第7章 終幕 (4)
「つばさくん、カラオケ一緒に行かない?」
振り返った深雪さんが、いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。その目が、まっすぐこっちを射抜いてくる。
「え、あ、いや、その……」とりあえず曖昧に笑ってごまかす。
隣のさなえと、そっと目を合わせる。無言のまま、視線だけで会話。――どうする?――いや、どうしよう。
そんな無音のやりとりを、深雪さんは見逃さない。「……あらぁ?もしかして、お邪魔かしら?」わざとらしく首を傾げながら、ニヤニヤ。その小悪魔っぽい笑みに、心臓がドクンと跳ねる。
「い、いや、そんなことは……」言い訳にならない返事をしているうちに、背後から柔らかな声が飛んできた。
「深雪、今日はつばさ、疲れてるから。勘弁してあげて」
唯さんの声。助かった……。
「そっかぁ」あっさりと頷き、そして――ふわりと笑って、手を振る。
「じゃあさ、また今度遊ぼうね。絶対だよ?」
……まぶしい。キラキラしすぎです、その笑顔。反射的に目を細めるしかない。
そして――その背後から、ひやりとした視線。唯さんがじっと、こっちを見ている。……怒ってる?というか、あきれてる?どっちにしろ、怖い。
隣では、さなえが完全に無言モード。こわい。見れません。
「……ぷっ」琴音さんが、不意に吹き出した。驚いて振り向くと、ほんの少し口元を押さえている。その目尻が、かすかに緩んでいた。
――この人が笑うの、初めて見たかも。その小さな変化に、なぜか少し救われた気がした。
「じゃ、ステージの片付けあるから。ごめんね、また」
唯さんが手を振りながら、ぱたぱたとホールに戻っていく。その背中を追うように、他の部員たちも次々と続いた。タキシードの裾が舞台袖への通用口に消えていく。
残されたのは、さなえと、深雪さん、そして琴音さん。西日が傾き、窓の外が黄金色に染まっていく。祭りの終わりの、静かな余韻。
「……じゃあ、校門まで送るよ」
夕焼けの中、影を伸ばしながら歩き出す。足元には、どこかの出し物のチラシが一枚、風に舞っていた。
秋風が、ひゅうっと校庭を吹き抜ける。乾いた空気が彼女たちのスカートの裾を揺らし、夕暮れの匂いを運んでくる。
校門の上にあった「扶陽学園文化祭」のゲートはすでに撤去され、制服の上着を脱いだ実行委員の男子たちが、木造の骨組みを黙々と解体していた。かん、と金槌がぶつかる音が小さく空に響いていく。
その様子を横目に見ながら、ぼくは小さく頭を掻いた。
「今日は、ありがとう……なんて。ぼくは何にもしてないけど」
言ってから、少しだけ気恥ずかしくなった。
「そんなことないよー?」
深雪さんが、ぱっと笑顔を向けてくる。風に髪をなびかせながら、まぶしいくらいの明るさで。
「第一部のコンチェルト。凄かったわよね。あんなに楽しそうに弾いてる唯、初めて見たもん」
その言葉に、ぼくは小さく息を呑んだ。唯さんの演奏。あのときの笑顔――。
「よかった。最高」
すぐ隣から、琴音さんの静かな声がする。彼女はすっとぼくに寄ってきて、目線を合わせるように言った。
「町田唯が本気を出したところ、やっと見れた」
その言い方に、満足げな響きがあった。
でも、続く深雪さんの言葉はぼくを揺さぶってくる。
「……あれはやっぱり、つばさくんのおかげだと思うよ?」
「えっ」
とっさに返す声が、裏返りそうになる。
まっすぐ白い歯を見せて、さらに畳みかける。
「ね、そう思うでしょ?唯、絶対つばさくんのために弾いてたと思うよ」
「そ、そんなこと……」
もう、どう返していいのか分からない。俯きかけたぼくの顔を、ふいに覗き込んでくる気配。
「わたしも、あんな演奏……させてもらいたいな」
下から見上げるように、深雪さんがぐっと距離を詰めてくる。その瞳が、冗談なのか本気なのか、まるで読み取れない。
「ちょ、ちょっと!」
横から鋭い声が飛ぶ。さなえだ。
「そんなに近づかないでください!つばさが困ってます!」
きっぱりと言い放つと、ぼくの腕をグイッと引いて引き離す。引っ張られる勢いでバランスを崩しかけたところに――。
ゴスッ。
「ぐえっ」
肘が、わき腹にクリティカルヒット。容赦のない一撃に、呼吸が止まる。
「……な、なんで……」
「へえ〜、意外と独占欲あるんだ?彼女じゃないのに?」
「……っ!!」さなえが絶句。赤くなって俯く。
まあまあ、となだめるぼくのわき腹に、なぜかまた肘が鋭く入る。
「ぐえっ!」
深雪さんがくすくす笑っている。琴音さんは相変わらず無表情だけど、目が少しだけ細くなっている気がした。
校門の向こう、夕日がビルの隙間に沈みかけている。橙色に染まるその光の中で、ぼくの鼓動だけがやけに騒がしかった。
「じゃあねー! またねー!」
坂道を降りていくふたりが、後ろ手に手を振っている。そのすらっとした背中と小さな背中に、ぼくも手を振り返しながら見送った。
風が、またひとつ冷たくなる。人が減った学園の通りに、夕暮れの影がすっと伸びていく。
……これで、おしまい、か。
文化祭の喧騒。熱気。興奮。幕が降りると、すべてが嘘だったかのように、静かになる。その静けさが、妙に胸に沁みた。
「後夜祭、いかないの?」
すぐ隣から、さなえの声。制服の袖口を軽く引いて、顔を覗き込んでくる。
「行かないよ。……もう、くたくた」
乾いた笑いしか出なかった。本当に、いろいろありすぎた。
曲の差し替えが発覚したときの、あの焦り。唯さんに知らせようと走り回って、たどり着いた舞台袖――彼女に抱きしめられた、あの瞬間の静けさ。
第一部のチャイコフスキー。あれは今でも、夢だったんじゃないかって思う。
そして演奏後の、あの大沢との対決。唯さんの背中に宿っていたのは、悪魔なのか天使なのか。
理子さんの突然の来訪に、深雪さんと琴音さんまで現れて。そしてさっきまでの、あの第二部の熱狂。あんな世界のど真ん中に、自分がいたなんて。
……もう、いっぱいだ。心も、頭も、容量オーバー。
それに――。
(このあとは……)
ついにやってきた、唯さんとのデート。待ちに待った、ふたりきりの時間。
……ついに、ぼく。童貞卒業しちゃったり⁉
……なーんて。
馬鹿な妄想をしてふと横を見ると――。
さなえが、いない。
えっ。
慌てて振り返る。
さなえは、すでに昇降口のあたりまで歩いて行ってしまっていた。制服のスカートの揺れが、夕陽をはじいている。背中しか見えないけど、なんとなく――ちょっと怒ってる、かも。
「ま、待って!さなえっ!」
急いで駆け出す。落ちる夕陽が、校舎のガラスに映っていた。その赤さが、やけに目に沁みた。
写真部の部室に立ち寄ると、窓の外はすっかりオレンジ色に染まっていた。レンズのキャップを外して軽く埃を拭き、カメラを棚の定位置に戻す。「おつかれー」部長が椅子にもたれたまま言う。
「はい、あとでファイルはアップロードしておきます。お疲れ様でした!」短く返して、踵を返す。廊下の奥、生物準備室へ。
ドアを開けると、もうほとんど片付けが終わっていた。テーブルの上には巻き上げたポスターが何本か残っているだけ。奥では、涼太とさなえが並んで最後の片付けをしていた。
「おー、もう終わり?」
声をかけると、涼太が振り向き「まぁな。ほとんど片付いた」
「涼太とさなえは、後夜祭行くの?」
ぼくの問いに、涼太は一瞬口をつぐんだ。「俺は……」言いかけて、なぜか言葉を濁す。
その横で、さなえがくいっとぼくの袖を引く。そして、耳もとにそっと顔を寄せて囁いた。
「涼太、他校の彼女が来てるから、そっとしておいてあげて」
……えっ?そうなの⁉
思わず変な声が出そうになるのをこらえた。……なんだよ、あいつ。裏切りやがって。他校に彼女作っていやがったのか……って、別にいいんだけど。
「わたしは取材があるから、最後まで出るけどね」そう言って、さなえはポスターを抱えてくるりと向きを変えた。
「そっか」としか言えなかった。
……ふーん。なんだか、少しだけ寂しい。
気づけば、もう春のころみたいに三人でつるむこともなくなった。冗談を言い合って、帰り道でくだらない話をして――そんな時間が、いつの間にか過去のものになっていた。
今日のこの空気が、そのことを決定的に突きつけてきた気がした。
(さて、ぼくは……どうしたらいいんだ)
唯さんは、オーケストラ部の片付けが終わるまで出てこないだろう。それに、あれだけの盛り上がりのあとだ。部員たちで打ち上げがあるに決まってる。ぼくだけ、ぽつんとここに残っても仕方ない。
机の上に置いたスマホを、なんとなく手に取る。画面が灯り、通知の数が目に入った。ずいぶん前に――唯さんからのメッセージ。
開くと、そこには短い一文。
「終わったら一度、家に帰って待っていてください。つばさの家、近いんでしょ?」
指先が止まる。
時間を見ると、第二部が始まる前の時刻だった。ずっと前に送られていたのに、気づかなかった。
(……唯さん、楽しみにしてくれてたんだ)
胸の奥がじんわりと熱くなる。それだけで、疲れも不安も少しだけ薄れていく気がした。
「気づかなくてごめん。了解。待ってます」
送信ボタンを押すと、ほんの数秒で返信が返ってきた。
「ごめんね!待ってて!😣」
丸い絵文字まで付いていて、思わずふっと笑みがこぼれる。その明るさに、肩の力が少し抜けた気がした。
まわりを見回すと、先輩たちが部室の片付けを終えて出ていくところだった。「後夜祭、行くから。すまないけど鍵、よろしくねー」軽く手を振る姿が、ドアの向こうに消えていく。
「ごめんね、つばさ。よろしく!」さなえもポスターの筒を抱えて、涼太と一緒に続いた。「おう」ぼくも手を振り返す。
扉が閉まる音。途端に、静寂。
いつもの、生物準備室に戻った。昼間の喧騒が夢だったように、今は小さなモーター音と時計の秒針だけが響いている。
「アオくん、疲れただろ?」
ガラス越しにのぞきこむと、アオダイショウがゆっくりと体をもたげ、チロチロと舌を出しながらこちらを見返してくる。瞳の奥に光が反射していて、なんだか言葉が通じそうな気がした。
「じゃ、帰るね。また」
飼育ケースをひとつずつ確認して、ライトのスイッチを落とす。蛍光灯がぱちりと音を立てて消え、部屋がゆるやかに闇に沈んだ。
鍵を閉め、第二職員室に返却する。「お疲れさん」初老の理科の先生が、書類を鞄に詰めながら軽く声をかけてくる。
「お疲れさまでした」
互いに小さく会釈して――さて。帰りますか。
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