メラリンの街

藤咲未来(ふじさきみらい)

下駄を履いた鯨

 友子が出かけようとしたとき、奥の部屋から母親の声がした。「友子、どこへ行くの?」

「本屋さんまで」

「早く帰ってきてよ、今日押入れの片付けをしたいから」

念を押してくる母親の声に、「はーい」友子は背中で返事をするようにして家を出た。


 友子の母親は、友子達きょうだいの、子どもの頃の思い出の物を捨てることができず、父親から「全部残さなくても、少しは処分しろ」と言われても「この絵も、この文字も今しか書けないのよ」そう言って聞かなかった。

それが今になって、思い出で溢れた押入れを前に困っているようだ。


 外は気持ちの良い青空が広がっていた。


この青空の上に、違う世界があるのでは…?


 友子は時々こんなことを考える。

現実逃避?それほどのこともなく、物事を深く考えるタイプでもない、強いて言うなら、「水道の蛇口をひねればオレンジジュースが出れば良いのになぁ」そのぐらいの、ノリのようだ。


 本屋のドアを開ければ、本屋独特の紙とインクの匂い。

子どもの頃、母親に連れられて本屋に来ると「静かにしなさい」と、言われ続けていた。

友子達きょうだいは、本屋イコール静かに。

そんなルールが、しっかり植えつけられていた。


 友子は、1冊の本に導かれるように目の前の本を手に取った。

本を開くと、その本の中から目を開けていられない程の、眩しい光が放たれた。

そして風が吹いた。

風は優しくて、友子はどこか懐かしさを感じた。


 その時、背後から「こんにちは」と声がした。

友子が振り向くと、そこには友子の背丈ほどのクジラが立っていた。

クジラは着物を着て羽織りを羽織っていた。

驚く友子に、クジラは「お待ちしてましたよ」と言って歩き出した。

着物を着たクジラは、下駄を履いて器用に歩いていた。

今、何が起きてるの?戸惑いながらも、友子はクジラの後ろを歩いた。


 そこは商店街のようだった。

少し歩くと、中年の女性が「ああ、こんにちは、寒くなってきましたね」とクジラに声をかけた。

「こんにちは、そうですね、風邪をひかないようにね」と、クジラが言うと、その女性は「ええ、ありがとうございます」

そして女性は友子を見て、「友ちゃん、来ていたんだね、うちにも遊びにおいで」と、言って笑った。友子は、その女性に心当たりはなかった。勿論クジラにも、心当たりはない。


 今、自分に何が起きているのか、理解がついていかなかった。

どうして私の名前を?

私は今どこで、何をしているの?

友子はクジラに「あの…何処に行くんですか?どうしてあの女性は私の名前を知っているんですか?」

クジラは振り向き、「それは、貴方が友ちゃんだからですよ」

「だからみんな『友ちゃん』と呼ぶのですよ」と、当たり前のことのように答えた。

友子は心の中で、そうじゃなくて、なぜ私のことを知っているの…?どうしてそれが伝わらないのかなぁ…。


 そんなことを思いながらも、友子はクジラの後について歩いた。

街全体は穏やかで、のんびりとしていた。

友子は物珍しくキョロキョロ辺りを見渡しながら歩いた。


 そのときクジラが「餌やりだね、ご苦労さん」と、言った。前を見ると小学校の低学年くらいの男の子がいた。

男の子は手に、ソフトボールが余裕で三個くらい入る籠を持っていて、籠の中にはパン屑が入っていた。

男の子は、クジラに「こんにちはー」と挨拶をしながら、パン屑を投げていた。

投げたパン屑を大きな魚がきて「パック」

「えー???」その魚は1メートルほどの長さで、友子は驚いて目を見張った。


 友子の目の前を大きな魚は、ゆったりと泳いでいった。

魚は、屋根と屋根の間をゆったり泳ぐ魚もいれば、空高く泳ぐ魚もいた。

魚の金や銀の鱗が光に映えて輝いて見えた。

空の高いところでは龍も泳いでいた。

友子は龍を見るのも初めてで、驚くことばかりだった。餌を食べた魚は空へ帰って行っているようだ。

青空をゆったりと泳ぐ魚や龍は壮大で美しかった。


 友子が、空を泳ぐ魚や龍に見とれていると、パン屑を投げていた男の子が「友ちゃん、来ていたんだね」「もうすぐ、友ちゃんの好きなメロンパンが焼き上がるよ」と、親しそうに言ってきた。


 理解に苦しむことばかりが続く友子は、男の子に聞いた、「ねぇ、どうして私の名前を知っているの?それに、私がメロンパンを好きなことまで…」

男の子は魚に餌をやりながら、「だって友ちゃんだからだよ、メロンパンは、いつも好きだって言っているからだよ」と笑った。


 男の子の隣で、クジラも一緒に魚に餌をやっていた。

友子は、この街は一体何なの?

私、夢を見ているの?

自分の目の前で、自分の背丈ほどのクジラが、1メートルほどの魚に餌やりをしている。

有り得ないよね、友子は自問自答していた。


 街の所々に「メラリン」と書いてあった。

例えば、すぐ近くにある電信柱に、メラリン2丁目と書いてあったり。

今、目の前を走って行ったバスは、行き先がメラリン駅になっていた。

友子は、きっとこの街の名前がメラリンなんだ、そう思いながらバスを見送った。


 そのとき、コーヒーの良い香りが友子の鼻をくすぐった。

すぐ側のカフェからだった。

よく見ると、カフェに掛かった看板に描かれた、coffeeの文字の横のカップの絵から湯気が立っていた。

そういえば朝から何も食べていない。

思い出すと、友子は急にお腹が空いた。


 隣のパン屋を覗くと、パン屋のおじさんは、まるでパンと踊っているようだった。バゲットパンをエスコートするようにカゴに入れて、ドーナツは粉砂糖の中で雪遊びをしているようだった。


 友子に気がついたおじさんが、店のドアを開けた。

そのとき店の中から、甘い幸せな香りがして、その香りは友子を包んだ。「友ちゃん、丁度よかった、今メロンパンが焼き上がったんだよ、隣に持って行くよ」そう言って、隣のカフェを見た。


 パン屋の主人であろうこのおじさんも、やはり友子の名前を知っていた。

友子は、まだ何一つ理解できていないこの街だが、なぜか不安とか、怪しさは感じなかった。

どこか、安らぎさえ覚えかけていた。


 友子は、クジラと一緒にカフェに入った。

カフェのカウンターの中には、白いシャツに黒い蝶ネクタイ。そして黒いエプロンをしたアリクイがいた。

友子はアリクイをテレビで見たことはあるが、本物のアリクイを見るのは初めてだった。

でも、ジロジロ見るのは失礼、友子もそのくらいの常識は持っている。


 友子が「こんにちは」そう言って椅子に腰をかけると、アリクイは「友ちゃんいらっしゃい」と、メロンパンとコーヒーを出してくれた。アリクイも当然のように友子のことを知っていた。


 「いただきます」友子は一口食べて驚いた。

お腹が空いているせいなのか?それにしても…美味しすぎる。

それは、友子が今まで食べた、どのメロンパンより美味しくて、今までに飲んだ、どのコーヒーより、香りのいい美味しいコーヒーだった。

コーヒーとメロンパンに、友子は説明のつかない温もりを感じた。


 友子はこの春、就職試験に落ちた。それも最終試験に三回も落ちた。

バイト生活の今だけど、深く考えずにいた。

そんなとき、この街に出会えた。

友子は、少しこの街に居たいな、そんなことを考えていた。


 クジラとアリクイは、静かに穏やかな笑みを浮かべて話をしていた。


 店の中は静かで、茶色を基調とした、シックな落ち着いた清潔感のある店だった。

店には数人の客がいた。

その客は人もいれば、若い狼もいた。

友子は、クジラに出会って、アリクイに会って、もう狼にも驚かなくなっていた。


 店を見渡す友子にクジラは「どうですか?この街は?気に入っていただけましたか?」と、聞いてきた。

友子は「はい、素敵な街だと思います」

「さっき、外の電信柱やバスで見たのですが、この街の名前は『メラリン』ですか?」

友子が聞くとクジラは、「そうですよ、この街の名前は『メラリン』ですよ」と微笑んだ。

友子は、メラリンという優しい響きが好きだった。

この街の名前にぴったりだ、と思った。


 「私、こんな世界があるなんて知らなかったんです。この世界の、この街『メラリン』が素晴らしい街だと思います」

嬉しそうに話す友子にクジラは、「この世界はずーっとありますよ、もちろんメラリンも、いつも友ちゃんの側にありますよ。

頑張りすぎたり、考えてばかりいると見えなくなるのです」

「友ちゃんのように、『水道の蛇口からオレンジジュースが出ればいいのに』って考えるくらいが丁度いいんですよ」とクジラは笑って言った。


 心で思ったつもりなのに、声に出ていたの…?

友子が恥ずかしそうに苦笑いをしていると、

カウンターの中のアリクイが「友ちゃん、時間ある?時間があったら、店手伝ってもらえないかなぁ」と、聞いてきた。

友子が返事をする前にクジラが、「それはいい。友ちゃんがお店にいると、お店も賑やかになって、お客さんも喜びますよ」と、言った。

友子もこの街にもう少しいたい、と思っていたので丁度よかった。

友子はアリクイに「はい、いつまでお手伝い出来るかわかりませんけれど、それでもいいですか?」

アリクイは「勿論だよ、たとえ一日だけでも助かるよ」「ありがとう」そう言ってアリクイは手を差し出した。

友子は「よろしくお願いします」とアリクイと握手をした。


 閉店後、アリクイは友子を2階の部屋へ案内した。

アリクイが部屋のドアを開けると、「わー」友子は思わず声が出た。

驚かなくなってきていた友子だが、ドアの向こうの部屋を見て驚いた。

その部屋は白を基調とした、まるで御伽話の世界のような部屋だった。

大きなベッドにフリルをあしらった天蓋。

金縁と金の細工が施された、大きなドレサー。ふかふかの絨毯に、部屋の中央にある丸いテーブルの上の花瓶には、友子の好きなピンク色のガーベラの花が溢れんばかりに生けてあった。


 アリクイはクローゼットの中の服を自由に使うように言った。

そして、持ってきた目覚まし時計に「友ちゃんは、九時でいいからね、早くからうるさくするんじゃないよ」と、言って目覚まし時計をベッド横のテーブルの上に置いた。

目覚まし時計は眠そうに「はーい…」といった。


 アリクイが部屋を出ていった後、友子が目覚まし時計の側に行き「よろしくね」と、言うと「友ちゃんが来ることは、私には分かっていたわ、私は時計ですもの」「おやす…み…な…さ…」目覚まし時計はそのまま眠ってしまった。


 友子は明日が楽しみだった。

クジラにアリクイ。

空を泳ぐ大きな魚と龍。

今まで友子には想像すらできなかった。

明日はどんな出会いがあるんだろう、メラリン、この街はどの地図を広げれば載っているんだろう。

友子はそんなことを考えながら窓を開けて外を見た。友子は息を呑んだ。

メラリンの夜の街は友子の想像を遥かに超えていた。

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