フェンリルの檻
推草風時
第1話 フェンリルの呪い
きっかけは寝室に現れたリンという幼い少女の霊であった。
彼女は生前実家にいた母親と喧嘩してしまい、仕事場である蝮原市の住宅街にある
この來之原家に家出してきてしまったのこと。霊感のある父親であればこの問題などサクッと解決できるようなものではあるのだが、僕の場合に至っては知らぬうちに憑りつかれてしまうようなうっかり体質なため、霊の気配を察知する前には自魂と同化しているケースがある。
そのためか、僕は毎回のごとく妖怪や幽霊に憑りつかれては彼らの悩みを聞く不可思議な生活を送っていた。
「リンちゃん、大人のお姉さんみたいなことがしてみたい!」
そう頼まれたのだが、もちろん人間である僕には幽霊であるリンちゃんのやりたいことに賛同できる自信がなく、ただお腹の上に乗ったままの彼女を放置したまま、悶々とした日々を送っていた。
2020年(令和)10月23日 夜 8時30分にて
階段を降りてリビングへ向かう途中、耳元で酒場に酔う男たちの声がしてきた。
「俺たちが来たんだよな!!」
「そうだよなあ!なああんちゃん!」
声色だけでは人数と性格を特定するのはとてもじゃないが簡単ではないことは確かであろうに。だがそのうちの一人はまるで酒飲み仲間を誘うかのように僕の耳元でこう囁いていたのだ。
「なああんちゃん?お前は女たちの言う結婚のある暮らしに興味はねえか?」
当然僕には高校時代に付き合っていた彼女以上友達以内とも言えるクラスメイトの友人がいたにはいたが、ある日、自宅で起こしたある間違いによってその友情と絆はいともたやすく壊れてしまった。もちろんその後は言うまでもないが、卒業前の帰り道で云われた一言はただ一つ。
「二度と私に近づかないで」
別れ際ともいえるその最後の言葉を胸にミステリー作家として生きてきたこの数年間、まさか異世界の使徒でもないかぎり、こんな疑問を投げかけられるような年頃になるとは思ってもみなかった。
「どうしたの?憲ちゃん?」
霊の姿の見えない母親に心配の意味を込めた言葉を投げかけられ、酒酔いの男たちの幻聴を無視し、夕食の食卓に着いた僕であった。
だがこの幻聴の悪夢はこれで終わりではなかった。
2020年(令和)10月23日 夜 9時45分にて
夢の中にて。朝早くに起きた僕は二階から階段を降りてリビングに向かうと、そこにはいつも仕事で忙しいはずの母親が作り置きしている朝食を食べようとテーブルの席に腰掛けたその時であった。
「汝に神々が私にかけた愚者の呪いをお前に託す・・・」
一瞬意味が解らなかった。というのもこの時は出版のための実費を稼ぐための仕事が見つからずに途方に暮れていた時期であったため、少なくとも昔ネットで聴いたアーティストの音楽やアニメの再放送音声が脳内ITunesにて再生されていたぐらいである。だがそれとは比べ物にならないくらいの非常に奇妙で不可思議な出来事であった。
「我こと北欧の幻獣は汝が勇者グレイブニルに打ち勝たんとすることをこころから
そう願っている」
そう言い残したかと思うと今度は朝食に手を伸ばしていた手が何者かによって強引に引っ張られると同時に耳元で外出を促すような言葉を投げかける輩がそこには存在していたのである。
「相棒!!そこ出て神々の神殿に行くがよい!!」
そう言われるがままに僕の足はいつのまにか太陽が昇る前の深夜の世界に変貌した悪夢に今にも飛び出しそうになっていたのである。
―――憲佑くん?
その時、背後でリンちゃんの声がしたような気がした。僕は後ろを振り向こうとするも、その後ろには引きちぎらんばかりの腕力で食らいつこうとするケダモノがいるような気がしてならなかった。
「ごめん。リンちゃん」
僕は玄関に目を向けるとドアノブに手をかけ、この悪夢から逃れようとした時であった。
―――行っちゃ駄目!!憲佑くん!!
再び声をかけられるとともに僕は布団から目を覚ますと、いつのまにか僕の身体はガラス張りの檻に入れられた動物のようにうずくまっていた。
「ここは・・・病院・・・?」
不覚にも僕は霊との交友関係をきっかけに実の両親から精神異常を疑われてしまったようである。そうか。僕はそこまで彼らの存在に気がつかないほど喋りこんでしまったか・・・。
「昼食です。來之原さん」
ぼんやりとガラス張りの檻を眺めていると、入り口から看護婦が食事と服薬剤を並べてこちらに持ってきた。ぼくは病室から出るように促すとお膳に載った食事にを伸ばし、いただきますといってもぐもぐと静かに食べ始めた。
「ごちそうさま」
一通り食べ終えると、お膳に食器を戻すと同時に服薬剤を飲み、冷たい病室のベッドにごろんと体を転がした。
「はあ・・・なんで精神病院なんかに入っちゃったんだろう・・・」
考えられる要因は三つ。
一つ、テレビや雑誌に載っている幽霊は、実は商売のために作られた真っ赤な嘘であるということに気づかず、子供ながらに信じていた節があったということ。
二つ、高校時代に付き合っていた彼女の別れ際の言葉が呼び寄せた離婚の悪霊が独身を呼びかけるように今も纏わりついている可能性があるということ。
三つ、昨日見た巨大な狼の声がする夢が、実は現実に起きていたということ。
恐らくは精神病院系のホラーゲームを視聴し過ぎた影響でこのような結果を招いた事柄も十分にありえるが、だとすればあの悪夢と幻聴は成人する以前に聞こえていたものであろうか?もしくは心霊番組でよくある除霊前に憑りつかれている芸能人側の方もなくはない。だがしかし今はそんなことよりも重大なことがある。
それは仕事場である來之原に帰ることができないという現状だ。
「一刻も早く帰宅せねば・・・全国で私の本を待っているすべての読者に泣かれる・・・」
焦燥とした気持ちが余計にこの病室から脱出せねばという不安を掻き立てる。僕は焦りと恐怖から必死に檻のドアをこじ開けようとするも、さすがは精神病院。不安と恐怖に侵された凶暴なサルが脱走しないように頑丈につくられている。急遽僕はラノベに載っていたある特殊能力を思い出すと、自分の精神に呼びかけ、特殊能力の再現に取り掛かった。幸いにもその特殊能力は精神改変からものの5分で完成には至ったものの、やはり現実には無いものと否定されるのか、檻の鍵が開くことは永遠に叶わなかった。
「駄目だ・・・全然開かない・・・」
僕は途方に暮れた。不運にも僕のステータスが危ぶまれることにはならなかったものの、この恐怖の檻からは一歩たりとも出ることさえも叶わなかった。
「仕方ない・・・寝るとするか・・・」
仕方なくベッドに横たわると、無機質なほどに冷え切った布団を上にかけ、明かり一つない暗闇の中でひっそりと僕は目を閉じた。
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