はよく見える。紙袋に印字された文字を見て俺はまた目を丸くする。

「ええええええっ! マジで?」

「中見てから驚いてよ」

「だってバレバレじゃん」

「凌、そうだろうけどリアクションはとっといてくれ」

 小さな紙袋から小さな箱を取り出してリボンを解く。箱を開けると腕時計が入ってた。色は黒、スクエア型の文字盤はデジタルで、シンプルだけど十分存在感があって、とにかくめちゃくちゃかっこいい。

「うおおおおお! マジかあ! ええ? ほんとにいいの? だってこれすごい高いでしょ?」

「値段は凌が気にすることじゃない」

「いやだってさ……ええ? マジで? マジでいいの? すっっごい嬉しい!」

「よかった。同じぐらい喜んでる」

「当たり前じゃん! うおおおお! やばい、嬉しすぎる!」

「つけてみてよ」

「あ、そっか」腹の苦しさなんてどこへやら。うきうきしながら腕時計を左手首につける。「うわあ! めちゃくちゃかっこいい! 父さんありがとう! マジでありがとう!」

「なんだろうか、このどっとくる安心感」

「よかったねお父さん」

「ほんとによかった。ま、奏に選んでもらったんだけどな」

「え? そうなの?」

「お姉様の観察眼をなめんじゃないわよ」

「すごいな姉ちゃん」

「ふふん」

「二人ともほんとにありがとう。大切にする」

「うん」

「よくがんばったな」

「うん、ありがとう」

 家族でソファに脱力し、宴は終わった。


 ちょうど一ヶ月前もこうして裕吾と駅で待ち合わせた。

 将太の月命日、俺と裕吾はまた龍河先生に会うために学校に向かってる。

 昨日の朝、前の晩あれだけ盛大に祝ってもらった俺が一人いつまでも寝ているわけにはいかないから、父さんと姉ちゃんが起きるぐらいに俺も起きて、歯を磨いて顔を洗って、一緒に朝飯を食って、「いってらっしゃい」と二人を見送った。リビングに戻ると、裕吾からLINEが来てた。

〈話したいことがある。先生にも聞いてもらいたいから、明日先生に会いに行かないか〉

 ついにきた。話したいことってなんだろう、と考えたところでわかるはずもないし、どうせ明日になればわかる。それにどんなことであれ、裕吾の中で考えがまとまったってことはいいことだ。

〈わかった、駅で待ち合わせしよう〉

 そう返信して、早く明日になんないかな、なんて思いながら一日を過ごして、今日がやって来て、今こうして洋菓子店の紙袋を持って学校に向かってる。

 一ヶ月前を再現するように龍河先生は俺らを迎えると、いつものようにコーヒーを淹れに立ち上がった。だけどどこかお疲れのご様子。実際、コーヒーを淹れながらあくびをしているし、目を覚ますように目も瞬かせている。

 あれ、と思う。そういえば、先生が疲れてるとこって見たことないな。いや、疲れてはいるんだろうけど、こうやってあからさまに疲れた様子は見たことない。

「先生、疲れてませんか?」

「ん?」

「いつもより疲れの色が」

「目に見えてます」

「疲れてねえよ。寝不足が続いてるだけだ」

「それを疲れって言うんだと思います」

「大丈夫っすか? 今忙しいんすか?」

「バンドのほうがな。いろいろ最終調整してて、時差にやられてる」

「ああ、なるほど」

「じゃあ、甘いもん食ってエネルギー補給しましょう!」

「お、いいねえ」

 そんなこんなで視聴覚室。

「今日はケーキとプリンにしました。ケーキどれがいいですか?」

「先生のために買ってきたんで、先生が選んでください」

 買ってきたのは、いちごのショートケーキ、モンブラン、アップルパイ、チョコレートケーキ、プリン四つ。いちごのショートケーキはいちごがたっぷり、モンブランはすごいぐるぐる、アップルパイはりんごが溢れんばかり、チョコレートケーキはチョコだらけ。さあさあ、どれにしますか。

 箱の中をじっと見つめる龍河先生を俺らもじっと見守る。

「チョコレート」

「はい、どうぞ。裕吾は?」

「じゃあ、ショートケーキ」

「はい」

 ちょっと悩んで俺はモンブランにした。余りもんみたいになっちゃったけど、将太の席にアップルパイとプリンを置く。残りのプリン三つもそれぞれの前に置いていく。

 龍河先生はさっそくチョコレートケーキを一口大に切って口に入れた。

「うまっ」

 その感想に裕吾と笑い合い、俺らもケーキを口に運ぶ。

「ケーキもうまいっすね。甘すぎなくて」

「今頃になって見つけちゃったな」

「将太んちと同じで全部食いたくなる」

「ですね。モンブランも食いますか?」

「食う」

 もう俺は惑わされないぞ、俺だって学んでるんだ。と決意固くモンブランを滑らせて龍河先生に差し出したが、やっぱり龍河先生には勝てなかった。

「なんで、食わせてよ」

 ぼふうううううんっ!

 会う頻度が少ないせいで耐性が弱まってる。くそっ、そんな可愛く言われたら嫌ですなんて言えないだろうがこんちくしょう!

 一口分を取って差し出す。それを龍河先生は平然と口にして、「うまっ」とご満悦。この悔しさをどうにかしたい。

「先生、ショートケーキもうまそうですよ」

「はっ!」

「食う」

 待ち構える龍河先生を無視することなんてできるわけない。裕吾も俺と同じように一口分切り分け、ぎこちなくそれを差し出した。もちろん龍河先生は喜んで口に入れて、「うまっ」と至福の顔。赤い顔で裕吾が俺を睨むけど、知~らんぺっぺ。

 でも俺は忘れてた。逆パターンがあることを。

「はい」とまず裕吾にチョコレートケーキの一口分が差し出された。差し出されれば断るという選択肢は俺らにはない。裕吾は「ありがとうございます」と恐る恐る顔を近づけてチョコレートケーキを口に入れる。照れながら咀嚼していた裕吾の顔が素に戻り、「あ、うまい」と感想を漏らした。

「だろ」と龍河先生は裕吾に言って、今度は俺。「はい」

「ありがとうございます」

 何度やられてもドキドキしてしまう。これが裕吾だったらなんとも思わないんだけどなあ、龍河マジック恐るべし。なんて考えてるうちにチョコレートケーキは口に入っていて、ナッツの香ばしい風味が口の中に広がって鼻から抜けていった。スポンジの間のクリームはナッツクリームだったらしい。

「うまいな」

「うまくて我に返るよな」

「だな」

 みんなケーキを食べ終え、俺と裕吾はちょっと休憩、龍河先生はプリンを食べはじめた。

 甘いもん食ってるときの先生ってなんでこんなに可愛んだろうか。でもかっこいいんだよな。どうなってんだよこんちくしょう! なんてぷりぷりしてる場合じゃない。伝えなきゃならないこともあるし、裕吾の話も聞きたい。

「先生、第一志望の大学合格しました」

 そう報告すると、龍河先生はわずかに頬を緩めた。ほっとしたというより、そうなることがわかってたような笑み。

「おめでとう。裕吾は?」

「俺も合格しました」

「そうか、おめでとう」

 龍河先生におめでとうと言われて俺は喜んだが、裕吾は表情を硬くし、マックで見せた真剣な眼差しになって俺を見て、龍河先生を見て、もう一度俺を見た。

「凌と先生に話したいことがあります」

 龍河先生は手を止めて裕吾を見返し、俺は「なんだよ」と訊いた。

「俺、大学には行かない」

「…………は?」

「世界を旅しようと思う」

「…………は?」

 混乱して戸惑って思考回路が追いつかない。

 大学に行かない? 世界を旅する?

 ちょっと待ってよ、なに言ってんの?

 なにも言えずに固まる俺。そんな俺とは違い、龍河先生は納得したように、どこか嬉しそうに微笑んで言った。

「いいんじゃねえの」

 いやいやいや、ちょっと待ってよ。

「裕吾が今の自分に必要だと思うんなら、迷わず進んだほうがいい」

 そうなのかもしれないけど、ちょっと待ってよ。

「いろんなもんを見て、いろんなもんと出会って、いろんなもんを学んでこい。かなりきついだろうし、しんどくなってやめたくなることもあるだろうが、絶対に負けんな。成し遂げたぶんお前は成長できるし、大事なもんが見つかるはずだ」

 そんな送り出すようなこと、ちょっと待ってよ。

「はい。正直言えば、すげえ怖いし不安だし、未知過ぎてどうなるかわかんないっすけど、でも、自分が納得できるまで世界を回ってみようと思います」

 もう決まりなの? ちょっと待ってよ。

「ああ、行ってこい。応援する」

「はい――」

「ちょっと待ってよ」

 覚悟を決めた裕吾の視線が、怪訝な色をわずかに含ませた龍河先生の視線が、俺に向けられた。

「……それって、裕吾もいなくなっちゃうってこと?」

 伏せられた裕吾の目がそれを肯定している。龍河先生の視線に呆れた色が加わったように見える。

 俺だってこんなこと言いたくない。先生と一緒に応援したい。でもそれよりも大きく、俺に襲いかかってくるものがある。早く倒さないと、早く。

「母さんも将太も、先生も、裕吾も――」

 早くぶっ飛ばせ。じゃないと、言っちゃいけないことを言ってしまう。

「凌、べつに一生旅してるわけじゃねえよ。どんくらいかはわかんねえけど、ちゃんと帰ってくるし、そんときは絶対凌に会いに行く」

 目を泳がせながら、その目で裕吾を捉える。いつもふざけてる裕吾には似合わない、どこまでも真剣な眼差しは穢れがなく、裕吾のまっすぐな想いが伝わって少しだけ気持ちが和らいだ。その隣では龍河先生が俺を見つめている。でもそこにあるのは呆れなんかじゃなく、俺を信じてる表情だった。肩の力がゆっくりと抜けていく。襲ってくるものをやっつけたわけじゃないが、遠ざけることはできた。でもそれと一緒に、目の前の二人も遠ざかっていくように見える。

「ごめん、ちょっと驚いて」

「いや、俺も急すぎた」

「ううん。そっか、それをずっと考えてたのか」

「うん。この前先生が言ってたことがずっと頭に残ってて」

 ――自分から広げなきゃ世界は広がらねえ。お前らがなにかを望むなら、自分の世界を自分で狭めるな。

「俺さ、医者にはならねえって決めて、親が敷いた道から外れることはできたけど、なんか、それでもやっぱりある程度道筋ができてるような気がしてさ。大学行って勉強して、そこでなんか見つかればそれを続けて、見つかんなきゃどっかに就職して。それが悪いって言ってんじゃねえよ、それも選択肢の一つなんだから。でも俺はその道にも抗いたくなった。ちゃんと自分で世界を広げて、そこでいろんなもんを感じて、そうやって自分の道は決めてえなって思ったんだよ。じゃあどうすっかなって考えたとき、先生が例えで出した『世界中を旅してみる』ってのがふっと頭に浮かんで、離れなくなってさ。なんか、それが一番俺が望んでることなのかもって、自分でも意外なぐらい受け入れられたっていうか」

 来るな。

「うん、裕吾らしい」

「ただ、凌に会ったときはまだ迷いっていうか、自分の決断がほんとに正しいのかどうかわかんなくて気持ちが揺れてた。だから合格発表を待って、合格してたとき自分がどう思うか、それで決めようって」

 まだ来るな。

「どう思ったの」

「よかったって思った。でも嬉しくはなかった。金払ってくれた親には申し訳ないけど、でも、大学に行く自分が想像できなかった。それで決心がついて、凌と先生に話そうと思って凌に連絡した」

 頼むから来ないでくれ。

「そっか」

「大学はいつでも行ける。世界回って、回り尽くして、その結果俺には大学で学ぶことが必要だって感じたらもう一回受験するし、違うもんが見つかればそれを大事にしたい」

 どっか行けって。

「裕吾ならとんでもないこと見つけそうだな」

「そうかな。でもそうなるといいな」

 俺は裕吾を応援したいんだ。笑って言いたいんだ。

「うん、がんばれよ。俺も応援する」

 ちゃんと笑えたかな。笑えたよな。

 大丈夫、もう襲ってこない。隠れてしまえば、襲われない。

 俺は大丈夫。

「ありがとう。凌と先生に応援してもらえれば怖いもんなしだ」

「将太も応援してる」

「うん、すげえ心強い」と笑って頷いた裕吾は俺と龍河先生に話せたことでほっとしたのか、脱力して背もたれに寄りかかった。口を開いた裕吾はいつもの裕吾に戻ってた。「はあああああ、なんか、すげえ緊張した」

「なんでだよ」

「だってほら、こういう雰囲気俺には似合わねえじゃん」

「よくわかってんな。お前が真面目な顔してると具合悪いのかなって思う」

「うわ、ひどい。先生、聞きました?」

「裕吾はバカやってるのが似合ってるからな」

「先生、泣いちゃうぞ」

「いいじゃねえか、それが裕吾のいいところだ」

「それって褒めてます?」

「ん? うーん……」

「先生、泣いちゃうぞ」

「冗談だよ。底抜けに明るいのが裕吾の武器だ。世界に出たら、その武器が必ずプラスになる」

「先生、泣いちゃうぞ」

「なんでだよ」

 龍河先生が楽しそうに笑い、裕吾が嬉しそうに笑い、俺もちゃんと笑うことができた。よし、もう大丈夫。

「それにしても、俺ら卒業するまで暇だな。凌は大学受かったし、俺は旅に出るって決めたし」

「だな」

「みんななにしてんだろうな。誰かと会ったりしてるか?」

「え?」なっちゃんの顔がパッと過り、否応なく顔が赤くなる。「……いや、会ってない」

「おい、なんだその誤魔化すような言い方は」

「べつに誤魔化してなんかないよ」

「先生、凌が明らかになんか隠してます。どう思いますか」

「気に食わねえな。凌、言え」

「いやいや、なんも隠してないですって」

「凌は嘘つけねえからな」

「おい、なんで隠すんだよ。誰かと会ったかって訊かれてなんでその反応なんだよ」と言った矢先、裕吾の目がぐわっ! と見開かれた。「お前、もしや、誰かに告られたな?」

「……」なんでわかるんだこいつは。

「誰に告られた。おい、誰に告られたんだ!」

「……」

「言わねえつもりか? そんなことができると思ってんのか? 言わねえならちゅうするぞ。俺にちゅうされんのと正直に話すのとどっちがいい」

「……」

「そうかそうか。俺にちゅうされるほうがいいんだな?」

 椅子から腰を上げ、俺に近づいて来ようとするもんだから俺は慌てた。裕吾はこういうとき本気でやるつもりだ。

「わかったわかった! 言う言う! 言うから戻れ!」

「最初から素直にそうすりゃいんだよ。で? 誰に告られた?」

 あの日のなっちゃんが蘇る。

「……なっちゃん」

 裕吾の目がまたぐわっ! と見開かれる。はち切れんばかりに目一杯ひん剥いて、俺を押し倒さんばかりに見てくる。

「おいマジかよ! 両想いかよ! 結局やっぱりなっちゃん持ってくのかよ! なんだよおお! 卒業間近で彼女作りやがって! 俺を裏切るのか!」

「なんで彼女ができたらお前を裏切ることになんだよ。それに、彼女じゃないって」

「は?」

「断った」

「はああああ?」

「だから、告られたけど断ったんだよ」

「おおおおおいっ! なにしてんだお前は! だってお前、なっちゃんのこと好きかもって言ってたじゃねえか!」

「うん、そうなんだけど……」

 ちらっと龍河先生を見る。ずっと黙り込んだまま俺と裕吾のやりとりを聞いている龍河先生は、ものすごい不機嫌そうな顔で、真正面から目を合わせられないぐらい据わった目で俺を見ている。そろりそろりと顔を背けてみても、視線の圧がすごい。ぐいぐいぐいぐい圧がすごすぎて椅子から崩れ落ちそうだ。

 っていうか、なんで。なんでそんなにご機嫌斜めなの。え、なに。俺なんかした?え、なんなのよ。怖いんですけど~。

「じゃあなんで断った。まだ本気で好きじゃなくてもかなりの好意はあったじゃねえか。なっちゃんのことそういう目で見てたじゃねえか」

「うん、そうなんだけど……」ぽりぽり頭を掻く。「いや、なんて言うか、なっちゃんに好きって言われてマジで嬉しかったし、なっちゃんのことは本気で好きになってたし、なっちゃんが恋人だったら楽しいだろうなって思ったし、俺も好きって出かかったんだけど、なんか、声にならなかった」

 先生の顔がちらついてたなんて死んでも言えない。それこそなんで? ってなる。ちらついた本人に恐る恐る視線を向けると、相も変わらず不機嫌丸出しで頬杖ついてる。裕吾は呆れ果てた顔してる。

「意味わかんねえ。なっちゃんにはなんて言って断ったんだよ」

「好きな人がいるって、気付いたら口にしてた」

「好きな人?」そう呟くと、裕吾の顔に刻まれた眉間のしわが消えていき、納得顔で何度も小さく頷いた。「なるほど」

「なるほど?」

「まあ、しょうがねえか」

「は?」

「凌」と今度は龍河先生。

「はい」背筋が伸びる。「なんでしょう」

「好きな人って誰?」

「え? いや、わかんないです。気付いたら口にしてただけなんで、自分でもなんでそんなこと言ったのかよくわかりません。たぶん、断るときの常套句だからじゃないですか?」

「ふうん」と不貞腐れたように言う。それとは対照的に、裕吾はなぜか楽しそうにしてる。なんなんだよ一体。

 訳わかんなかったが、俺はとにかくこの話を終わらせたくて無理矢理話題を変えた。

「あ! そうだ! かねやのおじちゃんとおばちゃんが合格祝いしてくれるって言うんだ。再来週の金曜日なんだけど、都合よければ裕吾も来てよ」

「おう! いくいく!」

「先生も来てほしいです。合格祝いなんて言ってますけど、ただみんなでわいわいするだけなんで。父さんと姉ちゃんも来るし、将太んとこのおじさんとおばさんも来るし、常連さんも来るし、だからはちゃめちゃな感じになりそうですけど、楽しいとは思います」

「再来週の金曜か」と頭の中を覗くように考え込む。ご機嫌斜めは変わらないけど、少しは気を逸らすことができたようだ。「約束はできねえが、行けたら行くよ」

「あ、無理は禁物ですから。音楽と身体を第一に考えてください」

「ああ、そうさせてもらう」

「そうしてください」

「先生、疲れた身体には甘いもんすよ。将太の分、食べてください」

「食う食う。どっちも食う」

「身体が糖分欲してるじゃないですか」

「相当疲れてますね」

「疲れてはねえって。眠いだけ」

「だからそれが疲れてる証拠です」

「そうなのか?」

「そうですよ」

「寝不足ってことは睡眠によって疲れが取れてないってことっすからね」

「おお、なんかお医者さん一家って感じ」

「ふうん。だが疲れてはねえな」

「先生がそう感じてるならいいんですけど」

「今日はなんもねえし、明日は休みだし、問題ねえよ」

「よかった。安心しました」

「なに、心配してくれてんの?」

 うおお! いきなり出た、あの笑顔。さっきまであんなに恐ろしい目でぐいぐい圧かけてきてたのに、今はもう随分と楽しそうじゃないか。

 でも久しぶりにこの目で見たからかな、いつもより妖しく見える。俺の心臓もさっそく駆け出してるぞ。

「そりゃもちろん心配ですよ。なあ? 裕吾」

 逃げ道をと思って裕吾に振ってみたけど、裕吾は巻き込まれまいとプリンを食べはじめやがった。てめえ、この野郎。

「そういや、なんか善処するとか言ってたな」

 はっ! なんかまずい気がする。

「あああれは、そうですね。そんなこと言ったような言わなかったような」

「あ?」

「言いました」

「なにしてくれんの」

「……なんかしてほしいことがあれば」

 俺を見つめながら考えないで。その綺麗な瞳に見つめられるとどうなるか知ってますか?教えてあげましょう、心臓が爆走するんです。

 なにか思いついたのか、少し傾げていた顔の位置が元に戻った。

「凌、そこに座れ」

 示されたのは床で、示されたからには従うしかなく、俺は油が切れた機械のようにぎくしゃくと床に胡坐をかいた。

「先生、一体なにを。筋トレですか」

「違えよ」と言いながら龍河先生は立ち上がると、なんと! 俺の膝に頭を乗っけて寝転がり、目を瞑ってしまった。

 どふわばああああああんっ!

 おいおいおいおい! 膝枕! そうきたか!

 ちょっと待て、これは思いのほかすごいぞ。すごい威力だぞ。こんな角度から先生を、しかも目を瞑る先生を、こんな近くで無防備なお顔を!

 ああ、それにしてもなんてかっこいいんだ。眠ってるときもかっこいいっておかしくないですか。ふつうさ、間抜けな顔にならない? え、違うの? イケメンはならないの?

 なんて見惚れていると、龍河先生の目がパチッと開いて俺を見上げた。

 ぼふうううううんっ!

 やめて、その角度から俺を見ないで。かっこいいというか可愛いというか……エロい。びっくりして涎出そうになっちゃたから、あんまり見ないで。

「凌」

「はい」

「凌」

「はい」

「こっち見ろよ」

 くそっ。見れないんだっつーの、かっこよすぎて。でも仕方ない。

 そろりと見下ろすと、ばっちり目が合った。

 ぼふうううううんっ!

 やばい、このままじゃ俺失神するぞマジで。次はなんだ? なにをさせる気だこんちくしょう!

「足伸ばして」

「え? ああ、すいません。ちょっと頭上げてもらっていいですか」

「やだ。支えて」

 くそっ。可愛いじゃないか。支えてあげますよ、いくらでも。

 右手を首の下に入れてそっと持ち上げ、足を前に伸ばしてから太ももが頭の下に来るように尻をずらす。両手を脇についてバランスをとった。

「大丈夫ですか?」

「うん」と頷いて「裕吾」と呼ぶ。

「はいっ!」

「アップルパイとプリン食わせて」

「……はいっ!」

 ふっふっふ。裕吾、逃れられると思うなよ。

 右手にアップルパイ、左手にプリンを持って裕吾がそばに座ると、龍河先生はごろんと裕吾のほうに寝返った。

「アップルパイ食いたい」

「はい」と裕吾がアップルパイを一口分、龍河先生の口元に運ぶ。それを口に入れた龍河先生から「うまっ」と言う声が聞こえてきた。おいおい、王様か? と思ってしまうけど、可愛いから許しちゃう。

「でも先生、行儀悪いです」

「うるせえ」

「すいません」

 アップルパイを食べ終わると、龍河先生はまた仰向けになって目を瞑った。そしてそのまま数分。静かな寝息が聞こえてくる。

「先生、寝てるな」

「うん、だな」

「ほんとに疲れてるじゃん」

「忙しいんじゃねえか? 先生もそろそろ音楽再始動すんだろ?」

「……うん」

「すげえよな、マジで」

「……うん」

 少しの沈黙。

「なっちゃん、ほんとによかったのか?」

「え?」

「凌からなっちゃんのこと好きかもって聞いたとき、これは結構本気だなって感じたからよ」

「……うん」

 どう言ったもんか悩んでると、裕吾の小さく笑う声が耳に届いた。

「先生なんだろ? なっちゃんの気持ちに応えられなかった原因は」

「……うん、たぶん」

「たぶん?」

「あんとき、なっちゃんが好きって言ってくれたとき、マジで嬉しかったし、なっちゃんが恋人だったら絶対楽しいって思ったし、俺も好きだって言いたかった。だけど、なんでか先生のことが頭に浮かんでさ、そしたら勝手に口にしてたんだ。好きな人がいるって」

「そりゃあ、凌が先生のこと好きだからだろ」

「でもさ、先生には心底愛する人がいるし、そもそも俺が先生に抱いてる感情がそういうもんなのか、よくわかんないんだ」

「まあ、それもそうか。でも好きなんだろ?」

「うん、大好き。どうしようもないぐらい。自分の感情がなんなのかはわかんないけど、先生には、今まで誰に対しても抱いたことのない特別な感情があるのはたしかだよ」

「愛ってやつか? 俺にはまだわかんねえけど」

「……そうなのかな?」自分の心を覗いてみるが、やっぱりわからない。「でも、愛おしいとは思うし、愛してるってこういうことなのかなとは思う」

「それはもう、愛してるだろ」

「そうか……」

 考え込む俺に、裕吾が微笑みかける。

「人の出会いって、ほんと偶然だよな」

「うん?」

「だってよ、少しでもなんか違ってたら、俺らは先生と出会えてねえだろ。俺と凌が一年のとき同じクラスになんなかったら、友達になれてねえじゃん」

「うん」

「偶然っていうか、奇跡に近いな」

「うん」

「俺は、この高校に入ってマジでよかったって、心底思うよ。凌に出会えて、将太に出会えて、先生に出会えて、たくさん楽しいこともあって。辛いこともあったけど、三年間、マジですげえ楽しかった」

「うん」

「ここで起きた奇跡は、これからも大切にしなきゃな」

「うん」

「凌」

「うん?」

「相談しなくて悪かった」

「え、なに急に」

「凌のこと考えずに、一人で突っ走っちゃったから」

「なんで? 謝ることじゃないだろ。裕吾はなんも間違ってない。裕吾の未来なんだから俺に相談する必要はないし、裕吾が納得できる答えを見つければいいんだよ」

「そうなんだけど……いや、そうだな」

「うん、そうだよ」

 すると、裕吾がどこか恥じるように笑った。

「正直言うと、マジですげえ不安。先生が言ってたみたいに、なにかしら躓くことがあったり辛いことがあったり、たぶんうまくいかねえことばっかだと思う。俺が思い描いてるようにいくわけねえ。頭ではわかってても、どんなことになんのか想像することすらできねえ。だからすげえ怖い」

「うん」

「だから凌に相談したら、凌がなんて言おうが、俺はそれに寄りかかっちまうって思ったんだ。凌だから、寄りかかりたくなっちまうんだ。でもそれじゃダメだろ? それじゃなんも変わんねえもん。だから凌に相談できなかった」

「うん」

「ありがとう、凌」

「なに、また急に」

「しばらく会えなくなる分、言い貯めしとこうかなと思って」

「なんだよそれ」

 はあああ、と裕吾が大きく息を吐き出す。

「すげえ不安だし怖いけど、行くって二人の前で宣言しちゃったしな。もう行くしかねえ」

 その言い草が裕吾らしくて笑ってしまう。

「うん」

「凌も先生も応援するって言ってくれたし、なにより凌が俺の帰りを待ってくれてるからな、情けねえ姿で帰ってくることはしねえ。でかい男になって帰ってくるから、待ってろよ」

 やっと心から笑えた。まだ疼いてるけど、ちゃんと笑える。

「うん、待ってる。大男が帰ってくるの」

「怪物みたいな言い方すんなよ」

「だって怪物じゃん。世界回るなんてすごいことだよ。俺には真似できない。ほんとにすごいと思うし、その道を選んだ裕吾を尊敬する」

「やめろやい。泣いちゃうぞ」

「なんでだよ」

 俺と裕吾で笑い合い、あたたかな沈黙が落ちる。少しして裕吾が言った。

「どうなるんだろうな。俺も凌も、先生も。楽しみだな」

「うん。でもなんか、明るいことしか想像できない」

「わかる。先生たちのバンドはすげえことになりそうだし、凌は夢叶えそうだし」

「先生たちのバンドがすごいことになるのは決まってるよ。どこの国のどんな人が聴いても、絶対に惹き込まれて夢中になって、絶対大好きになる。だってすっっっごいかっこいいんだもん」

「そうだな、未来が見えたな」

「うん。でも俺はわかんないよ。夢は見つけたいけど、まだわかんない」

「俺もわかんねえけど、凌ならやりたいことを見つけて、それがちゃんと夢に繋がりそうだなって思うだけだ」

「そうなれば嬉しいけど」

「でもあれだな、先生たちのバンドが大人気になったら、遠い存在になっちまうのかな」

 膝ですやすや眠る龍河先生に視線を落とす。

「遠い存在にはならないよ。会えなくなるかもしんないけど、遠くにはならない。約束したんだ、そばにいるって。先生がどこにいようと、俺は先生のそばにいる」

「……そうか」

「うん。会えなくなるのは寂しいし、本音を言えば絶対やだ」

「あはは! そりゃそうだ。俺だってやだよ」

「先生と親しくなった人はみんなそう思うんだろうな。不思議な人だよ、ほんとに」

「だな。先生のすごさは言葉じゃ言い表せねえよ」

「ほんとそれ」

「いつだったか将太も似たようなこと言ってたけど、凌と先生はほんとに特別ななにかがあるよな。それも言葉じゃ言い表せねえけど、二人がすげえ強く惹かれ合うことは自然っていうか、決まってたっていうか」

「……うん、そんな感じかも。こんな風に言うとちょっとクサいけど、ずっと昔から先生と出会うことを待ってたような気がする。理由なんてないんだ。勝手に心が先生を求めて、与えられるとすごく幸せになる。隣にいるだけですごく安心する。敬愛、友愛、親愛、最愛、そんないろんな愛情が溢れてくる。ただ好きなだけ、ただただ、愛おしい」

 考えるよりも先に手が動き、龍河先生の髪を撫でていた。

「もしこの先会えないとしても、その想いは変わらない。先生はずっと俺の特別なんだ」

 ふふっと聞こえて顔を上げると、呆れた顔で裕吾が笑ってた。

「やっぱり凌は先生を愛してるんだな。今のはどこからどう聞いても愛の告白だぞ」

 もう一度視線を落とし、目を瞑る龍河先生を見つめる。

 言葉は自然と零れ、その言葉に想いがこもった。

「うん、愛してる」

 そう伝えた途端、龍河先生の口元がゆっくりと綻んでいく。

「え」

「まさか」

 龍河先生の茶色がかった瞳が開かれて、俺を見る。

 だからその角度やめてって。っていうか、スーパーミラクル恥ずかしいんですけど! っていうか、どこから聞いていやがった!

「お、お、起きてたんですか?」

「途中から」

「どこから」

「言わねえ」

「ちょっと、教えてくださいよ。ものすごい恥ずかしいじゃないですか」

「なんで。俺はすげえ嬉しかった」

 さっきまでの不機嫌はどこへやら。幸せ、喜び、そういった感情を顔いっぱいに広げてる。裕吾は口元を隠して笑いを堪えてる。

 そりゃそうだよ、ぺらぺら喋ってたの俺だもん。裕吾は恥ずかしいこと言ってないもん。ああああああ、顔が燃えるほど恥ずかしい。

「凌」

「はい」

「こっち見ろよ」

「無理です、今は」

「なんならこのままキスしていいぞ」

「なっ! にを言ってるんですか。しませんよ」

「なんだよ、冷てえな」

「起きたなら起き上がってください」

「やだ」

 即拒否。

 龍河先生はごろりと寝返って俺の腹に顔をくっつけると、腕を腰に回してぎゅっと抱きしめた。

「先生」

「ん?」くぐもった声が聞こえる。

「プリン食いますか?」

「あとで食う。今はこれがいい」

 可愛くて、嬉しくて、愛しくて、笑みが零れる。

「好きなだけどうぞ」

 そう言うと、ぎゅうっと抱きしめられた。

 まったく、可愛いんだから。そして今、心底思う。

 ちゃんと鍛えておいてよかったあああ! ぷよぷよの腹じゃ恥ずかしいもん。偉いぞ俺、これからも筋トレ続けるぞ俺! 体形の乱れは心の乱れだ!

 満足したのか、それから少しして龍河先生は起き上がり、プリンをぺろりと平らげた。立ち上がるのが面倒で地べたに座ったまま五時まで和気藹々とし、真ん中に龍河先生、右に俺、左に裕吾、三人並んで駅までの道を歩く。

 あと半月も経たないうちに俺らは卒業する。そうなればもう別々の道だ。こうやって並んで歩くこともなくなる。いつかまた並んで歩ける日が来るかもしれないが、裕吾も龍河先生も世界に飛び立って、いつ帰ってくるのかはわからない。

 今の俺らにあるのは『いつか』という言葉。不確かだけど、それでも『いつか』がある。そう信じるしかない。縋るしかない。

 でも『いつか』はきっとあるって、なんとなくそう思った。

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