第5話 ​ぷよぷよと腹痛

 苦鬼駅のホームで夜を明かした石山は、翌朝、始発の電車が動き出す頃に、ようやく重い体を引きずって家に帰った。彼の腹の中は、夜通しの緊張と、ホームの冷気で冷やされ切っていた。

 ​その日の午後、彼は激しい腹痛に襲われた。へその右下あたりが、脈打つように痛む。彼は当初、ただの胃腸炎だと思ったが、痛みは時間とともに鋭さを増し、脂汗が滲むほどになった。

​「う、うう……」

​ 痛みに耐えかねて、石山は救急車を呼んだ。運ばれた病院で下された診断は、急性虫垂炎、いわゆる盲腸だった。

​ 緊急手術となり、石山は痛み止めと麻酔に意識を沈めることで、つかの間の解放を得た。しかし、目を覚ますと、今度はベッドの脇に置かれたスマートフォンが、彼の現実を突きつけた。着信履歴には、人事部長からのメッセージ。

「すぐに連絡しろ。出勤しない理由を説明しろ」

​ 手術から三日後、まだ腹部に痛みを抱えながらも、石山は会社を辞めることを決意し、人事部長に電話をかけた。金田からの暴力については、言葉が詰まり、結局「体調不良」として曖昧に濁してしまった。人事部長は淡々と「退職手続きを進める」とだけ言い、それ以上の深追いはしなかった。

​ 金田の暴力という精神的な病から逃げるために、石山は身体的な病という壁を必要とした。

​ 退職手続きを終え、病院から自宅に戻った石山は、社会から完全に孤立した。家賃と生活費のために、彼は日雇いの単発アルバイトを探し始めた。

​ そして、ある日、彼は人手不足の解体現場での作業に就いた。コンクリートの建物を壊す作業は、食品工場のような衛生的な環境とは真逆の、粉塵と騒音の世界だった。

​ 解体作業初日、石山は作業中に舞い上がる大量のコンクリート粉や煤を吸い込んだ。その夜、彼の呼吸は急激に苦しくなった。

​ ヒュー、ヒュー……

​ 細く、掠れた呼吸音。幼少期に患っていた喘息が、過酷な環境とストレスで再発したのだ。彼の肺は、金田の暴力から逃げた後も、外の世界の理不尽な空気によって、その自由を奪われた。彼は吸入器を握りしめ、苦しみながら一晩を過ごした。

​ 喘息の薬代、病院代。虫垂炎の手術で減った蓄えは、あっという間に底を突きそうになった。

​ さらに、彼の不幸は身体の表面にも現れた。解体現場での作業中、石山は誤って溶接の火花を手の甲に浴びてしまった。

​ 慌てて冷やしたが、火傷の痕は赤黒く盛り上がり、ケロイドとなって残った。

​ それは、まるで工場でのトラウマを、今度は自分自身のミスで手の甲に焼き付けたかのようだった。

​ 彼の体には、今や三つの傷跡が刻まれていた。


 ​右脇腹のアザ:金田の暴力(権力)の傷。

​ 腹部の手術痕:逃避(精神)を正当化するための傷。

​ 手の甲のケロイド:社会(労働)の厳しさに触れた傷。

​ ある夜、喘息の発作が少し落ち着いたとき、石山は鏡の前に立った。痩せこけた体には、虫垂炎の手術痕が痛々しく残っている。手の甲のケロイドは赤く主張している。

​ しかし、最も彼を苦しめていたのは、目には見えない心の傷だった。

​ 彼はスマートフォンを手に取り、また**『ぷよぷよ』**を起動した。カラフルなぷよが落ちてくる。

​彼は、もう会社にも、工場にも、そして健全な労働という場所にも戻れないことを知っていた。

​ 石山剛は、身体的な病、怪我、そして喘息という病の連鎖によって、金田という一人の人間が与えた恐怖の支配から、さらに深い、出口の見えない不幸の連鎖へと落ち込んでいった。

​ 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る