第2話 路地裏での解体
カルー卿との邂逅から1週間が経つ。
あまり状況が進展しないまま、例の金髪碧眼の男の来訪もあり、ジキルは疲弊していた。
特に先程の男とのやり取りは……思い出すだけで吐き気を催す。
ロンドンの夕陽が闇に染まる頃、胸のうちをどうにも持て余し、
ジキルは実験棟にて、ひとり机に向かい、縋るように内服した。
ごくりと喉が嚥下に動く。
しばらく待てば、体の内側が蠢き始めた。
皮膚のすぐ裏で、ごそりと蜘蛛が這うかのように。
ひとつが動き始めれば、我も我もと犇めき淀む。
脚が血の管を打つ。
喜んでいる。
ジキルの呼気が荒ぶった。
血流に乗り、全身へ網を行き渡らせようと、それらは走る。
無遠慮に体の中を荒らし、跳ね回り、これから何が狩れるのか楽しみだとでも言うかのように。
やがて全身に巣が巡った頃、ジキルは失神した。
椅子に投げ出される、力の抜けた体。
頭は支えきれず、上体がゆっくり前に傾く。
受け身を取る術はなく、それはただ、勢いよく机に打ち付けられた。
ごつ、という鈍い音が響き渡る。
それきり彼は、動かなかった。
室内に、しん、と静寂が落ちる。
窓から差し込む銀色の光は、室内で浮かぶ埃をただただ照らしていた。
机に伏す男の伸びた影が、音もなく形を変える。
少しばかり華奢で、しなやかで、しかし強かな印象へ。
数分後。
男は何事もなかったかのように顔を上げた。
ジキルではない。
青白い肌に、赤い唇。
艶やかな黒い髪、月のような銀の瞳。
ハイドの姿が、そこにはあった。
ハイドは立ち上がる。
「っつう……」
……額を押さえて。
「……ったく、勘弁してよ」
ハイドは机をパンと叩くと、実験棟を後にした。
◇
ジキルの服は、ハイドには大きい。
人格を交代後は、自室で着替えることが日課であった。
ジキルの背広をベッドの上に落としながら、ハイドは思い出す。
交代の瞬間、頭の中へ流れてきた昼の記憶を。
玄関の門扉がノックされる音に、おそるおそるプールが応対してみれば、カルー卿の予告通り、そこには本当にあの男が居た。
「進捗は如何か」
特に挨拶をするでもなく、第一声から薬の催促である。
ジキルは眉を顰めた。
たった1週間で、状況が変わるわけもない。
「……本日は、お引き取りを」
中に入れる必要はないだろう。
ジキルは不安がるプールを押し除け、自ら玄関先で応対した。
昼間のはずなのに、なぜ目前の彼の輪郭だけが、影の中にあるように思えるのか。
体格はどちらかと言えば、己より少しばかり小柄だ。
しかしやけに響く声色が、ジキルの本能の部分に訴えかけるようで恐ろしい。
「なるほど。では、今日のところは退かせていただくが……」
男は帽子のブリムを持ち、軽く位置を整えつつ、切長の瞳でジキルを見やる。
「カルー卿へ薬をお渡しすること、ゆめゆめお忘れなきよう」
「ああ、気味が悪い」
ハイドは記憶の中の、金色の髪を持つ男に毒付いた。
「そんなに薬が欲しいものかね」
ハイドはクローゼットから己のブラウスを取り出し、袖を通す。
この薬は、世間で悪とされる容貌を引き出すだけだ。
特に凶暴性を上げる作用はない。
「本当に失礼な男だよ、カルー卿は」
誰が残忍だ。
1週間前の、奴の発言に舌打ちした。
暗い色の上着を羽織り、鏡の前でクラヴァットを巻く。
かつて精神論者が提唱した悪を象徴する容貌が、そこに映し出される。
ハイドは胸元に落としていた視線を、ゆっくりと己の銀の瞳に合わせた。
そんなにこの人格を残忍というならば……
相応しい方法で、もてなしてやろう。
「後悔する間もなく、な」
ハイドは、鏡に向かって笑んだ。
◇
夜道の中、ハイドは疲れたように石畳を歩く。
見つけなきゃよかった、自室の机の上のメモなんて。
ハイドは胸ポケットからそれを取り出し、書かれてある内容を再確認した。
――カルボリック酸とグリセリン液を150ccづつ、小瓶に。
ジキルはジキルで取り敢えず、人間の衝動性を高める薬を作ろうとしているらしかった。
脳に成分を移行させるための薬物を作ろうと躍起になっていた姿から察するに、小動物の脳を保管する溶媒が欲しいのだろう。
そんなものは昼の間に買っておけ。
悪趣味過ぎる上に、この時間ではホワイトチャペルぐらいしか開いている薬局はない。
「どこだ……ああもう」
こういうときに限って、灯りのついた薬局に当たらない。
うろうろ適当な路地裏に入り込み、それらしいものはないか探す。
排水溝、下水、ネズミの死骸……生臭い匂いが立っていた。
酒場の喧騒はどこか遠く、大人の無邪気な声が気配として漂う。
この土地は、夜が深まってもまだ眠らない。
……と、とある家屋の裏口に当たる場所だった。
濃い鉄錆の匂いを感じ、ハイドは振り返る。
人通りのない中、目深に黒いローブを羽織り、片膝をついて何らかの作業をする影がある。
目を凝らすと、傍らには女も倒れていることがわかった。
月明かりがその者の手元を照らせば、銀色のナイフが握られていることが知れた。
刃先は光を反射させながら、女の体へずぶりと埋まる。
そのまま横へ引くと、切り口より溢れる赤い血が伺え、何やらただ事ではないとハイドは悟った。
足が止まり、思わず見入る。
「なんだよ、見せもんじゃねぇぞ」
ローブの下から見える口元から発されたのは、男の声だった。
顎の形の印象では青年を思わせるが、口調も鑑みると、思ったより若いのかもしれない。
先程埋めたばかりのナイフの刃先を引き抜き、切先をハイドへ向ける。
血糊が、ハイドの足元へ威嚇の如く飛んだ。
「運が良かったな。俺は女しか殺さない。男なら見逃してやるぜ、どっか行きな」
強めの口調で告げると、彼は再びナイフを女の体へ穿つ。
よく見れば、既に女の首筋は裂かれていた。
今、刃の彷徨う場所は、開かれた腹部とその内側。
これは一体なんの光景だろう、とハイドは思案する。
そういえば1週間ほど前に、首と腹部が切り刻まれた凄惨な死体が見つかったと、新聞で読んだ気がする。
では今、自分はその2番目の事件に立ち会っているのだろうか。
ともすれば、男の迷いのない手つきに、興味が出てきた。
飛ばされた血糊を踏み越え、そっと横から手元を覗き込む。
ナイフは確かに腹腔内を刻んでいるが、決して荒らしているわけではない。
癒着を剥がすような動作で、手首の角度は皮目に添い、刃を引くように滑らかに切る。
それはまるで、バイオリンの弦を横弾くかのように見えないか。
次に臓器の損壊を避けるよう、黒の皮手袋をまとった手で包むように差し入れ、掬い上げる。
彼はおそらく、どこにどのような臓器があるか、把握している様子だった。
思わず口元を手で覆う……が、吐き気ではない。
それよりも感動が先に立っていた。
素晴らしい。
ハイドは息を飲む。
これは破壊ではない。解体だ。
「……ちょ、どっか行けって行ったじゃん。やり辛いんだけど?」
気付けばさらに距離を詰め、脇の下から覗き込むような姿勢をとるハイドに、むしろ男の方が戸惑う。
「……見逃してくれるんでしょ?」
上目遣いで見やれば、彼は舌打ちした。
「なんなのマジで……ちょっと気持ち悪いね、お前」
だる、やる気失せたわ……と呟くと、男は臓器を打ち捨てる。
膝を伸ばして立ち上がり、ぺっと手を払うと、手袋についた血糊を地面に飛ばした。
右手の中のナイフをくるりと指で回し、ぼやく。
「いや、しくったわ。見逃すんじゃなかった。今度俺のことを見かけても、無視で頼むな」
無造作に腰へナイフを差すと、この場を立ち去ろうと踵を返し……
――逃がすには惜しい。興味深い。
かけたところへ、ハイドがすかさず声をかけた。
「あ、ちょっと待って」
「ああん?」
男は律儀に、首を傾げて応じた。
「んだよ」
ハイドは男の横に並び、口を開く。
「薬局って……どっちです?」
「…………」
男は口をポカンと開けた。
こいつ誰に道を聞いてるんだ、そう言っているように見えなくもない。
「……あっち」
彼の指す方向へ、ハイドは首を動かした。
「よかった、助かった」
ありがとう、と手を挙げ、ハイドは教わった方向へ歩みを進めた。
男も思わず手を挙げかけ……いやいやと慌てて降ろす。
なんだアイツ、くっそ不気味だな。
「いや、本当に助かった」
一方で、ハイドは独り言ちた。
口の端を引き上げ、笑う。
――ちょうど良いナイフを探していたところだったんだ。
振り返ると、そこにもう青年の影はない。
しかし、先程横に立った印象を思い返す。
目線は変わらなかった。
ナイフを振り上げる姿や、厳つめのブーツを履いている印象から、体格は大きく見えたが、つまりハイドとそう身長は変わらない。
さて。
自分を無視して欲しい者が、薬局の方向を教えてくれた。
となると、彼が姿を消す方向は……
「とりあえず薬局が先だな……」
ハイドは歩みを早めた。
◇
「カルボリック酸?」
青年に教えてもらい、やっと辿り着いた薬局で。
薬剤師が、頓狂な声を上げる。
「この時間に、わざわざそんなもの買いに来たの?」
「……この時間だからでしょ?」
ハイドは早く寄越せと、カウンターを指先で軽く叩いた。
「急に夜中に前髪を切りたくなるように……部屋の模様替えをしたくなるように……溶媒が欲しくなる奴も居るんですよ。ウチの同居人がそれです」
ええ?と薬剤師が眉を顰める。
ジキルがハイドに買い出しを頼んだ理由のひとつが、これだ。
カウンター越しの簡易な用途と身分確認、もとい尋問。
初対面の他人と話すことが苦手な男は、自分の素性もうまく話せない。
欲しいものはプールに、疾しいものはハイドに頼むのが常であった。
「……というのは冗談で、モーニング・ジュエリーを作るために、ちょっと必要でね」
使う部位は脳という、前衛的なジュエリーだが……とは言わず、処理に使うのさ、とそれらしく付け足してやる。
目の前の薬剤師は納得げに頷くと、茶色の褐色瓶を手に取った。
蓋を開けば、甘やかな独特のアルコール臭がする。
まるで絵画を溶かしたような香り……ハイドは嫌いじゃなかった。
2つの小瓶にカルボリック酸、グリセリン液が注がれ、紙袋に包まれる。
店を後にして、ハイドは早速青年を見つけることにした。
薬局と相対する道筋を辿る。
すれ違う人に、尋ねた。
「ローブを抱えた、私と同程度の背丈の青年は見かけました?」
◇
「なんでよ??」
薬局とは反対方向の酒場にて。
赤髪の青年が、不満気に頬杖をついてハイドを見ていた。
「俺、無視しろっつったじゃん?なに速攻で見つけてくれちゃってんの??」
「まぁまぁ」
ハイドは青年がテーブル席へ着いているのを良いことに、対面する形で座った。
「君、目立つの自覚した方が良いですよ。すぐ見つけられた」
足元で無骨に丸められたローブへ視線を落としながら、ハイドは言う。
よく見なければわからないが、血の気配がどことなく漂っていた。
「こんな目立つの抱えて歩いたら、そりゃ衆目に晒されますよ。ちょっと聞き込めば、すぐ辿り着けました」
「うっせーな……」
図星を刺された自覚はあるようで、青年は舌打ちする。
踵でローブを寄せ、少しでもハイドから遠ざけようとしていた。
「いや、君に聞きたいことがあって……ああ、ちょっと」
ハイドが手を挙げて、通り過ぎようとしていた店員を呼びとめた。
「スコッチを」
「いや、帰れって」
青年がうんざりと、背もたれに体重をかける。
「そんなこと言わず、仲良くしましょうよ、ね?」
ハイドはにっこりと目を細めた。周囲の喧騒に紛れさせるように、言葉を挟む。
「君、男は殺さないって言ったでしょ。殺すのは女の人だけ?どうして?」
突然の確信めいた質問に、青年は鼻白む。
「殺すって言うか……開きたいから大人しくさせた。それだけ」
「何か違いがある?」
ハイドは間髪入れずに、目の前の存在へ質問を投げた。まるで商品の値踏みをするかのように。
「お前はモノを丁寧に分解するときって、どんなときだよ、逆に」
立て続けの質問に、青年も何やら査定されていることは察した様子だった。
意趣返しのつもりか、ハイドへ問い返す。
ハイドは顎に指を添え、考えた。
「……構造を理解しようとするとき」
「一緒だよ」
彼は目の前のグラスを掴み、傾ける。
残りのエールを全て喉へ流し込むと、空になったグラスの底を、テーブルへ叩きつけた。
「俺も知りたいだけさ。あの年頃、あの職業の、女ってやつを。体を開けば、そいつがどんな奴がすぐにわかる」
口元を袖で拭い、席を立つ。
が。
「へえ……興味深い」
ハイドが足を伸ばし、ローブを踏みつけた。
「ちょ!」
青年がどれだけ引いても、ローブはハイドの足元で縫い止められたまま、びくともしない。
「てめ……」
ハイドを睨みつけたところで、折よく店員がスコッチを手にやって来た。
テーブル下の攻防に気付く素振りもなく、そのまま去ろうとする。
「ああ、待って」
ハイドは再び手を挙げ、店員を呼び止めた。
「彼にも、先程と同じものをもうひとつ」
「くそ……ッ」
彼は苛立たし気に赤髪をかきあげる。
注文は、延長戦と受け取ったらしい。
仕方のない様子で、椅子へ腰を落とした。
再び頬杖を付くが、今度は先程よりも視線が鋭い。
今はまだ、この男を逃すわけにはいかない。
ハイドは口元の笑みを崩さず、真っ直ぐ目の前の青年を見た。
遺体を損壊し、路上に放置する。
ただの猟奇に思えるが、彼の場合は少し違う。
おもちゃを分解したままお片付けをしない、そんな幼児性に通じるものがある。
言葉の通じぬ獣ではない。
ちゃんと彼なりの理論で動いている辺りに、好感が持てた。
「君、字は書けるの?」
「書けない」
青年は頬杖を解き、口元を歪ませる。
「なに?バカにしてる?」
「いや?」
ハイドは微笑みを絶やさない。
威嚇するということは、怯えているということだ。
なるべく青年を刺激しないよう、優しく努めなければ。
そうだな、まずは新しいおもちゃをあげよう。
「君みたいな派手好きが、真っ先にやりそうなことを全くやっていないから、そうなのかなと思っただけですよ」
青年を見る。
髪色は赤というだけで目立つのに、髪型は一見乱れているように見えて、毛先を遊ばせ小洒落ていた。
瞳の色は金。
耳にはピアス数点。
指は……先程は手袋をしていたので気付かなかったが、何個もの銀色の指輪がゴツゴツと嵌め込まれており、やり過ぎているくらいだ。
パッと見ただけで、自己主張や承認欲求が胸の内で疼いてそうな若者である。
この彼が、遺体を崩して路上にそのままにするだけ、というのは、何か不自然な気がした。
「ねぇ、解体するだけで満足なの?」
ハイドの言葉に、ひく、と青年の指が動く。
「……どういう意味?」
「本当は、気付いてるでしょう?開くだけじゃ足りないって」
おもちゃは分解するものではない。
遊ぶものだ。
その方が君も楽しいし、大人はいつだって、無邪気に遊ぶ子どもの姿を眺めて喜びたいんだよ。
「ねえ。私と一緒に遊ばない?」
「へ?」
「君を王様にしてあげる……悪くないだろう?」
何を言ってる?
ジャックが眉を顰めたときだ。
空気を読まない店員が、ジャックの前に追加のエールのグラスを置いた。
ハイドへ目配せをする。
多分、もう呼ばないよな?という確認だ。
大丈夫、と手を挙げて答えると、店員は満足気に立ち去った。
2人の間のアルコールの香りが、少し増す。
甘やかなそれが、周囲の喧騒を少しだけ柔らかくするようだった。
ハイドは僅かばかり、身を乗り出した。
「みんなが君の噂をする。何年、何十年……あるいは、誰も知らぬ未来まで。歴史の表には立たないかもしれないが、小声で囁かれながら、名を恐れ伝えられる……まるで暴君のように」
「………………」
青年は口を開き、少し黙る。
視線は頭上にあり、まるで自らの思考を覗こうとしているかのようだ。
多分、彼なりに考えている仕草なのかもしれない。
こうして見ると、どことなくあどけない顔をしており、年相応の若者に感じられた。
全く凶悪な犯罪を起こしそうに見えない。
「……ふうん?」
やがて、彼の口から相槌が漏れ、にやりと笑む……考え終わったか。
彼は再び頬杖を付いた。
しかしその表情に、もう険しさは滲んでいない。
「お兄さん、名前なんてーの?」
ハイドは口の端を引き上げた。
「エドワード・ハイドです」
「うわ、今の笑み悪人面だねぇ?」
青年は揶揄うように笑う。
「まぁ、いいわ。利用されてやるよ」
彼は手を差し出した。
「ジャック。よろしくねえ?」
ハイドもまた手を差し伸べる。
目の前の赤髪の男……
ジャックとの交渉が、成立した瞬間だった。
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