第17話 母娘と濁流 -後編-
その日は寝苦しい夜だった。
エルシーは寝付けず、苦しげにごろごろと転がっている。
キャスリンは少しでも涼めればと、娘を起こし、夜道を歩いた。
自然と足先は、テムズ川へと向かう。
苦労も辛さも全て流してくれる、あの川へ。
流れる水音を聞けば、自然と穏やかな気持ちになれた。
心なしか、湿ったような暑さも取り除かれるようだ。
2人は横に並んで座っていた。
エルシーは人形を動かし、ごっこ遊びに耽っている。
空想が大好きな子に育っていた。
寝入り端に、たくさんの自作のお話を聞かせてくれる。
本当は母親である自分が、絵本を読んであげたかった。
しかし今は、その余裕もない。
時間も、金銭的にも、足りない。
だからせめて、彼女は娘の物語を、一緒に考えてやりたかった。
キャスリンは、エルシーの遊びをそばで聞く。
「そしてエルシーひめは、王子さまとケッコンして、
いつまでも幸せに暮らしましたとさ……めでたしめでたし」
この子は人形に、自分の名前を付けているのか。
微笑ましくなると同時に、その人形の身につけている衣服が、キャスリンは気がかりだった。
パッチワークと言えば聞こえはいいが、
日々の仕事で生じた端切れを、懸命に寄せ集めたみすぼらしい洋服。
とてもではないが、姫の結婚衣装とは程遠かった。
「ごめんね……」
かつて娘が赤子だったとき、ひとつの癖のように呟いていた言葉。
娘が成長してからは笑うことも多く、忘れていたが。
……今、久々に漏れた。
「どうして?」
エルシーが問う。
「ママは、なにも悪いことしてないよ?」
何も知らない無垢の瞳が、母を見つめた。
そう、この子は何も知らない。
母の自分勝手な思いで、あなたを産んでしまったことを。
あなたに会いたかった……それだけの理由で、
この先のことを考えもせず、
あなたにさせる必要のなかった苦労を強いている。
自然と涙が溢れた。
「ママ……」
エルシーが心配そうに、母の顔を覗き込む。
すると。
「おや、どうしたの?」
キャスリンは肩を叩かれた。
驚いて見やると、そこには見知らぬ男がいる。
「泣いてるのか? 可哀想に」
帽子を目深に被り、口元しか見えないが、彼は笑っていた。
男の指が、キャスリンの目元を払う。
「おいで、慰めてあげるよ」
そう言いながら、男は懐を割り、隙間から財布を覗かせる。
よく見れば、男の身なりはここらでは見かけない、上級の紳士だった。
仕立ての良いスーツ。
上着に装着された懐中時計の鎖。
訛りのない言葉遣い。
――キャスリンは息を呑んだ。
子どもを持って、すっかり忘れていたが、自分は女だ。
そういう金の稼ぎ方も、ある。
しかし……
エルシーを見た。
まさか連れて行くわけにもいくまい。
「ねぇ、ちょっと待っててくれない?」
せめてこの子を家に置いてからでは、どうか。
キャスリンは男へ問うが、男は首を左右した。
彼女の髪を指で梳きながら、
「騙されないよ」と彼は言う。
……そうやって、逃げるつもりだろう?
男の指先は値踏みをするように冷ややかで、今が良いと語っていた。
ならばまだ年端もいかない3歳の娘を、この場に置いていくというのか。
いやしかし、幼い割には聡いところもある。
散々迷った末、彼女はエルシーに言い聞かせた。
「お願い、しばらくここで待っててくれる?」
エルシーは首を傾げたが、すぐに笑顔を見せた。
「わかった、まってるね」
素直な物言いに、キャスリンは安堵する。
「ごめんね、すぐ戻るからね」
立ち上がり、男とともに一旦この場を去った。
これで纏まった金が手に入る。
エルシーに、いろんなものを買ってあげられる。
何を買ってあげよう?
キャスリンの頭に真っ先に過ったのは、白い絹の生地だった。
あの人形に、ウェディングドレスを作ってあげよう。
◇
ドンッ。
隣室からの、壁を叩く音が響いた。
は、と息を飲む。
キャスリンの意識は、過去から現実に戻された。
彼女の唇は、もう笑いを忘れている。
ハイドが室内を行き来する姿を見つけると、やけに意識の時間軸が曖昧になっていることに気付かされた。
だがそのおかげで、思い出しつつある。
娘がどこに行ってしまったのか。
体を売り、大金を手にし、
初めて娘から目を離した……あの日。
娘は居なくなった。
キャスリンの心臓が激しく跳ねる。
頭の中では、過去の記憶が映像として再生されていた。
川岸に落ちていた人形。
色の濃い衣服を着ていた。
しかし帽子が足りない。
いつもつけている、プリムの広い帽子。
キャスリンが静かになったのを横目に、ハイドは未だ薬を探していた。
床に散った端切れを掻き分けても、
目を凝らして辺りを見渡しても、
机の下へ視線を落としても、見当たらない。
ならばと、しゃがんで棚の下の隙間を覗き込み――
みつけた。
暗がりの中へ溶け込むように、薬包紙が鎮座している。
隙間の中に手を入れてみれば、指までは入る。
しかし甲は入らない。
棚は動かせるだろうか。
試しに押してみるが、固定されているのか、ビクともしなかった。
「やってしまった……」
普段ならこんなミス、絶対しないのに。
ハイドは頭を抱える。これでも焦っているのだろうか。
脳を侵された人間の行動は、全く読めない。
ならば今夜は薬を利用せず、後日出直すか?
……いや、あの調子だと、いつ何かの拍子で亡くなってもおかしくない。
ハイドの目的はひとつ。
キャスリンの遺体を、人目に晒さないこと。
そのためには、部屋でひっそりと生を終えてもらうに限る。
つまり、薬の使用は手っ取り早いのだ。
何かで掻き出すか。
床には端切れ以外に、縫製の道具も落ちている。
まち針の刺さったピンクッション。
先の尖った鋏。
定規……
定規、良いじゃないか。
ハイドが手に取ったときだ。
「待って、エルシー! エルシー!!」
突如キャスリンは叫び始めたかと思いきや、人形を抱え込む。
視線は宙を彷徨い、定まっていない。
ダメ、行っちゃダメ、それ以上は行っちゃダメ。
待っててって言ったじゃない。
彼女はぶつぶつと呟きながら、玄関へと歩み、扉へ手をかけた。
「え? 待って待って」
お前は部屋で寝てろ。
ハイドが止めようとキャスリンの肩へ手を置く。
その途端、キャスリンの意識が乱れた。
――おいで、慰めてあげるよ。
過去、体を売った男の幻影が過ぎる。
キャスリンは悲鳴をあげながら、ハイドを突き飛ばした。
「うるさい、お前のせいで! お前さえいなければ!」
ハイドの体は再び床に打ち付けられる。
反動で持っていた定規が手から離れ、床を滑り、寝台の下へ。
「く、くそ……!」
ハイドは思わず床を叩く。
この暴力女め……!
キャスリンは小走りで外へ出た。
「エルシー、お願い! 行かないでえ……」
あれでは狂人だ。
過去と現在が混濁してしまった今の意識では、
自分が何をしているか分からず、外で野垂れ死ぬかもしれない。
誰かの不快を買って、殺されてしまうこともありそうだ。
どのみち、キャスリンの遺体の回収が難しくなる。
追うか……ハイドが立ち上がり、衣服の埃を払った。
そのとき。
「おじちゃん、どうしたの?」
玄関の扉から、ひょこりと幼い顔が覗いてきた。
……先程別れたばかりの、あの少女だ。
あれからずっと玄関で待ち続けていたのだろうか。
「誰がおじちゃんだ」
苛立たしげに悪態をつくと。
「おばちゃん、出てったよ? 大丈夫かな?」
少女がキャスリンの去った方向と、ハイドを見比べながら、
焦ったように言う。
「待ってて、わたし、おいかけるから」
「ええ??」
ハイドが止める間もなく、少女は駆け出した。
「……いい加減にしてくれよ」
ハイドの文句など、もはや誰も聞いていない。
◇
あの夜の、すぐ後のことだ。
キャスリンは手に、銀貨1枚を握りしめていた。
早足でエルシーのいる場所へ戻る。
これで、当面は飢えを凌げる。
パンを食べられる。
家賃を払える。
白く美しい生地も買える。
乱れた髪を整えながら、それでも足は止まらない。
はやく帰らないと、きっとあの子は不安で泣いている。
狭い石畳の路地の隙間から、水が滲み始めた。
川が近い。
乾いた足音に、湿り気が伴う。
暗い夜道を月明かりが照らした。
まるでキャスリンを、はやく、はやくと手招くように。
視野が開ける。
川が見えた。
濁ったせせらぎ。
ドブの臭気。
キャスリンは娘の元いた場所へ戻った。
――娘は、いなかった。
そこに居たのは、娘が大切に抱いていた人形だけ。
キャスリンは、人形を拾い上げる。
「どこ……? どこに行ったの??」
視界を右に左にと彷徨わせた。
暗がりの中では、よく見えない。
「エルシー! どこ!?」
キャスリンは叫ぶ。
返事はない。
「エルシー!!」
もう一度叫ぶ。
やはり、返事は返ってこない。
もう帰ったのか?
いや、3歳の足で気軽に戻れる距離ではない。
探さなければ。
周辺を早足で見回る。
足元が、ドレスの裾が、泥水に浸ろうが構わない。
娘の居場所がわかるなら、安い犠牲だった。
しかし、居なかった。
小さな人影ひとつ見当たらない。
キャスリンは探し回ったために、息が上がっていた。
肩を弾ませながら、ふと握りしめた人形へ視線を移す。
――人形には、帽子が付いていなかった。
最初から付いていなかっただろうか?
いや、エルシーの着せ替えごっこに、帽子は必須だ。
部屋を出る時は、ちゃんと付いていた。
「まさか……」
キャスリンは震える足で、川へ向かう。
まさか。
まさか。
頭の中で、最悪な映像が組み立てられた。
母が去った後、人形の着せ替えをしようとするエルシー。
まずは帽子を替えよう。
人形から帽子を外し、ポシェットの中に入れようとする。
ポシェットの中には、既に替えの衣服が詰まっていた。
3歳の指は、まだ小さい。
たくさん詰まって隙のないポシェットの中へ、
帽子を入れるのは苦労した。
もたついていると、風が吹く。
小さな帽子は飛んで、川の中へ……
待って、待って。
エルシーは咄嗟に追いかけて。
「エルシー……」
キャスリンは、水面に浮かぶ、小さな帽子を見つけた。
人形を抱えたまま、膝を折る。
◇
「ママを置いていかないで!!」
キャスリンは、川へ向かって叫んでいた。
穏やかで、苦しみを全て流してくれたはずの、テムズ川。
その思い出が、全て裏切りの記憶としてキャスリンを襲う。
大切な命を奪った、憎い川として。
「エルシー! どこ?エルシー!」
桟橋を歩き、川を覗き込んだ。
淀み波打つ水面には汚物が浮かび、
もはやキャスリンの顔も映さない。
娘はまだ、この中にいるのだろうか。
「ここで待っててって……言ったのに……」
そうは言うが、わかっている。
悪いのは私。
なぜあのとき、離れてしまったのだろう。
たった1枚の銀貨を得るために、大きなものを失ってしまった。
なぜ人形など、作ってしまったのだろう。
なぜ私が、産んでしまったのだろう。
私の元へ来なければ。
そうすればあなたは、もっとずっと幸せになれた。
どう考えても、何を考えても、後悔しか浮かばない。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
幸せにして、あげられなくて……
「おばちゃん、あぶないよ!」
ふと聞こえた声に、顔を上げた。
振り返ると、部屋の前で追い払ったはずの少女がいる。
「川におちちゃうよ!」
桟橋を渡り、こちらへ歩み寄ってきた。
エルシーより少しだけ背丈が大きく、すこしだけ流暢に喋る少女。
エルシーも生きていれば、
今頃はこのくらいの歳だったかもしれない……
「ほら、お人形さんもよごれちゃうじゃない」
は、とした。
気が付けば、手に握られている人形。
先程まで大事に抱いていたのに、今は雑に扱われている。
人形が着ている白いワンピースは、
供養のつもりで縫ったウェディングドレスだった。
結局辛くなって、途中で作るのをやめてしまったが。
エルシーとの思い出がたくさん詰まった人形。
エルシーの命を奪うきっかけになった人形。
次第に扱いに困り、わざと部屋の外に置いた。
誰かが処分してくれないかと、薄く期待をするくせに。
これは捨てるのではない、決して違うと言い訳を指先に滲ませて。
その後、この子が拾ってくれたのだろう。
ある日、部屋の前から人形がなくなった瞬間、
本当の意味で娘を失ったような気持ちになったのを、思い出した。
痛みを忘れるために別の痛みを求め、体を売り続けたことも。
「ねぇ! いらないなら、ちょうだい」
少女が手を出した。
いらない。
今、キャスリンははっきり自覚した。
それは、私の娘ではない。
悲しみを紛らわせるための道具は、もう必要ない。
私は今から、本当の娘に会いに行く。
「……エルシーっていうの」
キャスリンは少女へ、人形を手渡した。
「仲良くしてね」
わあ、と少女は歓声を上げる。
くるりとキャスリンへ背を向け、人形を抱き締めた。
そこでようやく少女に追いつく存在――
ハイドの姿を認めると、彼女は笑顔を作る。
「ねえ、見てー!
おじちゃんの言うとおりにしたら、くれたよー!」
人形を上に掲げ、ぴょんぴょん跳ねながら、喜びの声を上げる少女。
ハイドは息を切らしながら、手を挙げ、応えた。
よかったね、とでも言うように。
◇
跳ねる少女の背を見つめながら、
桟橋の先端で、キャスリンは体を後ろへ倒した。
風が彼女のすぐ横を通り、全ての音を攫っていく。
「エルシー……」
呟くのと、足の裏が地の感覚を失ったのは、同時だった。
「……ママも、行くわ」
私の、小さな、かわいい花嫁のところへ。
キャスリンの視界から少女の姿は外れ、一面の夜空が広がった。
――ママ!
エルシーの声が、聞こえた気がした。
どこなの? エルシー?
――ママ、ここだよ!
一等瞬く星が伝える。
――エルシーはね、もう川にはいないの。だからね、おむかえにきたよ。
そうだったの。
よかった。
あなたがいつまでも、あの哀しい川に囚われているかと思ってたの。
違ったのね。
キャスリンは星空へ手を伸ばし――
小さな手を掠めた刹那。
水面を破る音と共に、
彼女の視界は、汚物の揺蕩う暗い濁流の底に沈んだ。
◇
「ありがとう、おばちゃん!」
少女は胸に人形を抱きながら、もう一度振り返った。
そこにはもう、キャスリンはいなかった。
桟橋の下で、水面がひとつ、沈む。
それも、テムズ川の流れに掻き消されて。
あとは人形の重みが、少女の腕に残るだけ。
◇
「あれえ? おばちゃん、どこ行っちゃったのかな?」
少女は人形を手に、あとから追いかけてきたハイドの元へ歩んだ。
ハイドは膝に手をつき、肩で息をしながらも、
ことの行く末はきちんと見守っていた。
彼女がどこへ消えたのかも、把握している。
「ほら……私の、言った、とおり、だろ……っ」
ぜえぜえと息をしつつ、額の汗を袖で拭った。
少女は、ハイドの疲れ切った様子にケタケタ笑う。
「おじちゃん、おじいちゃんみたい」
黙れ。
ハイドは少女を睨み付けた……が。
先程キャスリンの部屋の前で、少女の手を取ったときのことを、思い出す。
小さな手だったなぁ。
すぐに媚びるような笑みを作った。
「よかったらなんだけどさ、
取って欲しいものがあるから、部屋まで戻ってくれない……?」
懐から、すっと1ペニーを取り出し、見せ付けた。
わ、と少女の目が輝く。
ひょっとしたら、子どもなら棚の隙間にも手が入り、
薬包紙が回収できるかもしれない。
折角こちらが手を下すまでもなく、自ら進んで遺体の処理までしてくれたのだ。
ハイドの訪問した痕跡は、なるべく消しておきたい。
少女は、仕方ないなぁと笑い、硬貨へ手を伸ばす。
人形を大切に、抱え込みながら。
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