第4章 転機 (2)

 横顔を、ふと見つめる。歩くたび、揺れる髪が光をうけてやわらかく揺れていた。

 ――こんな花、あったよな。

 白くて、少し大きめの花。枝の先に咲いていて、桜が咲くちょっと前に見かけるやつ。


 名前が……思い出せない。でも、あの涼しげな雰囲気が好きだった。春の気配はするけど、まだ冷たさが残っていて。咲いてるのに、どこか静かで控えめで。

 ……だから、唯さんのことも、きっと――そういうところに惹かれているのかもしれない。


 なのに、この人は。あのときぼくが訊いた質問……結局、答えてくれなかった。この先は決まっていない、とも。

『この復讐のゴールは、どこにあるのか』

 ……大沢校長が失脚したら、それで終わりなんだろうか?そうじゃない。そんな単純な話じゃないはずだ。


 仮に校長が退いたとしても、きっと第二、第三の“大沢”が現れる。都合の悪いことには目を背けて、自分にとって都合のいい正義だけを掲げて、肩書と金のために椅子を取り合う。その繰り返しが、永遠に続く――。


「……ばさ」

 名前を呼ばれる。ぼんやりしていた意識が、すこし揺れる。

「つばさってば」

 腕を、ぐいっと引っ張られた。肩が軽く揺れて、思わず唯さんのほうを見ると、頬をわずかに膨らませてこちらを見つめていた。目尻がほんのり赤い。


「……わたしの声、聞こえなかった?」

 あ。しまった、って思った。

「考え事?……さなえちゃんのことでも考えてたんじゃない?」

「い、いえ。違いますよ。……ははっ」

 笑ったつもりが、喉が乾いていて、変にわざとらしい音になってしまう。

 じっと見つめてくる。疑いと、少しだけ拗ねた空気をまとって。


「ふーん」

 そう言って、顎で目線の先を示す。「……ほら、さおりんと悟さん、あっちに行っちゃったよ」

 差されたその先、改札の向こう。沙織さんと悟さんが、並んで立っている。……手を、繋いでる。悟さん、やるじゃん……なんて思う前に、なにかがカチッと切り替わる。


 よーし。こっちだって。

「ごめん、唯さん」そう言いながら、そっと手を伸ばす。唯の指先に触れる。やわらかくて、少し冷たい。

「……ぼく、唯さんのことしか見ないから」

 掌を探るようにして、指を絡める。手のひらが合わさる。心拍数が、一気に跳ね上がる。


 びっくりしたように目を見開く。大きく、まっすぐに。まるで、胸の奥まで見透かすような視線。

 そして――ふっと目を細めて、ぼくを見た。やさしくて、いたずらっぽく。その瞳はまだ揺れている。

 まるでぼくを探っているように。


 改札を通る時、その手をそっと離した。駅の機械にふたりで引っかかるわけにもいかないし、仕方ない――そんなふうに自分に言い聞かせる。

 けれど、通過して振り返ったとき。再び手を差し出そうと、さりげなく待っていたのに、唯さんはすっとポケットに手を入れてしまった。


 ……え?

 空中に取り残された自分の手を見下ろす。ちょっと間抜けだ。

 胸の奥が、ひやりと冷える。――怒ってる?もしかして、さっき声を聞き逃したときのことを、まだ気にしてるのか。

 不安がぐるぐる回りはじめるその瞬間。すっと隣に来て、低い声で囁く。

「嘘つき」


 その言葉が、不意に刺さる。

「……嘘じゃないですよ」慌てて答えながら、声の調子を整えようとする。

 唯さんは歩幅を合わせながら、少し顔を近づける。「だったら、何を考えてたのか教えて」

 その言い方が、なんだか本気だった。目が、冗談じゃない色をしている。


 その視線をまっすぐ受け止めたまま、ポケットからスマホを取り出す。「……ちょっと待っててください」

 画面を素早く検索して、指先を止める。「あ、これか……コブシって言うんだ……」

 そうつぶやきながら、スマホの画面を唯に差し出す。


「……?」

 首をかしげながら画面をのぞきこむ。ちょっと眉を寄せて、小さく瞬きする。

「……これのこと、考えてたの?」

 見せたのは白い花。春先に咲く、まだ冷たい空気に咲くコブシの写真。季節外れなのはわかってる。けど、そうなんだ。

「唯さんって、何かに似てるなって思って……。思い出したのが、この花で。……名前なんだっけって、考えてたら……」


 声が、だんだん小さくなる。途中で自分でも何を言ってるのかわからなくなってくる。恥ずかしさが喉に詰まって、息が浅くなる。

 そんな言葉を、ぽかんとした顔で聞いていた。

 けれど、やがてその口元に、ふわっと笑みが浮かぶ。下を向いていた唇の端が、ゆっくり上がっていく。目元の緊張がほどけて、頬に小さなえくぼが生まれる。

 まるで――ほんとうに、そのコブシの花みたいに。少し冷たい空気の中で、やさしく咲くような笑みだった。


「あの……こんどは、ぼくが聞いてもいいですか?」胸の奥に溜めていたものを吐き出すように、ゆっくり口を開いた。足元に視線を落とし、唇の内側を軽く噛んで、声を整える。


「え?……うん。いいよ」顔を上げ、ぼくの目をまっすぐ見た。電車の音が遠くから響いてきて、ホームの空気がわずかに震える。

「……その……さっき、ぼくがさなえのこと考えてるんじゃないかって。……そう思ったんですか?」

 唯さんの睫毛がかすかに揺れる。「うん。……思ったよ。……さなえちゃんって、つばさくんの幼馴染なんでしょ?」その声は少しだけ硬く、ほんのり不安を含んでいた。


 意外だった。「そうですけど……小学校が一緒で。それで、高校でもまた一緒になって。……そういう感じです」

 言いながら、胸の奥がちくりとする。“好きじゃないのか”って聞かれたら、嘘になるかもしれない。だけど――まだそんな関係でもない。そう言いたかった。でも、それを言葉にしてしまうと何かを壊してしまいそうで、そっと飲み込んだ。


「……そっか。……それじゃ、わたしと深雪みたいなものだね。……ふふっ」

 唯さんが笑う。これから聴きに行くコンサートに出るという沙織さんの妹。きっと、親友なのだろう。

 ぼくとさなえは、親友……なのか。そう思うことにする。今は、それでいい。


「電車、きたよ」

 振り返ると、銀色に青いラインの入った車体が、ゆっくりと滑り込んでくる。風が足元を抜けていく。

 改札の先では、沙織さんと悟さんが手をつないだまま電車の扉が開くのを待っている。ふたりの指先がしっかり絡まっているのが、ぼくの目にもはっきり見えた。


「行こ」指先がやわらかく絡まる。

「……はい」

 横顔を見つめながら、そのまま二人の後に続いた。胸の奥で、電車の音と心臓の鼓動がひとつに溶けていくのを感じながら。


 電車のロングシート。悟さん、沙織さん、ぼく、唯さん――その順に腰を下ろして揺られている。

 つまり、ぼくは両側を大人の女性と唯さんに挟まれているわけで。……これは、落ち着けっていうほうが無理な話だ。

 硬くならないように、平常心、平常心――そう繰り返すほどに、腕には無駄な力が入り手のひらはじっとり汗ばんでくる。エアコンの吹き出す冷風が、左右からそれぞれ違う香りを運んでくる。甘く、涼やかで、それでいて少し温かい。


 視線を落とす。右には、沙織さんの深緑のスカート。ひざ丈からのぞく黒いストッキング越しの膝。露わになってはいないのに、下にある太ももの存在感が否応なく意識に迫ってくる。

 左には、唯さんの淡い水色のワンピース。裾にはレースみたいな花柄が編み込まれていて、丈は長く膝を隠している。けれど、その布地の下にはやわらかく温かい質感が確かにある。軽く触れているだけで脚にその感触がびんびん伝わってくる。

 ――目的の駅は、まだ遠い。


 電車は大川の鉄橋に差しかかる。窓の外、水面が陽を受けてきらきら光っている。先日の台風で氾濫した河川敷には、低木や葦が一方向に倒れ込んでいて、生々しい跡をまだ残していた。

 左手は繋いで指を絡めたまま。指先がときどき微かに動いて、繋いだ感触を確かめるみたいだ。その一方で、右手がふと沙織さんの手にかすってしまった。思わず、さっと引っ込める。


「す、すみません」条件反射みたいに声が出てしまう。

「……いいのよ」沙織さんが微笑み、少しだけ首を傾ける。落ち着いた大人の余裕。その声の奥に――“そんなこと気にしないで、彼女を大事にしなさい”――そんな含みがあるように聞こえた。


 ふと、唯さんの横顔に目をやる。彼女は向かい側の窓に流れる景色をじっと見つめていた。頬に落ちる光がやわらかく、少し遠い横顔。

 きゅっと、絡めている指を握り直す。すると自分の手に視線を落とし、ほんの一瞬ためらったあと、目を合わせて――微笑んだ。

 その笑みだけで、胸の奥が熱くなる。電車の揺れよりも、自分の鼓動の方がずっと強く響いていた。


 目的の音楽大学キャンパスは、ターミナル駅からさらに地下鉄で数駅の先にある。その周辺に、洒落たレストランなんてあるはずもない。

 だからなのだろう。「少し早いけど、入れると思うから」と言って、沙織さんがビル街の一角にある、ひっそりとした料亭へと一人で入っていく。


 外観は、和風建築を模した控えめな意匠。入口の前には竹垣と石灯籠が据えられていて、駅の喧騒とは別世界のようだった。

 ほどなくして、沙織さんが姿を見せ、「準備できてるって」と手招きする。悟さんを先頭に、三人はおずおずと続く。


 ……こんなところ、来たことない。いや、想像すらしたことがなかった。

 足を踏み入れると、まず目に入ったのは、黒い玉砂利が埋め込まれた土間。その奥に、太い木材を磨き上げた上がり口。脱いだスニーカーを揃えて並べ、そっとあがる。


 廊下の幅は、うちの玄関の倍はある。艶やかに光る板敷の通路を、足音を立てないように進んでいくと、腰の高さの障子窓から中庭が見えた。

 水盤のなかに咲く白い睡蓮。その向こうに据えられた鹿威しが、かぽーん、と澄んだ音を響かせる。


「……越後屋、おぬしも悪よのう」

 誰にも聞こえないようにと、小声でつぶやいたつもりが、すぐ横で唯さんがふふっと噴き出した。肩を小さく震わせながら。

 その笑いに、緊張でカチコチに固まっていた悟さんが振り返る。見れば顔が引きつっていて、心ここにあらずな感じ。


 そして案内された個室の前。出された襖に手をかける悟さんが、妙にかしこまった調子で「し、失礼します」と言って入っていく。客なのに。

「ふふっ……」また唯さんが堪えきれず笑っている。

 彼女は、そこまで緊張していないようだった。こんな空間に慣れている――そんな雰囲気さえある。


 ……沙織さんと、以前に来たことがあるのか。いや、それより――あのジョージ・スコットマンと、こんな場所で日常的に食事をしているのかもしれない。そう思った瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。


 ――まただ。

 姉によく言われる。“すぐ人と比べる”って。わかってる。よくない癖だって。

 でも、比べずにいられない。自分には手の届かない空間。呼吸が浅くなるこの場所で、彼女はごく自然に息をしている。

 その差が、痛いほど身に沁みてくる。笑っていた横顔が、今はどこか遠く見えた。


 着物姿の女性が「ごゆっくり」と丁寧な所作で一礼し、静かに襖を閉めると張りつめていた空気がふっと緩んだ。

「……沙織、こんないい所だなんて、事前に教えておいてくれよ」悟さんが座布団の上で足を崩し、肩を回しながら天井を見上げる。


 つられて視線を上げる。茶色い木の皮のようなものが六角形に丁寧に編み込まれ、幾何学模様を浮かび上がらせている天井――目を凝らすほどに細やかで、ただの飾りじゃない重みがある。……すげえ。天井にここまで手間をかけるなんて、信じられない。


 ふと視線を戻すと、部屋の奥。床の間、と呼ぶんだっけ。中央に青く薄い水盤が据えられ、その上にはリンドウの花となにかの枝が一輪、生けられていた。その枯れた風情が、胸の奥にすっと沁み込んでくる。


「素敵ね」唯さんが小さくつぶやいた。視線の先には、水盤の生け花。青に深みがあり、まるで秋の空気を閉じ込めたみたいな色だ。

 その横顔を見た瞬間、時間が止まる。光沢のある黒髪に、藍の花の色がよく映える。まるで一枚の絵の中の人物みたいに見える。

 ――また、ぼうっと見とれてしまう。呼吸をするのも忘れるほど、胸の奥が静かに熱くなっていく。

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