第25話 鍛えにゃならん
熊に遭遇した「大禍山」での極度の恐怖と、胃潰瘍の痛みに苛まれながら、水野雄太は都会へと戻ってきた。彼は美咲の入院費を稼ぎ続けなければならなかったが、精神は限界だった。常に警察を警戒し、闇バイトの指示に怯え、そして何よりも、金田の暴力から逃れた自分自身への罪悪感が、彼を苛んでいた。
彼の精神は極めて脆弱になっていたが、その反面、水野の肉体は、飢餓と緊張、そして工場での重労働で鍛え抜かれていたため、驚くほど頑丈だった。彼は、胃潰瘍と精神的なストレスに晒されながらも、倒れることなく闇の仕事をこなしていた。
ある日、水野は美咲の病院の帰り道、ふと目に入った24時間営業のジムの看板を見上げた。彼は、自分の人生を支配している「恐怖」に対抗するための、新たな手段を無意識に求めていた。
「これ以上、何も失いたくない……」
彼は、金田に蹴られ、警察に追われ、熊に脅かされたとき、いつも自分の**「無力さ」に絶望した。 水野は、せめて外側だけでも、誰も手出しできないような強靭な鎧**を身に着けようと決意した。
水野は、闇バイトで稼いだ金の一部をトレーニングウェアとプロテインに充て、ジムでの生活を始めた。彼の肉体は、精神的な苦痛をエネルギーに変換するかのように、驚異的な速さで変化していった。
彼は、胃潰瘍の痛みを**「筋繊維の悲鳴」**だと無理やり解釈し、高重量のバーベルを挙げ続けた。
広背筋を鍛えるデッドリフトを行うとき、背中に乗る負荷を、金田の重圧や闇の重圧だと想像した。
鏡に映る自分の肩や腕の筋肉が隆起していくのを見るたびに、彼は**「これで誰も俺を蹴れない」**と、幼い自己暗示をかけた。
数カ月後、水野の体は、かつての食品工場の派遣社員とは似ても似つかない、彫刻のような強靭な肉体へと変貌していた。胸板は厚く、腕には血管が浮き出ていた。彼は、**「マッチョ」**と呼ばれるにふさわしい、屈強な外見を手に入れた。
ジムのトレーナーや他の会員は、彼の黙々と集中したトレーニング姿勢に一目置き、畏敬の念をもって接するようになった。
水野は、トレーニングを通じて一時的な解放を得た。バーベルを握っている間だけは、金田への憎しみも、美咲への罪悪感も、闇バイトへの恐怖も、すべてが**「筋肉」**という名の現実に変換され、忘れられた。
しかし、彼の精神は、その肉体の成長とは裏腹に、全く癒えていなかった。
彼は、トレーニングが終わると、またすぐに闇バイトの連絡に怯え、病院の美咲の病室へ向かう。美咲は、彼の変化に気づいていたが、その鋼のような肉体を見て、かえって疎外感を抱いた。
「雄太、なんだか、怖いよ。そんなに体を大きくして、一体何と戦ってるの?」
美咲の質問に、水野は答えることができなかった。
(俺は、何も失わないために、強くなったんだ。俺の精神が弱いから、肉体で盾を作ったんだ)
水野は、肉体的な強さを手に入れたことで、外見は支配者のように見えたが、その内側は、金田の暴力と闇の追跡に怯える孤独な敗残者のままだった。
彼のマッチョな肉体は、彼の弱い精神を覆い隠すための、虚ろで巨大な鎧でしかなかったのだ。
彼は、この鋼の肉体を使って、本当に金田の暴力を克服できるのだろうか。それとも、この強靭な体で、闇の深みへさらに沈んでいくのだろうか。
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