第8章 約束 (3)
「じゃ、あとはごゆっくり」お父さんが手を軽く振り、さっさとリビングの奥へ引き揚げていく。
慌てて背中に声をかけた。
「あ、あの! ありがとうございます!」
その声に、お父さんが振り返る。
柔らかな笑み。けれど――その奥の目。
「……つばさくん。……よろしくね」
低く、静かな声。
その一瞬。優しさだけではない何かが、確かにあった。
“娘を頼むよ”――という信頼。そして、“分かってるよな?”――という警告。
その二つを同時に宿した、父親の目。
空気が一瞬、張り詰める。
……こ、こええ。背筋がぞわっとする。さすがは唯さんの父親だ。
いやいや、分かってますとも。分かってますとも!何もしませんから‼
そんな決意表明を心の中で必死に叫びながら、ぼくは見送るお父さんの背中に、ぺこりともう一度頭を下げた。
焚き火の中で薪が爆ぜるぱちぱちという音だけが、やけに鮮明に耳に届いてくる。
「つばさー、はやくー!」
唯さんの声が届いた。動きやすい服に着替えてきている。焚き火のオレンジがちらちらと揺れている。
ご両親が奥へ引っ込んで、静まり返った庭。まるで舞台の幕が下りて、照明だけが残ったみたいな静けさ。庭の木が控え目に添えられたあかりに浮かんでいる。
敷居を超えると、そこに並べられたサンダル。新品のように整っていて――ぼくの分だ。
サンダルを履き、夜の空気に足を踏み出す。秋の気配を含んだ風が頬をかすめて、薪の燃える匂いが甘く混じる。
ぱちぱち、と薪が弾ける音。グリルの上では、炎が肉の脂を舐めていた。オレンジ色の光が、唯さんの横顔を切り取る。
「もう焼けてるよ。早く食べよ。もう、わたしお腹空いて背中とくっついちゃう」
そう言って笑う唯さんの声が、夜の庭にやさしく溶けていく。トングを手にしたその動きが慣れていて、リズムを刻んでいるみたいに動いている。
「ぼくもやります」と手を伸ばすと、唯さんがちらりとこちらを見る。
「もう……」と、呆れたように笑って――少し真面目な声に変わる。
「つばさ。敬語はやめて。ね?」
その一言が、やけに近く感じた。火の明かりのせいか、頬が少し赤い。
「それから――唯、って呼んで」
小さく俯いたまま、グリルの火を見つめている。そのまつげの影が、炎のゆらめきに合わせて震えた。
(唯……)
口の中でそっと転がしてみる。名前を呼ぶことが、こんなに難しいなんて。
「うん。……わかった。唯」
声に出してみた瞬間、不思議なほど自然に、息が抜けた。舌がもつれることも、変な間もない。
唯さんが顔を上げる。目が合う。その瞳が、やわらかく細められる。
「うん。ありがと、つばさ」
照れくさそうに笑いながら、串に刺した肉をひょいと持ち上げる。焚き火の光が、頬に揺れる赤を落としていく。
――開演前の講堂、舞台裏。「メンデルスゾーンじゃない、チャイコフスキー!」と叫んだ自分。その声に振り向いた唯。青いドレスの裾が、照明の下でふわりと広がっていた。
今はグレーのスウェットにデニム。けれど、焚き火の光に照らされたその姿は、あの時と同じくらい――いや、それ以上に美しい。
炎の色が唯の髪に溶け込んで、夜の庭にそっと浮かび上がらせていた。
そして今になって――気づく。ぼく、めちゃくちゃお腹が空いてたんだ。
切り分けてくれた肉も、焦げ目のついた野菜も、あっという間に皿が空っぽになってしまった。
「沢山あるから。遠慮しないでね」唯が笑う。その笑い声に、薪の爆ぜる音が重なる。
「ぼくも、切るよ」ステンレスの串を手に取る。
「っあちちちっ!」
指先に走る刺すような熱。あわてて串を放り出すと、唯がすぐに手を伸ばしてきた。
「ほら、じっとして」
柔らかい布の感触。おしぼりで包まれた指先に、唯の手の温度がそっと重なる。
「慌てなくていいよ。ゆっくりで」
その声が、やさしい。火の明かりが、頬の輪郭を淡く染めていた。
……そうだ。慌てたら、もったいない。 せっかくの、唯とのキャンプデートなんだから。
渡された手袋をはめて、今度こそ慎重に串をつかむ。表面にメープルの刻印が入った木製のまな板。堅い種類の木の感触が指に心地いい。
肉と野菜を切り分けるたび、ナイフの刃がやわらかい音を立てる。
「ふふっ。なかなか上手じゃない」
唯がそう言って微笑む。その口調に――ふと、あの上品なお母さんの声色が、少しだけ重なった。
やっぱり親子なんだな、と思う。
切り分けた肉を唯の皿に盛りつけて、「どうぞ」と差し出す。
唯が嬉しそうに「ありがとう」と言って、ふたりで声を揃えて――。
「あらためまして、いただきます」
……じんわりと、味が広がる。
噛むたびに、炭の香り。舌の上に、脂の甘みが溶けていく。体の奥まで、あたたかくなる感じがした。
(ああ、これが“人心地つく”ってことか)
さっきまでは、緊張と高揚で味なんて分からなかった。ようやく今、目の前の唯と、同じ時間をゆっくり噛みしめられている気がする。
「ごめんね。……驚かせて」
唯がぽつりと呟いた。
焚き火の明かりが揺れて、その表情の一部を照らしたり、隠したりする。
「そんなことないよ」ぼくは笑って返す。「そりゃ、びっくりはしたけど……でも、この方がいい。ただの街中デートより、ずっと」
それは本音だった。
唯の家の庭――見上げれば雲間に隠れかけた月。下を見下ろせば、斜面の向こうに広がる街の灯り。
たまにしか通らない車のライトが、遠くの道路をひと筋だけ白くなぞっていく。
まるで本当に、山の上でキャンプしてるみたいだ。静かで、澄んでいて、ふたりだけの世界。
そのとき、唯がそっと肩に近づいてきた。焚き火の光が彼女の髪に揺れる。
「これをね……やっておきたかったの。つばさと」
その声が、火の粉のはぜる音にかき消されそうなくらい小さかった。
――やっておきたかった。
その言い方が、少しだけ胸に刺さる。
“これを最後に”そんな響きが、微かに混じっていた気がして。
心が、ざわついた。
「行っちゃうんでしょ?……イギリス」
焚き火の音の合間に、ようやく絞り出せた。もう、聞かずにはいられなかった。
唯は手にしていた串をそっと皿に置き、炎の向こう側で、静かにうなずいた。
「うん。……行くよ。すぐに」
その瞬間、胸の奥で何かが、かすかに崩れた。
……やっぱり。
唯はもう決めていたんだ。今日のデートも、両親を巻き込んでまで計画したのは――その前に、ちゃんとこの時間を過ごしておきたかったから。
(そんな……)
せっかくここまで距離を詰めたのに。やっと、心が触れられるようになったのに。その手が、指の間をすり抜けていくような気がした。
「どのくらいの間、行ってるの?」
焚き火の光が、唯の横顔を縁取る。影になった瞳の奥で、淡い決意が揺れていた。
「3か月くらいかな。来週には行く。クリスマスと正月は向こうで。 あとは……そうね、二月初めくらいには帰ってこれると思う」
……なんだ。たった3か月。大したことないじゃないか。
そう思ったはずなのに、喉の奥がきゅっと詰まる。
……あれ?頬に、何か。指先で触れると、冷たい。
――涙。気づけば、焚き火の光に反射して、一粒、二粒と落ちていた。
行ってほしくない。その言葉が、頭の中で渦を巻く。
だって、唯は――ぼくの……。
(ああ、しまった)
そうだ。言わなきゃいけないことが、まだある。
息を吸って、唯を見つめる。
「唯。ぼく――」
その瞬間、唯の指先がそっと伸びてきた。人差し指の腹が、ぼくの唇に触れる。やわらかく、けれど確かに封じられる。
驚いて、言葉を失う。
唯はゆっくりと首を振った。
「待って。……それは、もう少し」
焚き火の光に、彼女のまつげが揺れる。
「もう少しって……どのくらい?」
問い返す声が、夜気に吸い込まれていく。
唯は、少しだけ目を細めて――かすかに微笑んだ。
「少し。……ほんの少し」
その笑みは、炎の光に包まれて、どこか切なく美しかった。
……ほんの少し、か。
その言葉が、胸の奥に染み込んでいく。まるで焚き火の残り火みたいに、消えそうで、消えないまま。
薪の火は、ぱち、ぱち、と最後の音を立てて、やがて静かに熾火になった。赤い粒が残り火のように灯り、炭の奥からじんわりと熱を吐き出している。
唯と肩を寄せ合いながら、それを黙って見つめていた。何も言わなくても、伝わるような沈黙。風が止まって、遠くで犬の声がひとつだけ響いた。
「ほら。月がきれい」
唯がそう言って空を指す。見上げると、白く冴えた月が裏山の高い梢にかかっていた。少し欠けたその輪郭が、雲の切れ間に滲む。
「きれいだね」ぼくも見上げながら答える。
唯が小さく笑って言った。「イギリスでも、月は見えるよ。時差があるから同じ月じゃないと思うけど」
――3か月。その言葉が、また胸の奥でざわつく。そのあいだ、唯は遠い空の下でこの月を見ているんだ。
想像した瞬間、息が詰まるような痛みが走った。
唯がそれに気づいたのか、そっとぼくの手に触れてくる。
「そんな顔しないで。ちゃんと帰ってくるから。それに……」
「それに?」
問いかけると、唯はわずかに口を開きかけて、「……えっと。ううん。何でもない」と視線を落とした。
焚き火の残光に照らされながら、膝を抱えて丸くなる。その目だけが、ちらりとぼくを見て、すぐに火の方に戻る。
(唯も、言えないことがあるんだろうな)
ふたりの間を、夜風がひと筋だけ抜けていった。ちょっと、ぶるっと来る。
その静寂を破るように、唯がぽん、と立ち上がる。
「ね。サウナ、入ろうよ」
「……え? サウナ⁉」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「うち、サウナあるんだよ。小さいけど」唯が悪戯っぽく笑う。
……いや、この家を見れば、もう驚く方が失礼かもしれない。でも、問題は――そこじゃない。
「ふ、ふたりで?」
「うん。大丈夫だよ。ウエア着るから」
安心しかけた、その次の一言。
「……それとも、裸がいい?……いいよ?わたしは」
――え。
焚き火の残り火に、唯の瞳が光を宿す。あの挑むような、いたずらっぽい笑み。
「い、いや。いいよ、それはまた今度で」
……いや、“また今度”ってなんだ。どんな今度だ。
思考が追いつかないまま、ぼくの脳裏で一気にフラッシュバックする。
――さっきの回想再び。舞台裏に汗だくで駆け込んで、唯に抱きしめられた瞬間。『ごめん、ぼく汗かいてる』と謝ったぼくに、唯が囁いた言葉。
『いいよ、気にしてないよ。だって、今夜はもっと汗をかくから』
……ああ。あー。
あれは――そういう意味だったんですね?
ぼくはてっきり、……いや。……はい。何でもないです。なんでも。
唯の察したような笑い声が、夜の庭に静かに溶けていった。
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