十一月

 十一月最初の金曜日。

「先生んとこ一旦寄っていい?」

「うん。ん? 一旦?」

「今日先生が母さんを見舞ってくれるんだ。だから一緒に帰る」

「マジか! なんかドキドキすんな」

「なんで」と笑う将太。

 将太の告白から約一週間。将太はいつもと変わらないし、だからもちろん裕吾はなんも気付いてないし、俺はたまにこっそりにやけながら心あたたかく見守っている。

 英語準備室のドアをノックしてから中を覗くと、ペンを動かしていた龍河先生の顔が俺らに向いた。ペンを置き、「行くか」とすぐに立ち上がって廊下に出てくる。

「校長許してくれたんですか?」

「ああ」

「自由ですね、校長は」

「そういう人だからな」

 そう言う龍河先生の顔は優しかった。

 何度も乗ってる電車がまるで雲の上のようだ。龍河先生と電車に乗る日がくるなんて。俺を真ん中に挟み、右に龍河先生、左に将太、三人がシートに座って、裕吾は龍河先生を隠すように俺らの前に立っている。なぜなら龍河先生のイケメンっぷりに視線が集まってしまうから。ちらちらと見てくる人、堂々と見てくる人、コソコソと耳打ちし合う人。学校内ではだいぶなくなってきたからもう気にしてなかったけど、龍河先生はいつもこういう視線に晒されているんだった。だが、ここでも龍河先生にそういう不躾な人たちを気にする様子は微塵もない。

 さすが先生、そういうとこもかっこいいです。大好きです。

 シートは全部埋まっており、だから隣の人と密着している。ってことは龍河先生とも密着しているし、顔も近い。俺の左半身はいつも通りだけど、右半身はドキドキしてる。

 ごめんね、将太。こればっかしはしょうがない。からかいだったとはいえ、あんなことをされて言われてまだ一週間。俺の鼓動はちょっとしたことで跳ね上がっちゃうんだよ。まったく、罪な男だぜ。

「おばさん、最近どう?」

「うーん、疲れやすくはなってきてる。食欲も落ちてるみたいだし」

「そっか」

「でも明るいよ。そう振る舞ってくれてるだけなんだろうけど、いつも笑ってる」

「すげえな。俺だったら怖くてたまらねえ」

「凌の母親も恐れてるに決まってるだろ」

 俺らの顔が龍河先生に向く。

「死を恐れねえ生き物なんていねえ。命を擲ってなにかを守ろうとする者も、命を喪うことに躊躇いはなくても、死は恐ろしい。死を受け入れることと、死を恐れることは別物だ。凌の母親は、家族のために、自分のために笑ってる。俺にはそう思える。だから凌、凌も凌の家族も、母親以上に死を恐れちゃいけねえ。一番恐れてるのは母親本人なんだから」

 龍河先生の言葉をしっかりと胸に刻んで、俺は頷いた。

「はい。俺は、最期まで笑って送りたいって思ってます。ぎゃんぎゃん泣いたとしても、ちゃんと笑ってたいです」

 龍河先生は俺の想いを噛み締めるように微笑むと、俺の頭にぽんっと手を乗せた。

 母さんが入院する施設は、いつも使ってる駅の隣駅が最寄り駅である。裕吾が一番先に電車を降りて、三つ駅を過ぎて将太が降りて、その次の駅で俺と龍河先生は電車から降りた。駅から歩いて十分ぐらいで施設に到着する。何度も来てるから看護士さんとは顔見知りになっているが、受付で記帳する際、受付にいた看護士さんのどの顔も、恵みの雨が降り注いだように潤って輝き、日頃の疲れが癒されていくかのように柔和な表情に変わっていった。

 わかるわかる、俺の後ろにいる人きらきらしてるもんね。とんでもなくかっこいいもんね。お仕事ご苦労様です。

 エレベーターで三階まで昇って、廊下を少し歩いて、ちょっぴり緊張しながらドアをノックする。そっとドアを開けて中を覗くと、母さんはいつもと同じように少しだけ起こしたベッドに横たわっていた。

 ドアの開く音で母さんの顔が動く。俺を見て微笑み、後ろにいる龍河先生に気が付いて微かに首を傾げ、少ししてその目を見開いた。母さんに龍河先生を連れてくることは内緒にしてたから、母さんのその反応に俺は笑ってしまう。

 俺と龍河先生がベッド横まで近づくと、母さんは見開いた目のまま龍河先生を見上げて訊いた。

「もしかして、龍河先生?」

「はじめまして」丁寧に一礼する。「龍河です」

「やだ、凌。連れてくるなら言ってよ」少し顔を赤らめて俺を詰り、恐縮するように身を縮めて龍河先生をまた見上げた。「こんな見苦しい格好ですみません」

「いえ、どこも見苦しくなんかないですよ。こちらこそ急に伺ってしまって申し訳ありません」

「いえいえいえ。あの、凌の母です。凌から伺っております。いつも凌が大変お世話になっているようで、ありがとうございます」

「はい、可愛がらせてもらってます」

 さらっと笑って言う龍河先生に、母さんの表情が綻ぶ。

「どうぞ、お掛けください」

 母さんにそう言われ、龍河先生はベッド脇に置いてある椅子に腰かけ、俺はベッドに尻を乗せた。母さんはまだ少し戸惑っていて、でもどこか嬉しそうで、そのごちゃ混ぜの感じが可笑しくて、俺は堪えきれず声をあげて笑った。

「ごめん母さん、ちょっと驚かせたかったんだ」

「ちょっとどころじゃないわよ。もう、ほんとにびっくりした」

「ほら、母さん先生に会ってみたいって言ってたじゃん。だから先生にお願いして来てもらったんだよ」

「お会いできたのは嬉しいけど……」息子の所業を詫びるように頭を下げる。「わざわざ来てくださってありがとうございます」

「俺もお会いしてみたかったので、こうしてお会いできて嬉しいです」

「そんな嬉しいことを……照れちゃう」

 白い顔にほんの少しだけ赤みが差している。おお、さすが先生。母さんもこんな顔するんだなと、親の見てはいけない姿を見てしまったようでなんだかこそばゆい。

「でもお忙しいでしょうに、凌が無理言ったんじゃありませんか?」

「いえ、職場にいてもすることないですし、喜んで伺わせていただきました」

 ふふふ、と母さんが小さく笑う。

「えっと、先生は今年赴任されたんですよね?」

「はい。一年間だけ臨時教員として」

「本業は音楽をやられてるとか。すごくかっこいい音楽なんだって、凌から聞きました」

「はい、最高にかっこいいですよ」

「じゃあ今度凌に聴かせてもらいます」

「ぜひ聴いてみてください」

「たしか、この一年が終わったら、しばらく海外に行かれるんですよね? 凌が寂しがってました。どのくらいで帰ってくるんだろうって。どのくらい会えないんだろうって」

 どう答えたらいいのか迷うように、龍河先生の顔にわずかな戸惑いの色が浮かんだ。母さんはそれを見て、恥じらうようにちょっとはにかむ。

「すみません、ぺらぺらと。凌から先生のことはこれでもかってぐらい聞かされてるので、なんだか初対面な気がしなくて」

「いえ」と微笑んで、ちらっと俺を見る龍河先生の顔にはあの笑顔。

 おおおおい、やめてくれ、母さんの前ではやめてくれ!

「どんなことを聞かされてるんですか?」

「母さん、言わないで」

「凌、うるせえ」

 うううう。俺なに言ったっけ? 聞かれて照れくさいこと言ってないよな? 母さんにはそんなこと言ってないはず。

「最初に言われたのは、すごい人がいるって。この世のものとは思えないぐらいかっこいい人だって」

「へえ」とまた俺を見る。やめて。

「考え方とか生き方とか、外見だけじゃなくて内面も全部かっこいいって」

「へえ」と笑顔を広げて俺を見る。見ないで。

「それから――」

 ――先生の言葉に何度も救われて、自分が間違ってることに気付かせてくれて。先生と知り合ってまだ半年ぐらいなのに、なんでかすごく惹かれて、先生は俺にとってすごく大切な人なんだって、すごく特別な人なんだって、根拠はないけどそう思えてならないんだよね。

 ――芯が通ってて、正しい。どうやったらあんな風に生きられるんだろうって、先生と出会ってからずっと思ってる。ほんとにすごいんだ、先生は。

「先生と出会ってからの様々なことを教えてくれました。こんなことを言ってくれた、こんなことをしてくれた、こんなことに驚かされた。あと、しめじが苦手とか、機械音痴だとか」

「おい、凌」

「すいません」

「ふふ。でも、どの話をするときも凌は本当に楽しそうです。心から先生のことを慕ってることが伝わります」

「それは――」またちらりと見て、今度はただ微笑む。「すごく嬉しいですね」

「せっかくいらしてくださったんだから、凌のこといっぱい訊いちゃおうかしら」

「母さん、ほどほどにお願いね」

「俺が答えられることはなんでも答えますよ。ただ、疲れたらすぐに仰ってください。それが条件です」

 その気遣いに母さんはそっと笑った。

「はい、お約束します」一つ頷き、考えるように視線を上げる。「じゃあ、まずは、凌は勉強についてけてます?」

「そこから?」

「そりゃそうよ。もうすぐ受験だし、親としては気になるの」

「凌は優秀ですよ。理解力だけじゃなくて学ぶ力があります。自分が苦手に感じてることを克服しようと常に努力してますし、なにより、わからないことをわからないと素直に言えることが素晴らしいと思ってます。俺は、凌に教えることが楽しいですし、凌が学んでくれることが嬉しいです」

 やばい、恥ずかしい。けど嬉しい。でもやっぱり恥ずかしい。けど嬉しい。

 俺の心が行ったり来たりしちゃってる。でも待てよ、もしかしてこれがずっと続くのか? いや、でも先生は正直だから、目の前に親がいようがダメなとこはふつうにダメ出ししてくるだろうし、これは心しておかないとやられる可能性あるな。よし、心臓兵、総員配置!

 母さんはほっと頬を緩めて俺を見ると、すぐに龍河先生へ視線を戻した。

「安心しました。じゃあ次は、先生から見て、凌のダメなところはどこですか?」

 そう訊かれて龍河先生は笑みを零す。

 それはどういう笑みですか、と訊きたくなるが我慢我慢。

「ダメなところ、という訊かれ方をされると、ダメなところは一つもないというのが俺の答えです。凌は、自分の弱さと、自分に足りないものを知っています。それらをダメなところだと言う人もいるでしょうが、俺はそうは思いません。凌はそれらを認めて、受け入れて、前を向くことができてるんです。だから俺は、凌にダメなところは一つもないと思ってます。ただ――」

 またまたちらりと俺を見て、いたずらっぽく笑う。嫌な予感……。

「凌の好きじゃないところはあります」

「なんでしょう」と母さんは窺うように訊くが、なぜか楽しそう見える。

「凌にも伝えてるんですが、一人で勝手に怯えて、俺を不快にさせます」

「先生、それは誠意対応中です」

 険のある雰囲気じゃないし、俺と龍河先生からいつもの感じがプンプン出てるからか、母さんは笑いながら訊いてくる。

「どういうことですか?」

「俺を想っての行動なんでしょうが、気を遣うということを履き違えてるんです。俺の感情を勝手に決めつけて、自分を抑えてしまう。それは俺を想ってるんじゃなくて、自分が傷つきたくないがために自分を抑えてしまってるだけなんです。もちろん意図的にではなく、無意識にですが。だから凌には、自分が大切に想う人に対して、勝手に負の感情を抱かせるなと言ってあります」

「なるほど、そういうことですか。でもたしかに、そう言われるとその通りですね。私も無意識的にしてしまってます。気を付けないと、先生に嫌われちゃいますね」

「はい、やられたら遠慮なく叱りますよ」

「ふふ、お願いします」

「あとは、好きじゃないところではないんですが、心配なことが一つ」

「心配なこと?」

「はい、たまに授業中に奇声を発するんです」

「え?」とぽかんとする母さん。

「先生、それは、ほんとにすいません」

「それこそどういうことですか?」

「一つのことに集中しすぎて、気持ちが余所に行ってしまうようですね」

「いや、母さん。その、たまに突然なにかを思い出すことってあるじゃん。それがすごく大切なことだったりすると『はっ!』ってなるじゃん。それでつい声が出ちゃうんだよ」

「授業に集中してねえってことだろ」

「すいません」

 謝る俺を見て、母さんと龍河先生が笑う。

「次やったらぶん殴っていただいて構わないんで」

「わかりました」

「えええ?」

「じゃあ次は、先生にとって、凌の好きなところはどこですか?」

「たくさんありますよ」と即答してくれる。

 うわ、嬉しい。なんだろう、どこだろう、ドキドキしちゃう。

「素直でまっすぐで一生懸命で、バカ正直で泣き虫で、間違ってることは間違ってると言えて、自分の想いをちゃんと言葉にできて、友達のことをなによりも大切に想っていて、家族を愛していて、自分のことも愛そうとしていて、凌は人から愛されるし、人を愛することができます。それは、誰にでもできそうでできないことです。俺は凌のこと、全部好きですよ」

 どふわばあああああああああんっ!

 心臓兵、持ちこたえろ!

 このままベッドに倒れ込みたい。手足をバタバタさせて喜びを爆発させたい。でもそんな姿親に見せられないから我慢我慢。ああ、先生、俺も先生のこと全部好きです!

 緩んでしまう頬を引き締めてると、鼻を啜る音が聞こえてきた。見れば、母さんの目が少し潤んでいる。

「先生にそう言ってもらえて、母としてすごく幸せです」もうひと啜りした母さんは、龍河先生をまっすぐ見つめる。「じゃあ最後に、先生にとって、凌はどんな子ですか?」

「特別な存在です」

 当たり前のように言ってくれたその言葉に俺は驚くばかりで、龍河先生を呆然と見つめた。

「教師という立場で言えば、凌を含め、どの生徒も俺にとってはただの生徒です。ですが、一人の人間として言うならば、凌は俺にとってすごく大切で、特別な存在です。なぜそう感じるのかは正直わかりません。本能、直感、そういうものとは少し違って、自然と心が凌を求めてしまう、そんな感じです。自分の人生に不可欠な存在、失いたくないと強く思う存在、ただそこにいて欲しい存在」

 少しだけ遠い目をした龍河先生は、ふっと小さく口元を緩めてから母さんに目を向けた。

「俺には、大切に想う人がたくさんいます。その人たちがいてくれたから、今の俺がある。だから、その人たちも凌もまったく同じ、大切な存在です。どっちが上だとか下だとか、そうやって比べたりすることは絶対にないですし、できません。ただ、凌という存在を特別に感じてることはたしかです。難しく考えないのであれば、凌が愛おしい。ただそれだけです」

 自分の中に生まれるこの感情はなんだろう。嬉しいでもない、幸せでもない、それを超えた感情。

 あっという間に視界がぼやけ、いつの間にか涙が零れていた。そんな俺を茶化すこともなく、母さんと龍河先生は優しく微笑んでいる。

 ああ、やっぱり似てる。顔とかじゃなくて、纏ってるものが似てるんだ。温もり、優しさ、匂い、そういう俺を包むものが似てるんだ。

 母さんからティッシュを受け取り、溜まった涙を拭う。母さんは俺に笑いかけて、龍河先生に笑いかける。

「先生、凌は幸せ者です。自分が大切に、特別に想う人に同じように想ってもらえるなんて、本当に幸せ者です。こんなに幸せな姿を見られて、本当に嬉しい。私はもうすぐ死んでしまうけど――」

「母さん」

「凌、いいの。もちろん、凌が成長する姿も、凌が感じる幸せも、凌が選んだ道も、この目で見て、この耳で聴いて、この手で触れたい。でもそれはもう叶わないことなの。お母さんはもうすぐ死ぬ。でも、こうして凌の幸せを感じることができて、お母さんは今、すごく幸せ。すごく安心した」

 そんなこと言わないでよ。まるで最期みたいじゃないか。違う、最期じゃない。だから泣くな。泣いたらダメだ。

「凌」と呼ばれて顔を上げると、母さんの慈しみに満ちた瞳に包まれた。震える唇を結び、締め付ける喉を唾で押しやり、瞬きを繰り返す。母さんは笑顔を広げて言った。

「凌は大丈夫」

 抑えきれない。俯いて、手のひらで目を擦って鼻を啜る。声を出すために喉を動かし、一つだけ頷いた。

「うん、大丈夫」

 ほっと小さく息を吐き出した母さんは、龍河先生に身体を向けた。

「先生、凌のこと、見守ってやってください。どうか、よろしくお願いします」

 細い背中を折り曲げて母さんは頭を下げる。龍河先生は壊れ物に触れるような手つきでその肩に手を掛けて身体を押し戻し、母さんの瞳を間近に見つめた。

「どこにいても、俺は凌のそばにいます。必ず」

「ありがとうございます」と、心から安堵した表情でもう一度頭を下げる母さんの肩を、龍河先生はそっと押しやってベッドに横たわらせた。

「お疲れでしょう。もう休んでください」

「はい、ありがとうございます」

「今日はこれで失礼しますが、なにかあれば遠慮なく呼び出してください」

「ふふ、ありがとうございます」

 龍河先生は労わるように母さんに笑いかけ、俺を振り返った。

「行くか」

「あ、はい。じゃあ母さん、また来るね」

「うん、気を付けて帰るのよ。ちゃんとごはんも食べてね」

「うん、わかった」

「先生もお気を付けて」

「はい」

「本当に来てくださってありがとうございました」

「お話しできて楽しかったですし、お会いできて嬉しかったです」

「こちらこそ」

「母さん、ゆっくり休んでね」

「失礼します」

 俺は手を振って、龍河先生は一礼してから部屋を出た。

 施設を出るまで言葉はなかった。少しして、龍河先生の声が夜を迎えた空に静かに響いた。

「愛情深い人だな」

「はい、すごく」

「来てよかった」

「え?」

「凌の母さんに会えて、本当によかった」

「……はい。母さんも今頃、先生に会えてよかったって、そう思ってます」

 龍河先生の足がゆっくり止まった。それに合わせて俺の足も自然と止まり、一歩後ろにいる龍河先生を振り返った。龍河先生はじっと俺を見つめている。

「先生?」

 首を傾げた俺に龍河先生は一歩近づき、俺の腕を取ると自分のほうへと引き寄せた。少しだけ力を込めて俺を抱きしめ、首筋に顔をうずめる。

「悪い。少しだけ」

 その声は微かに震えを帯びていて、俺はただただ戸惑った。抱きしめられているのに、俺が抱きしめているようだった。俺の腕は自然と持ち上がっていて、気付けば龍河先生をぎゅっと抱きしめている。それに応えるように、龍河先生の腕が、手が、俺を包み、甘えるように頬を押し当ててくる。

 龍河先生がさっき言ってくれた愛おしいという言葉。俺ははじめて、誰かを愛おしいと思った。十歳離れた大人の人を、泣きたくなるほど愛おしいと思った。

 すごく長い時間に感じたけれど、実際は一分もなかったと思う。俺を包む腕が緩み、龍河先生の身体が離れていく。自嘲気味に微笑む龍河先生は寂しそうだった。

「悪い、助かった」

「いえ」

 いつもと変わらない足取りで龍河先生が歩き出す。

「どっかで飯食ってくか」

「あ、はい! 腹減りました」

「なに食いたい?」

「うーん。あ、将太んとこ行きます? それか俺のバイト先」

「将太んとこにするか」

「はい」

 龍河先生はさっきと同じ笑みを浮かべる。

「凌んとこが嫌だってことじゃねえよ。今日は酒飲むとやばそうなんだよ」

「腹いっぱい食いたいんで、将太んとこのほうが嬉しです」

 電車の中でそうしたように、龍河先生の手が俺の頭に乗っかった。

 将太んちに行くと、案の定、大騒ぎ。

「あら先生! 凌君!」

「こりゃ先生! 凌君も!」

「また来てくれるなんて!」

「先生にまた食ってもらえるなんて嬉しいなあ!」

「しょーーーーーたーーーーー!」

「どうぞ、奥。どうぞどうぞ」

 パタパタと足音がして将太が現れて、また固まった。

「ほら、将太。あんたも一緒に夕飯食べちゃいなさい」

「そうだな。ほら、奥に案内して」

 混乱した様子のまま、きょろきょろと俺と龍河先生を見る。

「え、え、ど、どうしたんですか。おばさん見舞ってたんじゃ」

 賑やかだ。きっと龍河先生の気分も少しは晴れるだろう。

「今行ってきた。腹減ったから将太んとこで飯食おうってなってさ」

「そうですか。それはどうも、うちを選んでくださって」

 その言い草が可笑しくて、俺と龍河先生は声を上げて笑った。

 この前と同じ席に腰かける。奥の壁側に俺、その隣に龍河先生、俺の正面に将太。席に着いたのを見て、おばさんが水を運んできた。

「いやあほんとにねえ。先生がうちの味気に入ってくれて嬉しいです」

「うまいですから」

「先生にそう言ってもらえて、商売やっててよかったわ」

「お母さん、俺レバニラ。先生はなににしますか?」

「うーーーーーーーーん、サバの味噌煮でお願いします」

「それうまいですよ」

「マジか」

「マジです。俺はね……あ、ほっけにしよ」

「ほっけか……凌はいつも俺の決断を揺るがすな」

「そんなこと言われても。じゃあ分け合いましょうよ」

「凌、だから好きだよ」

「照れるからやめてください」

「俺の前でいちゃいちゃするのやめてください」

「やだ」

「あっはっは! なんだか仲良くていいですねえ。じゃあ、レバニラと味噌煮とほっけですね。すぐ用意しますからちょっとお待ちくださいね」

「手伝うよ」

「いいよいいよ。将太も待ってて」

「うん、ありがとう」

 それから少しして注文した料理と一緒に、ほっけ、サバの味噌煮、卵焼き、からあげ、冷奴、山芋の天ぷら、がんもどきの煮物、たことわかめの酢の物が運ばれてきた。白飯はもちろんてんこ盛り。

「お母さん、またこんなに」

「来店二回目のサービス。いっぱい食べてくださいね。ごはんおかわりできますから」

 いや、だからそんなサービスやってないだろ。

 俺も将太も呆れるように笑うが、龍河先生は嬉しそう。

「ありがとうございます」

「ほかにも食べたいものあれば遠慮せず仰ってくださいね」

 店内は混みはじめている。おばさんは龍河先生ににっこり笑いかけてから、ほかのお客さんのところへ注文を取りに行った。

 飯はうまいに決まってる。ほっけは脂がのっててふわふわで、サバの味噌煮は少し甘めの煮汁が染みて白飯に合う。この煮汁だけで白飯二杯は食える。作ってくれたもの全部うまい。うまいうまい言いながら、三人で全部平らげた。

「やっぱうめえな」

「ありがとうございます」

 将太がお礼を言ったところで、今度はおじさんがお皿を下げにやってきた。

「お父さん、先生がやっぱりおいしいって」

「そりゃ嬉しいなあ!」

「ほんとにうまいです。全部のメニュー食いたくなります」

「ぜひ食ってください。腕によりをかけて作りますよ」

「凌ちゃんは全部食べたんじゃない?」

「うん、食った。全部うまい。俺が一人で来たときもいろいろおかず出してくれるけど、おじさんが作るのは全部うまい」

「凌君までそんな嬉しいこと言ってくれちゃって」

「ほんとのことだもん」

「嬉しいなあ、ありがとうね。先生、ゆっくりしてってくださいね」

 店内は満席。おじさんも忙しそうにカウンターの中に戻っていった。

「あ、そうだ。先生、まだおなか余裕ありますか?」

「あんまねえな」

「アイスぐらいは食べれますか?」

「食える」と顔を輝かせて即答。

 ああもう、なんでそんなに可愛いのかなあ。最近スキンシップが多かったせいだろうか。ああ、抱きしめたい。

「凌ちゃんも食べれる?」

「うん、アイスなら」

「バニラとチョコと抹茶と、あとなんだっけ……あ、ストロベリーだ。どれがいいですか?」

「俺チョコ」と龍河先生。

「俺はバニラ」と俺。

「わかった。ちょっと待ってて」

 そう言って将太は自宅のほうへ駆けて行き、数分で戻ってきた。その手には、高校生の俺には手が出せない、働いてる人でも気軽には買えない値段のアイスクリーム。

「それ高いやつじゃん」

「うん、この前知り合いから貰ったんだけどさ、うちの親こういうのあんまり食べなくて、消費を手伝ってくれるとありがたい」

「喜んで」

「そういうことならありがたく頂くよ」

 蓋を開けて中蓋を剥がし、龍河先生はアイスを放置する。

「なにしてんですか」

「少し溶かしたほうがうまいんだよ」

「へえ、じゃあ俺もそうしよ」

「俺もそうする」

 三人で喋ってるうちにアイスの淵が少し溶けてきた。龍河先生は嬉しそうにスプーンで掬って口に入れる。

「うまっ」と至福のご様子。

 ああもう、なんでそんなに可愛いのかなあ。ああ、やっぱり抱きしめたい。

 可愛い龍河先生に癒されながら、俺も将太もアイスを口に含む。少し溶けてるからなのか、口の中でじんわりと滑らかに溶けていった。

「おいしい」

「うまいな、こりゃ」

「高いだけあるよね」

「凌、それ食いたい」

「ああ、はい」

 俺は手元のバニラアイスをスプーンで一口分掬い、それを龍河先生に差し出した。でもってハッとすると同時に身体中に血液が駆け巡った。

 俺はなんてことを当たり前のようにやってるんだ! 完全に感化されてる! 俺はこんなことをさらりとやってのけられるほど世慣れた男じゃないぞ!

 龍河先生は少しだけ首を伸ばし、俺が差し出したスプーンを口に入れた。もちろん照れるなんてことはなく、口に入ったバニラアイスを味わっている。

「うまっ」とまた幸せそうな顔して言って、今度は自分のチョコアイスを掬って俺に差し出してきた。こうなったらもう逆らえない。

「ん」

 誰かさんとは違って、盛大に照れながら差し出されたスプーンを咥える。うん、甘い。甘くておいしい。

「うまいだろ、チョコも」

「はい、とても」

 ああ、恥ずかしい。おじさんとおばさんに見られてませんように。でもこういうのも嬉しいと思ってしまう俺。どうかしてるな俺。

「なんかさ、凌ちゃん、先生と感覚が似てきてるよね」

「え? そんなこと、ない、はず」いや、ちょっとあるかも。

「だって今、ふつうに食べさせてあげてたじゃん。あの頃はあんなに恥ずかしがってたのに」

「今だって恥ずかしいわ!」血管破れそうだわ!

「なんだ、将太も食いたいのか。早く言えよ」

「え! なんでそうなるんですか!」

「はい」

「ええ!」

 将太の前にチョコアイスが乗っかったスプーンが差し出される。こうなったら逃れられないことは将太も知っている。顔を真っ赤にして、将太はぎくしゃくと首を伸ばしてスプーンを口に入れた。

「うまいだろ」

「……はい、とても」

 アイスを食い終わった頃、俺らのテーブル横まで四、五歳ぐらいの男の子が何度かやってきた。俺らに懐いてるわけじゃない。奇声に近い声を発しながらドタドタと走ってきては親の元に戻り、また走ってきてはまた親の元へ戻るという、その子にとっては楽しいのであろう遊びをしはじめたのだ。でも可愛いなと思える子供の声じゃなく、うるさいなと感じてしまうような声だったし、なにしろ混雑してる店内で走り回るのは危ないし迷惑である。俺は思わず親のほうを見てしまう。子供の親は友達らしき女と喋っていて、その声もけっこううるさいんだが、自分の元に戻ってきた子供に視線は寄越すもののほったらかしの状態。

 おじさんもおばさんもこういう客は好きじゃない。黙ってないだろうなと思ってると、案の定、おばさんが親の席に近づこうとしていた。だがその前に、俺の隣に座るかっこいい人が黙っていなかった。

「うるせえよ」

 またやってきた子供の腕を掴み、子供を見下ろして言う。こうなった龍河先生の眼光は俺らでも恐ろしいんだから、四、五歳の子供からしたら悪魔のように見えるだろう。子供の顔がみるみる歪んでいく。こういうことには敏感な親が目を吊り上げて突進してきたが、龍河先生の超絶イケメンな顔を見て取り繕うように顔を作り直した。だけど今さら笑顔を振り撒くわけにはいかないようで、果敢にも龍河先生に突っかかってきた。

「ちょっと、うちの子になにするんですか」

 おお、その勇気は買うが、このイケメンには勝てませんよ、絶対。

「あ? うるせえからうるせえっつったんだよ」

「子供なんだから少し騒ぐぐらい仕方ないでしょ」

「少し? あんたの少しはだいぶ寛容だな」

「なっ――」

 店内は静まり返っている。誰もがこの二人のやりとりに注目していて、おじさんもおばさんも突然のことに手を止めて突っ立ったままだ。

「あんたのガキが転んだことが原因で誰かが怪我したらどうする。もしくは転んだガキのほうが打ち所悪くて死んだらどうする」

「そんなこと――」

「ないって言い切れるか? ガキがすることは全部親の責任だろ。ガキが誰かに迷惑かけるってことは、親がその誰かに迷惑かけてるってことなんだよ。なにがいいことなのか、なにがいけねえことなのか、それは親が教えなきゃなんねえことだろ。親がサボれば、サボった分だけガキは苦労しなきゃなんねえんだよ。躾けってのは周りの人間のためにするもんじゃねえ、ましてや親のためにするもんでもねえ、ガキ自身のためにすることだろうが」

 自分の親を思い出す。うちの親は厳しかった。誰かを傷つけたり、間違ったことをしたり、言ってはいけない言葉を口にしたりすると、そりゃあもう小便漏らすほど怒られて、喉がはち切れんばかりに泣き叫んだ記憶がこびりついてるし、姉ちゃんがこっぴどく叱られてる光景も記憶に残ってる。

 でもそのぶん優しかった。誰かに親切にしたり、一生懸命になったり、素直にお礼を言ったり謝ったりすれば、くすぐったい気持ちになるぐらいちゃんといっぱい褒めてくれて、笑って抱きしめてくれた。自分で言うのもなんだが、俺はそこそこちゃんとしてると思う。

 そうか、そうだよな。それは父さんと母さんのおかげだよな。ちゃんと怒ってくれて褒めてくれて愛してくれて。きっとどれも欠けちゃいけない、子供にとってすごく大切なことなんだ。

 さっきまで騒いでいた子供はぽかんとした顔で龍河先生を見上げている。親は居心地悪そうに、それともなにか言い返せないかと考えているのだろうか、視線をあちこちに彷徨わせている。

 そこのお母さん、なにも言わないほうがいいですよ。言ったところで玉砕ですから。

「あたしだって躾けぐらい――」

 あちゃぱ~。言っちゃった。

「どこが。店の人が忙しく立ち働いてるとこにガキほったらかして、自分はでけえ声でくだらねえ話して、自分の至らなさを指摘されりゃあみっともねえ言い訳して、お前自身の躾けがなってねえから自分のガキの躾けもできねえんだよ。自分の手抜きを棚に上げて、偉そうに人を詰ってんじゃねえよ」

 お母さん、引き下がりましょう。先生の言ってることは至極真っ当。店内の人たちが、下手したら店自体が、赤べこみたいに首を振っているように見えるのは俺だけだろうか。

 そこにおじさんの声。

「お姉さん、申し訳ないけど、退店していただけますか。うちとしても周りのお客さんのこと考えられない人はお客さんとは呼べないんでね」

 それが決定打だった。その親は顔を真っ赤にしながら子供の手を引いてテーブルに戻り、手荷物を手早くまとめてお友達と一緒に店から出て行った。

 店内のお客さんから、おじさんと龍河先生に拍手が送られる。誰もがすっきりした顔で食事を再開すると、おじさんとおばさんが俺らのところにやってきた。

「先生、ありがとうございました。ほんとなら私らが真っ先に注意しないといけなかったんですが」

「本当にありがとうございました」

「いえ、俺は思ったことを言っただけですから」

 入口のほうからおじさんたちを呼ぶ声があった。「はーい!」とおばさんが返事をして、龍河先生に向き直る。

「それじゃあ、ゆっくりしてってください。なにか食べたいものあれば作りますから」

「はい、ありがとうございます」

 おじさんとおばさんの背中を見送って、将太がぺこりと頭を下げた。

「俺からもありがとうございました」

「礼を言われるようなことはしてねえよ」

「いえ、俺たちにとってはありがたかったんです。先生、アイス食べませんか?」

「食う」

「どの味にします?」

「ストロベリー」

「すぐ持ってきますね」

 嬉しそうにテーブルから離れる将太がなんだか可愛らしくて、俺も龍河先生も笑みを零してしまう。そうやって笑う龍河先生に少しだけほっとした。

 微かに震えた声、俺を抱きしめる腕、頬から伝わる熱。どれもが切なくて、苦しかった。俺が知ってる先生は優しくて強い。だけどあのときの先生は、脆くて弱かった。

 なにが先生をそうさせたのか。母さんと会ったことで、先生になにが起きたのか。訊くつもりはない。いつか話してくれるといいなって思うだけ。今こうして、見慣れた先生の笑顔が横にあるなら、今はそれでいい。

 会計悶着ふたたび。わずかな押し問答の末、今回の勝者は渡真利家!

 さっきの騒動のお礼をしたいからお代は頂けないと、またもちゃっかり龍河先生の手を握るおばさんと、世話になった人から金は貰えませんと、男気全開で首を振るおじさん。いやでも、と渋る龍河先生に、土下座しますから! とおじさんが膝を曲げたため、龍河先生もついに折れた。

 渡真利家に見送られて駅までの道をゆっくり歩く。駅まで来る必要ないと龍河先生に言われたけど、嫌ですと断った。

 駅の改札に着き、俺は迷った末に言った。

「先生」と足を止めて呼ぶと、龍河先生も足を止めてくれる。

「ん?」

「俺はまだガキだし、先生のためにしてあげられることなんてたかが知れてます。でも、先生が俺に言ってくれたように、俺も、先生のそばにいることはできます。先生がなにかに寄りかかりたいなって思ったなら、なにもできないけど、支えることぐらいはできます。だから――」

 だから、なんなんだろう。俺はなにを言いたかったんだろう。

 俺が先生に伝えたいことは――

「先生は、一人じゃありません」

 見惚れてしまう優しい笑顔が目の前にある。もう何度目だろう、龍河先生の大きな手が俺の頭を包み、俺は抱き寄せられる。龍河先生の匂いが届いて、俺は安心する。龍河先生は俺のこめかみにキスを落とすと、唇をつけたまま耳元で囁いた。

「ありがとな」

 穏やかで愛ある声。

 そう、今はこれでいい。少しでも支えることができたのなら、俺はそれ以上望まない。言葉では尽くせない感情が俺を満たしていく。

 少しの間、龍河先生は俺の頭に頬を預け、最後にもう一度こめかみにキスをしてから身体を離した。頭を包む手はそのままに、俺の目を覗き込むようにして微笑みかける。

「また明日」

「はい」

 龍河先生の温度が完全になくなって、龍河先生の姿が完全に見えなくなって、それは遅れてやってきた。

 公衆の面前で俺はなにをしてしまったんだ。抱きしめられて、こめかみだったけどキスされて、しかも二回も、まるで別れを惜しむ恋人同士みたいなサヨナラをして。

 ああああっ! ここは地元だぞ! 誰か知り合いに見られてやしないか! あんなイケメンと、将太風に言うならいちゃいちゃしてるとこなんて、もし見られてたらものすごく恥ずかしいじゃないか! 照れるじゃないか! 俺絶対間抜けな顔してたぞ! 呆けた顔しちゃってたよ嬉しくて!

 ああ神様、誰も見てませんように。どうか、どうかあああ!


「俺抜きで飯を食っただと?」

 目を見開き、裕吾はその表情だけで俺と将太に迫ってくる。俺と将太は身体をのけ反らせながらポテトを掴んだ。そう、今日も三人でいつものマック。

「急遽将太んちで飯食うことになってさ」

「呼べばいいだろ、俺を。将太んち行くまでに時間あっただろ」

「時間つっても十分二十分だよ?」いや、三十分はあったけど言えない。

「俺だってまさか来るとは思ってなかったよ。いろいろ急だったんだからしょうがないじゃん」

「将太はいいよな、結局一緒に飯食えたんだから」

「言わなきゃよかった」

「だね」

「で? 先生はなにを食ったんだ」

「サバの味噌煮」

「うまかったあ」

「なんでお前が食ってんだよ」

「単品で出してくれたんだよ」

「そういうことか」

「先生かっこよかったんだよ」

「よし、聞かせろ」

 将太が店での騒動を語って聞かせ、裕吾は腕を組んで目を瞑り、頷きながらそれを聞く。お前はどこかの老師か、と突っ込みたい気持ちをぐっと堪える。

「さすが先生」

「子供が可哀想だったけど、すっきりしちゃったよね」

「あれで少しは改めてたらいいけどな」

「それはどうだろね」

「ほかには? 先生の話をもっと聞かせろ」

「あとはいつも通りな感じだよ。凌ちゃんといちゃいちゃしてたぐらいで」

「将太、語弊があるぞ」

「またいちゃいちゃか」

「おい、二人してなんだよ」

「どんないちゃいちゃだ。またちゅうか」

「食べさせ合いっこ」

「ああ、あれか。あの一気に心臓抉られるやつか」

「今回は凌ちゃんからやってたけどね」

「はあ?」

「違う、言わせてくれ。俺のこの腕が勝手にスプーンを差し出してたんだよ。決して率先してやったわけじゃない」

「無意識が一番怖いよね」

「そういう将太だって食わせてもらってたじゃん」

「ついに将太も?」

「あれはビビった。親の前であんな……」

「それは、うん、お察しするよ」

「そうか、じゃあ昨日はちゅうはなかったのか」

「ないよ」

 と即答してみたものの、帰り際のことを思い出してしまう。こめかみに残る唇の感触と、耳に残る少し掠れた声。

 俺をからかってしたことじゃないからか、思い出すとこの前のキスよりドキドキしてしまう。そもそもああいうことを恋人以外にしていいのだろうか。俺だから大丈夫だけど、あんなことされたらふつう勘違いしちゃうよ? それとも勘違いしていいってこと? まったく、困った人だ。

「裕ちゃん、これはなにかあったと思われます」

「だな。おい、吐け」

「あ? なんもないって。一切ない」

「先生の言う通り、凌ちゃんは嘘が下手だねえ」

「ああ神様、凌が友達に嘘をついています。バーガーの肉を抜いてやってください」

「それはやめて」

 いつものマックでいつものくだらない会話。相変わらず裕吾はふざけてて、将太はにこにこしてる。結局大笑いする俺も変わらない。

 そして龍河先生ももちろん変わらない。何回抱きしめようが、何回キスしようが、まったく変わらない。

 授業のときはチャイムと同時にやってきて、教卓の後ろに立つとさっとクラスを見渡して、授業をはじめて、チャイムが鳴る少し前に授業を終わらせて、さっさと教室から出て行く。

 放課後訪問のときはこれといった感情も見せずに俺を見て、俺は龍河先生のすぐそばに腰かけて、喋るか勉強して、一回はあの笑顔が咲く。将太と裕吾がいてもこれといった感情も見せずに俺らを見て、マグカップにコーヒーを満たしてから視聴覚室に移動して、喋るか勉強して、一回はあの笑顔が咲く。

 龍河先生は相変わらずかっこいいし、おしゃれだし、スタイルいいし、声もいいし、とにかく全部かっこいい。

 そう、まったく変わらない。悔しいぐらいに変わらない。

 変わっていくことは一つだけ。

 母さんが着実に弱っている。日々少しずつ、近づいている。


 祝日の前日、水曜日の五限目。いつもの龍河先生が教室に入ってくる。

 今日の龍河先生は、白シャツにブラウンの丸首ニットベスト、ボトムスは黒のチノパン。

 ああ、今日もかっこいいなあ。なんでそんなにかっこいいのかなあ。先生のお友達のお店に俺も行ってみたいなあ。俺もおしゃれになれるかなあ。なんて夢想してるうちに授業がはじまった。

 十分ぐらい経った頃、教室のドアがノックされて担任が顔を見せると、俺に視線を寄越した。

「風丘。先生もよろしいでしょうか」

 きた、と思った。たぶん、将太も裕吾も同じだと思う。

 少しだけ教室の空気がざわつき、俺は立ち上がって廊下に出た。龍河先生もそのあとに教室を出る。

「風丘、お母さんが危篤になられたそうだ。すぐに向かえ」

 担任の険しい顔が見える。

 なにを言われるかわかっていたのに、担任の言ってることもちゃんと理解できてるのに、俺は自分がどうすればいいのかわからなくて、なにも言えなくてなにもできなかった。

「風丘?」

「先生、申し訳ないのですが、凌の荷物を取ってきていただけないですか?」

「え? ああ、はい。わかりました」

 担任が教室に入ると、龍河先生の手が俺の頬に触れた。「凌」と呼ばれ、俺は瞬きをする。

「はい」

「笑顔で送るんだろ?」

 そう、そうだ。そう、そう。心の中で何度も頷いていると、自分も小さく頷いていた。

 担任が廊下に出てきて俺のリュックを手渡してくれる。

「ありがとうございます」

 もう一度、俺の頬にそっと触れる龍河先生の手。

「凌、行け」

 夢から覚めたような感覚になり、一気に俺が全部戻ってきた。「はい!」と答えて、なにかのスイッチが入ったかのように俺は駆け出した。

 高校から駅まで全力疾走し、電車の待ち時間と電車に乗ってる時間に焦れ、駅から施設までまた全力疾走。息が激しく切れて、喉は血の味がする。

 施設に着き、記帳もせずに母さんの部屋へと走る。誰も咎めない。

 部屋のドアを開けると、父さんと目が合った。その途端、父さんが泣き崩れた。目を真っ赤にして涙を拭うこともせず、ベッドの脇に座り込み、声を押し殺しながら頭を支えるようにして泣き続けている。部屋には父さん以外誰もいない。ベッドの周りが妙にすっきりしていて、おかしいなって思った。

 ゆっくり近づくと、母さんは目を閉じていて、まるで眠っているようで、だから俺は「母さん」って呼びかけた。手に触れて、もう一度「母さん」って呼びかけた。だけど目を覚まさなくて、眠ったような顔はとても穏やかで、そこでやっと、母さんはもう目を覚まさないんだって気が付いた。

 笑って見送るはずだったのに、間に合わなかった。ありがとうって言いたかったのに、間に合わなかった。大好きだよって伝えたかったのに、間に合わなかった。

 本当だ。後悔がいっぱい生まれる。

 もっと母さんと一緒に過ごせばよかった。もっとありがとうって言えばよかった。もっと大好きだよって伝えればよかった。もっと母さんを笑わせたかった。もっと母さんのためにいろんなことをしたかった。もっと母さんを幸せにしたかった。もっと、もっと、もっと。

 でも、少しは伝わったかな。俺がどんだけ母さんを想ってるか、伝えられたかな。どう? 母さん。

 俺は母さんの頬に触れ、笑った。

「母さん、俺は大丈夫だよ」

 もういいよね。ちゃんと笑えたよね。だからもう、泣いていいよね。

 ぽたぽたとベッドのシーツに涙が落ちる。もうなにも見えない。涙はシーツを濡らし続け、涙も鼻水も垂れっぱなし。悔しくて、悲しくて、寂しくて、恋しくて恋しくて、俺はただただ泣いた。

 父さんが俺を抱きしめる。強く強く抱きしめられて抱きしめて、俺も父さんもお互いが抱える感情を分かち合うようにして縋った。

 遅れて姉ちゃんがやって来ると、姉ちゃんは声にならない声で泣き続けた。残された家族は抱き合って、支え合った。


 通夜には将太と、おじさんとおばさんが来てくれた。おばさんはずっと泣いていて、おじさんは涙を溜めながらおばさんの肩を抱き、将太は何度も目を擦って俺を抱きしめた。

 あんな風に泣くことはもうなかったけど、突然なにかが込み上げてきて涙が零れることはあった。それでも俺の心は落ち着いていた。いっぱい泣いたからなのか、それとも母さんがいなくなってしまうことを知っていたからなのか、気持ちが沈み込んでしまうようなことはない。ただ、母さんがもういないことはわかっているのに、いないということがよくわからない。俺の中でなにかが立ち止まってる。

 通夜の翌日は葬式で、たくさんの人が来てくれた。母さんの友達、父さんと姉ちゃんの職場の人、近所の人、おじさんとおばさんもまた来てくれて、平日だというのに将太と裕吾も来てくれた。担任の姿を見つけ、わざわざ申し訳ないなと思ってると、そのすぐあとに龍河先生の姿が見えた。

 あ、と思った。

 黒いスーツに身を包んで、黒いネクタイを締めて、いつも見るラフな格好のときとはまた違う凛々しさあって、喪服ってあんなにかっこよかったっけ、とこんなときなのに龍河先生に見惚れてしまう。

 龍河先生が祭壇まで歩いてくる。俺ら家族に一礼して焼香を済ませると、目を瞑って合掌、そしてもう一度俺ら家族に一礼した。身体を起こした龍河先生の目が俺を見て、静かに離れていく。ほんの一瞬のこと。頷いてみせるでもなく、微笑みかけるでもなく、ただまっすぐに俺を見ただけ。それだけで、ずっと凪いでいた俺の心にさざ波が立った。

 涙が頬を伝う。堪えきれなくて嗚咽が漏れた。一度超えてしまった感情は止められなくて、自分でもどうしてこんなに涙が溢れてくるのか不思議でならない。両手で顔を覆い、膝に肘をついて蹲る。姉ちゃんの手が俺の背中を優しく擦ってくれる。鼻を啜る音が重なって、父さんの腕が俺と姉ちゃんをまるごと抱きしめた。

 正直、泣き疲れた。火葬場で母さんが煙に変わっていく間、俺は壁にもたれかかって目を閉じていた。隣では姉ちゃんが俺の手を握ってくれている。目を瞑っていても涙は溢れ、こめかみを、鼻筋を濡らし続けた。

 小さくなった母さんと一緒に家に帰る。

 母さんが入院してからずっとこの家に母さんはいなくて、だからなんも変わらないはずなのに、すごく静かだった。ずっと暮らしてきたこの家が、母さんを喪ったことを悲しんでくれているようだった。

 父さんはお骨をそっと置き、そっと触れ、一つだけ息を吐く。

「二人とも、疲れただろ」

「お父さんが一番疲れたでしょ」

「うん、ごめん。なんも手伝えなくて」

「なに言ってんだ。そんなこと気にしなくていい」

「お父さん、少し休んで。横になるだけでもいいから」

「大丈夫だ。奏と凌こそ、少し休んでおいで」

 俺と姉ちゃんは顔を見合わせると、姉ちゃんは父さんの腕を引っ張って、俺は父さんの背中を押して、寝室に連れていく。

「おいおい、ほんとに大丈夫だって」

 えいや! と父さんをベッドに放り投げる。

「いいから。ちゃんと――」姉ちゃんの声が詰まった。「ちゃんと、お父さんも寂しがっていいんだよ。お父さんとお母さんが仲良かったの知ってるから、お父さんだって泣きたいでしょ。私たちはいっぱい泣いたから」

「うん、俺らはもう大丈夫。今度は父さんの番」

「夕飯は凌と一緒に準備しておくね」

「行こう、姉ちゃん」

「うん」

 今にも泣きだしそうな父さんを部屋に残し、俺と姉ちゃんはリビングに戻った。リビングに戻って、二人で泣いた。


 忌引きで休める日数はまだあった。でも家にいてもすることないし、そろそろ期末だし、俺は学校に行きたかった。将太と裕吾と、龍河先生と話したかった。これまでと変わらない生活を送ることが、なによりも大切なことに思えたから。

 教室に入ると将太も裕吾もやっぱりまだ来ておらず、俺より先に来ていたクラスメイトは労わるような視線を向けながらも、いつも通り挨拶してくれた。少しして将太が教室に入ってきて、俺を見つけるなり顔を歪めながら駆け寄ってきた。

「凌ちゃん、なんで来てんの」

「なんでって」泣きっ面で言う将太が可笑しい。「家にいてもやることないし」

「それもそうか」

「あっさり納得したな」

「ずっと凌ちゃんなにしてんのかなって思ってたから」

「なんもしてない。勉強はしてたけど」

「そっか」

「あ、そうだ。あとでノート写させてくんない?」

「うん、いくらでも写してよ」

 そこに今度は裕吾がやってくる。将太と喋る俺を見て、目をまん丸にしたまま突進してきた。

「凌!」

 可笑しくてたまらない。

「おはよう」

「おはよう。ってさらりと言うなよ!」

「なんで。朝のあいさ――うっ!」

 息ができないぐらい裕吾が俺を抱きしめてきた。

「安心した。マジで、安心した」

 ああ、あったかいなあ。将太も裕吾も、あったかい。

 少しだけ鼻の奥がツンとして、ちょっぴり涙が出る。裕吾の背中をぽんぽんと叩いて引き剥がした。

「二人ともありがとう。お前らの顔見たら、すごい元気出た」

「やめろやい、泣いちゃうぞ」

「俺たちも元気出たよ」

「そりゃ来た甲斐あるな」

「凌がいなくて俺らがどれだけ寂しかったか。なあ、将太」

「マックにいた女の子を可愛い可愛いずっと言ってたくせに」

「それは言うなよ、将太君」

「寂しがってのは俺だけってこと」

「自分だけ好かれようとすんなよ~。嘘はよくないぞ!」

 裕吾が将太の肩に腕を回してばしばし叩く。

「朝からやめてよ」

 将太は顔をしかめて裕吾を押しのけようとするが、逆に裕吾に抱きつかれてしまう。

「なんだよ、冷たいな。朝は元気が一番!」

「元気すぎるんだよ」とうんざり顔で将太が言った。

 いつものやりとりに俺はほっとして笑う。来てよかったって思えた。

 三限目、英語。

 久しぶりに龍河先生に会えると思うとなんだか落ち着かない。そわそわしながら待ってると、チャイムとほぼ同時に龍河先生が教室に入ってきた。

 今日の龍河先生は白Tの上に黒のニットカーディガンを羽織り、ボトムスはストレートのブルーデニム。

 何度も思う、どうしたらそんな絶妙なバランスで着こなせるんだろうか。ああ、かっこいい。ほんとにかっこいい。久しぶりに見る先生はとてつもなくかっこいい。嘘、とてつもなくかっこいいのはいつもでした。

 休んでたぶん今日の放課後教えてもらお、なんて語尾にハートマーク付けながら思ってると、龍河先生の視線が俺に向いた。その瞬間、わずかに目元が和らいだように見えたのは俺の願望だろうか。

 いや、願望じゃないと思う。そう見えたなら、そうなんだ。

 授業が終わって、教室からさっさと出て行く龍河先生の後を追う。「龍河先生」と呼ぶ俺の声に足を止めて振り返った龍河先生は、俺を見てたしかに目元を和らげた。

「あの、今日放課後行ってもいいですか? 授業受けてないとこ教えてほしいんです」

「ああ、わかった」

「あと、母さんの葬式来てくれてありがとうございました」

 龍河先生の口元が微かに緩む。

「伝えたかったんだ。凌の母さんに、もう一度ちゃんと」微笑みを少しだけ強くして、小さく息をつく。「あとでな」

「はい」

 遠ざかる龍河先生の背中を見つめる。嬉しかった。嬉しくて俺は笑ってしまって、それを隠すように俯いた。

 将太と裕吾に放課後勉強しに行くと伝えると、二人は「いってらっしゃい」と他人事のように言った。

「え、来ないの?」

「今んとこ教えてもらいたいとこないし」

「俺も」

「え、そうじゃなくて、なんで?」

「うん?」

「今までそんな感じでも復習だ! って来てたじゃん」

「そうなんだけど、今日は遠慮しとこうかなって」

「しばらく先生とゆっくり話せてねえんだろ?」

「まあ、そうだけど」

「俺たちがいたらゆっくり話せないでしょ」

「そんなことないよ」

「いいんだいいんだ。俺らは肝心なときは邪魔しない邪魔者だから」

「邪魔って――」

「それは冗談としても、今日はゆっくり話しておいでよ。勉強が目的だろうけど」

「そういうことだ」

「それに、いちゃいちゃされるとこっちが恥ずかしいし」

「ほんとだよ。どうしていいかわかんねえんだよ、こっちは」

「凌ちゃんが先生にいじめられてるのは面白いけどね」

「急にいちゃいちゃしはじめっからなあ、参るよ」

 二人から責めるような目で見られ、俺は顔を赤くして俯くしかない。

「いちゃいちゃしてるつもりはないんだけど……」

「お互い好きだって言い合って、抱きしめ合って、ちゅっちゅして、それのどこがいちゃいちゃじゃねえんだよ」

「裕吾、言葉にしないで」

「いくらでも言ってやる。先生といちゃいちゃしやがって! 羨ましいじゃねえか!」

「結局それかよ!」

 そんなこんなで龍河先生のところへは俺一人でお邪魔することとなり、視聴覚室でマンツーマンの授業を受けている。しかし、三日分の授業を二時間でやるには無理がある。期末テストまでまだ時間はあるし、明日明後日も教えてもらうことにして、今日は一日分の授業を一時間ぐらいかけてやってもらった。

「わかんねえとこねえか?」

「はい、大丈夫です」

 俺は机に広げた教科書類を片付けてからホワイトボードを消しはじめ、龍河先生はホワイトボードのすぐそばに椅子を置いて座り、長い足を投げ出した。

「先生って、なんでそんなに教えるのうまいんですか?」

「ん?」

「教育実習以来教えてなかったんですよね? なのになんか、教え慣れてるっていうか、先生の授業すごいわかりやすいから、なんかあんのかなと思って」

「なんもねえよ。俺が優秀なだけだ」

 イレーザーを持つ手を止め、龍河先生をじっと見てしまう。

 いや、まあその通りなんだけど……。

「なんだよ」

 投げ出してる足をさらに伸ばして俺のふくらはぎを軽く蹴る。笑いそうになるのを堪えながら手を動かしはじめるけど、誤魔化せるわけがない。

「凌に褒められる日はいつだろうな」

「いつも褒めてるじゃないですか。それにさっきのはバカにしたわけじゃなくて、さらりと言えるのがすごいなって思っただけですよ」

「その割には顔が笑ってんだよ」

「そんなことないですよ」と言いつつ、なんでか笑ってしまう。だからもう一回蹴られるけど、余計笑えてくる。

 柔らかい空気が漂い、ちょっとの沈黙。

 俺は手を止めて、ホワイトボードと向き合ったまま龍河先生に言った。

「母さんの最期には間に合わなかったけど、ちゃんと笑って見送れました。そのあとぴーぴー泣いたんで、ちゃんととは言えないのかもしれないですけど」

 またちょっとの沈黙。「そうか」と言う静かな声がして、俺はやっと龍河先生に顔を向けた。

「はい、母さんにも伝わったと思います」

「凌がそう思うなら、ちゃんと伝わってる」

 俺は笑って一つ頷いた。

 ホワイトボードが綺麗になって、俺は近くの机に尻を乗せる。

「今度のテストで最後なんですね」

「ああそうか、お前らはそうだな」

「三学期は登校しないし、ここに通うのもあと半月ぐらいです。なんか不思議な感じだし、不安です」

「不安?」

 怪訝な顔をする龍河先生に笑って見せて、「はい」と頷く。

「毎日のように将太と裕吾と会ってたのに、あいつらはあいつらでやることがあって、俺もやらなきゃならないことがあって、だから今までのようにはいかなくなるし、先生ともこうやって話せなくなります。今は話したいと思ったらいつでも話せるし、会いたいと思ったらこうやって会いに来れたのに。たぶん俺、すごいみんなに会いたいって思うんだろうなあって……あ、不安とは違うか。寂しいのか」

 一人で納得してる俺を見て、龍河先生は小さく笑う。

「たしかに、お前らの賑やかな顔が見れなくなるのは寂しいな」

「そう思ってくれるんですか?」

「当たり前だろ」

「将太と裕吾が泣いて喜びますよ」

「凌は喜ばねえの?」

「嬉しいに決まってるじゃないですか」

 少し怒った感じで言うと、龍河先生は可笑しそうに笑った。その笑顔を微かに残したまま、少し遠い目をして懐かしむような声で話しはじめた。

「正直言うと、なんの期待もしてなかった。校長に一年間の臨時教員を頼まれて、校長の頼みならと思って引き受けた。教師やろうなんて自分じゃぜってえ思わねえことだから、最後にやってみるのもいいかって。もちろん、やるからには精一杯やろうとは思ってたが、そこになにかを求めてはなかった。だが、そこには凌がいて、裕吾がいて将太がいて、お前らの周りにいる誰かがいて、気付けばお前らからいろんなもんを貰ってた。抱えきれねえぐらいいろんなもんをくれて、なんも求めてなかったはずなのに、いつの間にか求めてた。だから俺は今、すげえ楽しいよ。引き受けてよかったって心から思う。俺は幸せもんだって心から思う。そう思わせてくれたお前らに、愛情を抱かねえわけがねえ」

 俺に視線を戻した龍河先生は呆れたように笑って立ち上がると、俺が尻を乗せてる机に自分も尻を乗せてきて、俺の顔を覗き込んだ。

「泣き虫凌ちゃん」

「すいません。俺今、感情がおかしいんです。走ってる犬見ただけでも泣けてくるんです」

「あっはは! そりゃ忙しいな」

「はい」

 俺に少し寄りかかりながら俺を見て、俺を呼ぶ。

「凌」

「はい」

「会いたいなら会いに来ればいい、喋りたいなら電話してくればいい。簡単なことだ」

「簡単に言わないでください」

「なんで、簡単だろ。俺はそうするよ」

「え?」

「凌に会いたくなったら会いに行く、話したくなったら電話する。ダメなのか?」

「ぜんっっっぜんダメじゃないです」

「だったら凌もそうしろ」

「ううううう」

「あはは! ここで泣くのか」

「なんか、先生がそばにいると泣けてくるんです」

「あ? じゃあ離れるよ」

「ダメです。そばにいてください」

「面白えなあ」

「先生と会うの久しぶりなんで、そばにいたいんです」

「可愛いこと言うじゃん」

「だって好きなんですもん」

「今日はやけに素直だな」

「間違えました。だって大好きなんですもん」

「あっはは! ほんと可愛いなあ、凌は」

「今のうちにいっぱい言っておこうと思って。これから頻繁に会えなくなるんで」

「じゃあもっと言ってくれ」

「そう言われると言いたくなくなります」

「なんでだよ、言えよ」

 拗ねてる可愛い龍河先生をじっと見つめ、ぷいっと前を向く。

 いかんいかん、可愛さにほだされて言いなりになったらいかんぞ!

「言いません」と言った途端、舌打ちが聞こえた。ええええ?「舌打ちはやめてくださいよ」

「凌が言わねえからだろ」

「あんなこと言わなきゃよかった」

「もう遅えよ」とあの笑顔。

 ああ、またやってしまった。バカバカバカ! 俺のバカ! 学習能力がなさすぎるぞ!

 龍河先生が楽しそうに俺の顔を覗き込んでくる。俺はこの顔に弱い。

 だってものすごく、とんでもなくかっこいいんだもん。可愛いんだもん。

「なんで俺のそばにいたいの?」

「……先生って欲しがりですよね」

「そりゃそうだろ。好きな子からの愛情はいくらでも欲しいんだよ」

 ぼふうううううんっ!

 好きな子だって。俺のこと好きな子だって。ぐふふふふ。ああ、俺はこうやってまた抗えなくなっていくんだ。

「……好きだからです。好きで好きでしょうがないんです。この前言ったじゃないですか、ずっと一緒にいたいって」

「何回でも聞きたいんだよ、凌の口から」

 だからその顔で見ないで。ほら、抵抗力がゼロになりました。ゼロになったついでに言ってやる。

「……先生もくださいよ。俺だって欲しがりです」

「いくらでも言ってやるよ」

「じゃあください」

 笑顔が変わる。

 これも俺が弱い顔。優しくて美しい、俺を想ってくれる笑顔。

「どこにいても、俺は凌のそばにいる。約束する」そう言って笑顔を深くする。「俺は凌のことが大好きだ」

 どふわばあああああああああんっ!

 くださいって俺から言っといてなんだけど、今そんなこと言われたら、ただでさえ感情暴走中なんだから、もう止まんないよ。

「うううううう」

「あっはは! 泣き虫凌ちゃん」

 左肩に重みが乗っかった。視界を滲ませながら机の端を握り、自分の身体を支えて龍河先生の身体も支える。どんどん重くなっていく。

「先生、危ないですよ」

「凌が支えてよ」

「……はい。もちろんです」

 かっこよくて可愛くて、素っ気ないのに甘えん坊。強くて優しくて、でも弱さもある。たまに乱暴だけど、いつも正しい。

 思いやりに溢れた嘘のない言葉と想いは、俺の、将太の、裕吾の、背中を押してくれる。前を向くことを教えてくれる。

 この愛情深い人に俺はこれからも振り回されながら、たくさんの愛情を貰うんだろうなって、なんとなくそう思った。

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