第38話 受けた傷は他人に返す!

 水野雄太は、ボディビルでの肉体的な成功と、闇バイトのスリという違法な行為の間で、精神の均衡を失っていた。彼は美咲の入院費と自己の生活費を稼ぐため、闇の仕事を続けていたが、肉体が強靭になるほど、彼の内面の潔癖さと強迫観念は増していった。

​ その強迫観念の源流は、もちろん、金田大介によって強要された食品工場の**「完璧な清掃」**のトラウマだった。清掃を怠れば、金田の安全靴が飛んでくる。この恐怖が、水野の脳に深く焼き付いていた。

​ ある日、水野は闇バイトの連絡役として、ある雑居ビルの地下駐車場で、末端の運び屋の男と接触していた。男は、取引の前に手に持っていた缶コーヒーを飲み干し、無造作にその空き缶を足元の隅に置いた。

​「おい、そこ」

​ 水野の穏やかな表情が一変した。

​ 運び屋の男は、水野の威圧的な肉体と、急な剣幕に驚き、振り返った。

​「え? なんすか」

​「その缶。そこに置くな。ゴミ箱に捨てろ」

​「ああ、後で捨てますよ。急いでるんで」

​ 男が軽くあしらおうとした瞬間、水野の体が動いた。ボディビルで鍛え上げた鋼の体が、瞬時に男の前に立ちはだかる。水野は、男の顔の数センチ先に、自分の巨大で血管の浮き出た拳を突きつけた。

​「今、捨てろ。お前は、汚いものを残してもいいと思ってんのか?」

​ 水野の目は、かつて金田が自分に向けた、狂気的なまでの支配欲と苛立ちを帯びていた。

​「この場所は、お前らのゴミを捨てる場所じゃねえ。この一帯を汚すな。お前がゴミを一つでも残せば、誰かが不利益を被る。分からねえのか!」

​ それは、かつて金田が水野自身に浴びせた**「指導」の言葉だった。水野は、金田の暴力から逃れたが、その暴力を振るう金田の精神**を、自分の中に受け継いでしまっていたのだ。

​ 男は、水野の体躯と、その目から発せられる本気の殺気に、完全に萎縮した。闇バイトの人間は、力の強さがそのまま支配力になる世界だ。男は震えながら、空き缶を拾い上げた。

​「す、すいません! すぐに捨てます! ちゃんと捨てますから!」

​ 男は、恐る恐る近くのゴミ箱に缶を捨てた。

​ 水野は、男がゴミを捨てて、元いた場所の床を**「確認」**するまで、その場を動かなかった。

​「……よし」

​ 水野が低い声で言い、ようやく拳を下ろした。

​彼は、自分の行動に恐ろしいほどの自己嫌悪を感じた。彼は、金田から逃れるために体を鍛えた。しかし、その結果、彼は新たな金田となり、「清掃」というトラウマの行為を通じて、弱い他者を支配する暴力を行使していた。

​ 水野の肉体は、金田の暴力に勝利したが、彼の精神は、金田の支配に完全に敗北していたのだ。

​ 彼は、闇の仕事で得た金と、鍛え上げられた肉体を持ちながら、孤独に立ち尽くした。水野の戦いは、**「清掃の完璧さ」**という名の、終わりのないトラウマのループに陥っていた。

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