第14話 エリザの憂鬱
ハイドは目を開けた。
本日の目覚めは、見慣れない天井からの始まりだ。
完全に知らないわけではない。
ジキルの部屋の天井だ。
珍しい、こんなこともあるのだな……と思う矢先、
信じられない記憶がハイドの中へ流れ込んできた。
それは日中、ジキルがどう過ごしたかの記録であった。
図書館の閲覧室で、延々と調べ物をしている。
それも、あらゆる伝承上の生き物について。
早速言うことを聞いてくれたんだ。
ジキルはなんだかんだで、俺のわがままに耳を傾ける良いやつだ。
その寛大さと健気さに、ハイドはつい甘えてしまいがちである。
が。
ハイドは寝具からゆっくり身を起こし、大きめの衣服の袖を捲った。
床に足をつけると、よろりと体が揺れる。
机に水差しがあった。
ハイドはこれを取り上げると、コップに注ぐこともせず、直接煽る。
水の塊を嚥下した。
収まりきらなかったものは口の端から一筋溢れ、頬を経由する。
やがて首筋を辿ると、上下する喉に揺らされながら、鎖骨へ溜まっていく。
中身が空になると、机に水差しの底を叩きつけながら、口元を袖で拭った。
「水は飲めって……!」
昼間のジキルに、告げる。
よりによって陽射しの強い日に、飲まず食わずで1日中図書館に居続けた、愚かなひとりの科学者に。
お前はわかっていると思っていたのに。
俺たちは別々でも、中身は同じ身体だって。
「死ぬかと思った……」
勘弁してよ、まったく。
乾いた喉を潤し終えて、ハイドは一息ついた。
さて。
「ちょっと縫合の練習でもするか……」
初期よりかは、まだ見れる程度に成長しつつある技術。
目的のための布石を整えていく感覚は、たまらない。
そのあとは、そろそろ様子でも見に行くか。
あの女の。
◇
エリザはハイドの姿を認めると、少しだけ笑んだ。
「久しぶり……」
彼女は初めて会ったときと同じ場所、同じ時刻、同じように悲しげに階段で座り込んでいる。
嫌な予感だ。
あのときの彼女は、誰かに殴られたと言って、目を伏せて沈んでいた。
「まさか……」
また殴られたのかと問えば、彼女は小さく頷く。
よく見れば、頬に痕が薄らと残っているようだ。
ハイドは困ったように額に手を当てがった。
失念していた。
そういえば彼女の周辺には、彼女を殴る輩が居るのだったか。
無事過ごして居てくれればよかったものを。
取り敢えずハイドは、その体勢のままため息を吐く。
「ああエリザ……久々に会ったのに、その傷」
可哀想でたまらないよ、と彼は嘆きの声色を作った。
確かエリザと会うときは、子犬のような愛らしい青年の振る舞いをしていたはずだ。
この台詞で間違い無いだろう。
「ねぇ、その顔、他の誰かに見せた?」
ハイドはエリザと視線を合わせるようにしゃがみ込み、手を取る。
「そりゃ、1週間前の話だもの。
誰かの目には触れたと思う」
客も取らなきゃいけないし……と、彼女はハイドから目を逸らした。
そんなに前か。
やられたな。
ハイドは内心で舌打ちをした。
エリザの顔には殴打痕があるという印象が、世間についてしまってはまずい。
いや、ついたかもしれない。
ひとまずエリザの事情と、
その痕が他の何処にあり、どの程度なのか、確認したかった。
ハイドはエリザの手を、少し力を込めて握る。
「ねぇ……今夜も、貴女の部屋に入れてくれない?」
エリザは、少し驚いたような表情をした。
「で、でも……私、貴方に酷いことを」
情交の誘いを断ったことを、指しているのだろう。
構わない。
なんなら罪悪感を育てるために、敢えて素直に引き下がり、これまでの余白を設けたのだ。
今宵もう一度、体を重ねたいと要求すれば、成功率は上がるはず。
「この1週間、貴女に会えなくてとても寂しかった……
だからこうして、また逢いにきてしまったんだ」
哀れな子犬を、ハイドは演じる。
「ねぇ、お願い。
こんな辛そうな貴女を見てしまっては、もう離れられないよ。
今夜はどうか、ずっと居させて」
本音はこうだ。
一刻も早く、体の確認をさせろ。
殴打痕の位置、身体的特徴を、なるべく短い時間で把握してやる。
エリザは涙を溜め、地面に視線を落とした。
目の前の男の言葉が、ことの外優しい。
今なら全てを彼に投げ出すこともできそうだ。
「……わかった」
エリザが、ハイドの手を握り返す。
その瞳は、揺れていた。
「……部屋に来て」
◇
エリザのドレスと、ハイドの衣服が、部屋の床で乱れ落ちている。
寝台には、薄いシーツを纏い重なるふたりの陰。
熱。吐息。互いへ伸ばされる手。
まずは1点。頬。
ハイドはエリザの頬に触れた。
そこへ口付ける。エリザの溢れる吐息の音。
痛みは少なそうだ。
2点目。左乳房の下。
悩ましい息遣いを聞きながら、次はそこに触れた。
彼女が僅か身じろぐ。少しの苦痛の色。
3点目。脇腹。
指を滑らせた。
小さな悲鳴が上がる。快ではなく、刺されたような反応だ。
最近出来た殴打痕はこの3つ。
しかし1週間前とのことで、どれも治りかけている。
良かった、この程度なら計画は遂行できるか。
だが、何度も繰り返されては支障を来たす。
「ねえ、この傷どうしたの? 詳しく教えて?」
耳元で囁くと、彼女は一瞬言葉に詰まりながらも、口を開いた。
「……1週間前。貴方と別れたすぐ後、人が来る予定があったの。
内縁の夫のような人よ……言い過ぎかしら、彼氏ね」
「その人から、よく殴られる?」
エリザは小さく頷いた。
「船渠の仕事をしていて、基本的にはこの部屋を留守にしがちなの。
でも帰ってきたら、私のことを殴るわ」
ハイドは悲しげに目を伏せる。
「そう……可哀想に」
唇を重ねた。
女からは見えないところで、ハイドの目は鋭く冷たく細められ、思考を過らせる。
今、その内縁の夫とやらは居ない。
この隙に、エリザを何処かへやってしまった方がいいかもしれない。
あまり彼女の体に傷がある印象を、世間に植え付けたくなかった。
「……ねぇ、何を考えているの?」
唇を外しても、視線が合わないハイドを変に思い、エリザが声をかける。
ハイドは一度瞬きし、計画へ馳せていた暗い視界を一旦閉じた。
「貴女の彼氏さんについて」
ハイドは悲しげに目元を震わせながら、エリザの首元に顔を埋める。
「愛してるの?」
「そんなわけ……っ」
エリザは首を左右に振った。
「どうやって逃げたらいいかわからないの……!」
なるほどね。
ならばこの先は、彼女ひとりでもちゃんと動いてくれそうだ。
変に情があると言われてしまえば、説得に時間を費やすところだった。
「次はいつ帰ってくるの?」
エリザはハイドの背を抱いた。
まるで甘えに乗って来た子犬を抱くように。
「3日後よ」
そうか。ならば急がねばなるまい。
ハイドは彼女の首筋を唇でなぞり上げ、耳元へ囁いた。
「前に言ってたよね?」
故郷へ帰りたいって。
エリザの目が、戸惑うように開かれる。
「……ええ、言ったわ」
「どう?」
「どう、とは?」
ハイドは面を持ち上げると、エリザと目を合わせ、言った。
「帰る?故郷に」
2人の間に、契約の色が落とされる。
唐突に差し伸べられた手。
取らない理由があるだろうか。
エリザは縋るようにハイドの体を引き寄せた。
◇
「出港は、2日後の……」
朝。夜。どちらにするか。
ハイドはブラウスの袖に腕を通しながら、少し考え、朝、と指定した。
港……つまり、セント・キャサリン・ドックでの出港になるだろう。
ドラキュラ伯爵の領域に足を踏み入れることになる。
彼が何者かはわからないままだが、ジキルが考えるには、エルフか吸血鬼とのこと。
どちらにしても、朝ならば人目があるし、迂闊に手出しはできないはず。
エリザは薄いシーツに包まったまま、気怠い肢体を少しだけ上げ、ハイドを見た。
「でも私、お金が」
「ああ、気にしないで」
ハイドは寝台に腰掛け、エリザの額に口付ける。
「それくらい用意できるから」
「それくらいって言っても……」
とてもではないが、庶民に用意できる金額ではないはずだ。
それでも彼は、大丈夫、と低い声で耳打ちしながら、シーツ越しに腰を撫でた。
先程まで愛でられた箇所に再び手のひらが添えられ、エリザが身震いする。
「それより大事なのはね」
ハイドの手は静かに背を這い、肩へ。
頬を一度撫でると、ゆっくりと顎を持ち上げる。
エリザの身体が自然に反れた。
ふと、子犬のように見えた目前の男に、鋭い獣の影を感じ、胸の奥で微かに不安が過ぎる。
私は睨まれている?
闇の奥から輝く、両の目に。
ハイドとエリザの視線が合わさった。
「貴女の彼氏さん、船の整備をしているんでしょ?」
男は目を細め、笑んだ。
「貴女と彼氏さん、どうやって出会ったの?
共通の知り合いはいる? 船員だと嬉しいけど」
エリザは強張る唇を開き、言葉を紡ぐ。
「……いるわ」
船員の知り合いなら、いる。
「ならば話は早い」
ハイドは更に笑みを深め、エリザの顎から手を離し、再び肩へ手を滑らせた。
「明日の夜、会わせてもらえます?
それまで私の方で、必要なものは整えますから。
貴女は貴女で、荷物をまとめておいてくださいね」
ハイドはブラウスのボタンを留める。
「荷物は出来るだけ最低限。
衣服と、小銭と……ああ、あと、発つことは誰にも言わないように。
大家にも」
ベストを羽織ったところで、彼女から何の返事もないことに気付いた。
ハイドは彼女を振り返る。
「えっと……わかりました?」
「ねぇ」
エリザはシーツを纏いながら、身を起こした。
その面差しは少し不安げだ。
「貴方は……どうしてここまでしてくれるの?」
どうして?
そんなの、己の利益の為に決まってる。
決まりきったことを聞かれ、
思わずハイドは、なんの感情もない顔を、エリザの前に晒してしまった。
その冷たい面差しに、エリザは目を見開く。
背筋が粟立つ。喉が鳴る。
明らかに怯えを孕んだ表情だった。
いけない。
ハイドは瞬時に笑顔を貼り付け、なるべく邪気を無くして小首を傾げた。
「当たり前じゃない?好きな人が困ってるんだもの」
しかし今更子犬ぶっても、ハイドは晒し過ぎた。
エリザはハイドを見つめる。
その真の姿を見定める為に。
「……本当のことを言って」
愛らしい演技も化けの皮が剥がれれば、ただの薄気味悪い人形と一緒。
男はエリザに気取られたと知ると、
浮かべていた無邪気な笑みを、上がっていた口端を、ゆっくりと下げた。
目元からも感情の色が抜け、先程見せたばかりの冷酷な表情が姿を現す。
「貴女は故郷へ帰れる。私は貴女をロンドンから出せる。なんの問題もないはずだ」
そう、何も。
薄く策略の香りを立ち上らせて、彼はそれ以上は語らなかった。
去る者に詳細を話す必要はない、とでも言うように。
エリザはハイドから目が離せない。
私は何かに利用される。
「よかったですね、もう直ぐ帰れる」
ハイドは口の端だけを軽く上げ、唇の形だけを整えた。
「明日の夜が楽しみだね」
そして彼はエリザの髪の中へ指を差し込み、ゆったり撫でた。
優しい手つきだが、これは駆け引きだ。
互いを利用し合おうではないか、という誘導。
彼は、ただ憐れな者を慈しんで故郷へ帰そうとしているのではない。
この娼婦の存在をなくしたいのだ。
事情はわからない。
しかしそれだけわかれば充分だ。
ただの親切だと言われる方が、猜疑心が募るというもの。
エリザは改めて、ハイドを見やった。
わかった、その甘言に乗る。
悪魔の提案でもなければ、故郷に帰るという夢物語など、叶えられるはずがない。
とんでもないものに飛び付いてしまった。
それでも、この状況を脱することができるなら。
私は、なんでもする――なんでもできる。
ハイドの撫でる手が、頬に落ちてきた。
エリザはそれに、自分の手を重ねる。
それは決意というより、
悪魔に囁かれて信じ込まされた幻想に近いことを、
彼女は知る由もない。
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